誰も愛してくれないと言ったのは、あなたでしょう?〜冷徹家臣と偽りの妻契約〜

山田空

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一話

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人は、失う瞬間になって初めて気づく。
 自分がどれほど孤独だったのかに。

 婚約者が「愛情などない」と笑った日も、
 父が“家のために泣くな”と言った日も、
 わたしはただ耐えるだけだった。

「エルナ様、
 あなたは——もう十分に頑張りました」

 その声を聞いたとき、初めて胸が痛んだ。
 振り返ると、父の側近であるレオンが
 まっすぐにわたしを見ていた。

「家を出ましょう」
「……え?」
「このままでは、あなたが壊れる」

冷徹と恐れられる男の瞳に誰よりも優しい光が宿っていた。

 レオンの言葉が胸の奥に落ちていく。
 簡単に頷けるはずもないのに、拒む理由ももう残っていなかった。

「……本当に、家を出てもいいのでしょうか」

思わず零れた弱い声にレオンは少しだけ目を伏せる。

「“いいか悪いか”ではありません。
 ——あなたがこれ以上、耐える必要はないというだけです」

 驚くほど静かな声音だった。
 責めも命令もない。ただ、わたし自身の痛みを見ている目だった。

「準備は、わたしがすべて整えます。
 今夜、このまま出ましょう」

「今夜……?」

「エルナ様、ここはもう安全な場所ではありません。
 あの侍女のことも——ご存じのはずです」

 胸が強く痛んだ。
 “あなたのせいで”と残して去った侍女の、あの冷たい目。

 わたしの何がいけなかったのか。
 どうして、誰も愛してくれなかったのか。
 ずっと、答えは出ないままだった。

「……わたしは、どうすればよかったのですか」

 掠れる声でつぶやいた瞬間、
 レオンがそっと手を伸ばした。

 触れる——かと思ったが、寸前で止まる。
 決して強要しない、しかし差し伸べられた手。

「何も。
 あなたはずっと正しかった」

 その一言に、喉の奥が震えた。

 涙は嫌われる。
 弱さは価値を失う。
 そう思い込んで生きてきたのに。

「行きましょう、エルナ様」

 レオンが立ち上がり、
 小さく灯るランプを手に取る。

「あなたが望むなら、逃げてもいい。
 ……望まなくても、わたしはあなたを守ります」

 差し出された手は――
 初めて“逃げてもいい”と言ってくれる手だった。

 その温かさに触れた瞬間、
 わたしは小さく息を吸い、そっと頷いた。

「……お願いします。レオン」

「はい」

 夜風が、閉ざされた屋敷の扉をそっと揺らす。
 わたしたちはその暗闇の向こうへ、一歩踏み出した。

——これが、偽りの契約へと繋がる最初の夜だった。

 屋敷を離れてしばらく歩いた頃、
 街灯の明かりが届かなくなる。
 夜の冷気が肌を刺し、わたしは思わず肩をすくめた。

「寒くありませんか」

 レオンが歩みを緩め、
 自分の外套をそっと肩に掛けてくれた。

「いえ……その、ありがとうございます」

「いえ。これは当然のことです」

 淡々としているのに、
 外套はどこか不自然なくらい温かかった。

 彼の歩幅は常にわたしより半歩分だけ遅く、
 置いていかれる不安を抱かせない。

 誰かとこんなふうに歩いた記憶は……思い出せない。

「レオンは、どうしてそこまで……」

 問いかけた瞬間、
 彼は立ち止まり、夜空を見上げるように息を整えた。

「理由はあとで話します。
 まずは……これを」

 差し出されたのは、
 小さな封筒と簡素な紙束。

「これは……?」

「“契約書”です。
 今日から一年間、あなたとわたしは表向きだけの夫婦になります」

 胸が震える。
 レオンは続けた。

「他家の縁談を封じるための、完全な偽装です。
 あなたに負担をかけないよう、条件はすべてこちらで調整しました」

 紙には丁寧に綴られていた。

一、互いに干渉しないこと
一、生活は独立を尊重すること
一、満了一年後、速やかに契約を解消すること
一、どちらかが望めば即時終了可能

「……ずいぶん、優しい条件なのですね」

「当然です。あなたに無理をさせる契約など、あり得ませんから」

 そう言うレオンの横顔は、
 冷徹と呼ばれた男のものではなかった。

「ただ……もうひとつだけ条件があります」

 彼は紙束の下から、小さな指輪を取り出した。

「周囲に説得力を持たせるため、
 最低限の“夫婦らしさ”は必要です」

 指輪に触れた瞬間、
 胸の奥で何かが静かに波打った。

「……指輪を、つけるのですか」

「はい。ですが——」

 レオンは指輪をわたしの手にそっと乗せるだけで、決して触れない。

「つけるかどうかは、あなたが決めてください」

 強要しない。
 束縛もない。
 ただ、わたしの選択を尊重する言い方だった。

 ――この人はいったい、何を背負っているのだろう。

「……つけます」

 自分の声が震えていることに気づきながら、
 指輪を薬指に滑らせる。

 その瞬間。

「……似合います」

 レオンの声が微かに揺れた。
 彼にしては珍しく、感情を隠しきれていないような。

「これで“契約夫婦”の準備は整いました。
 あとは、安全な場所へ行きましょう」

「どこへ……?」

「わたしの家です。
 そこなら誰にも邪魔させません」

 夜の闇の中で見えたレオンの瞳は、
 冷たさではなく――どこまでも深い決意の色だった。
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