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35話
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ルミナが歩き始める頃、エルナは時折、レオンの厳しい警護を振り切り、領地の主要な市場へと足を運ぶようになった。かつての侯爵家では考えられない、自由な日常だった。
レオンはエルナの安全を最優先するため、最初は猛反対したが、「領民の生活を肌で感じたい」というエルナの真摯な言葉に折れ、最小限の護衛と、念入りなルート確認を条件に許可した。
その日、エルナは三歳になったばかりのルミナと、侍女一人だけを連れて市場にいた。
「ルミナ、こちらよ」
ルミナは好奇心旺盛にきょろきょろと周囲を見渡し、エルナのコートの裾をしっかり掴んでいる。ルミナの笑顔は、この領地に射し込んだ光そのものだった。
侯爵家の娘だった頃、エルナが市場を歩けば、視線は恐れと好奇心に満ちていた。しかし今、市場の人々が彼女に向ける視線は、尊敬と親愛の念に変わっていた。
八百屋の主人は、エルナに新鮮なハーブの束を差し出した。
「奥様、いつもありがとうございます。このローズマリーは、特に香りが良いですよ。ヴァイスハルト様がお好きだと伺っています」
「ありがとう。レオンが喜ぶわ」
エルナは微笑み、会話を交わす。彼らが言う「奥様」という呼びかけには、形式的な敬意だけでなく、彼女が領地のために尽くしたことへの感謝が込められていた。
ルミナは、パン屋の大きなカゴの前で立ち止まった。
「ママ、これ、くろ!」
ルミナが指差したのは、レオンがいつも朝食で食べる、外皮が硬い黒パンだった。
「あら、そうね。レオンパパと同じ黒いパンね」
エルナはルミナの頭を撫で、小さなパンを一つ購入した。
(この子には、レオンの「黒」が、もう孤独の象徴ではないのね)
エルナは、ルミナにとって、レオンの黒衣は「冷徹な影」ではなく、自分を抱きしめてくれる温かい父親の色なのだと気づき、胸が熱くなった。
エルナが市場を歩き終え、帰り支度をしようとした時、彼女の護衛が小さな包みを差し出した。
「奥様。先ほど、ヴァイスハルト様から伝言と、こちらを預かりました」
エルナが包みを開けると、中には柔らかく暖かい、上質な白い毛糸で編まれた小さなマフラーが入っていた。
そして、添えられたレオンの筆跡で書かれたメモには、簡潔にこう記されていた。
『午後の風は冷たくなります。あなたが市場で立ち止まり、長く会話を交わすことを考慮し、ルミナにこれを。あなたは常に、領地の中心にいるのですから』
エルナは、思わず笑みがこぼれた。レオンは、離れていても、彼女の行動パターン(熱心に領民と話すこと)と、そこから生じる「不測の寒さ」まで予測し、対策を講じていたのだ。
ルミナは、すぐに白いマフラーを首に巻いて、嬉しそうに駆け出した。白い毛糸は、レオンの**「影」の過去とは対照的な、エルナとルミナの「光」**の色だった。
エルナは、レオンの完璧な気遣いに、深く感謝した。彼はもう、彼女を守るためだけに完璧なのではない。愛する家族の喜びと快適さのために、その知性を使っているのだ。
帰路、エルナはルミナを抱き上げ、静かに微笑んだ。
この自由な散歩、領民との温かい言葉、そして離れていても届くレオンの愛情。すべてが、かつて侯爵家で「利用価値」としてしか見られなかった彼女が、自らの意志で選び取った人生の結実だった。
「ルミナ。パパとママは、この場所を選んだのよ」
エルナは、ルミナの髪に口付けた。その視線の先には、夫婦の愛と信頼に守られ、光に満ちたヴァイスハルト家の屋敷が見えていた。
レオンはエルナの安全を最優先するため、最初は猛反対したが、「領民の生活を肌で感じたい」というエルナの真摯な言葉に折れ、最小限の護衛と、念入りなルート確認を条件に許可した。
その日、エルナは三歳になったばかりのルミナと、侍女一人だけを連れて市場にいた。
「ルミナ、こちらよ」
ルミナは好奇心旺盛にきょろきょろと周囲を見渡し、エルナのコートの裾をしっかり掴んでいる。ルミナの笑顔は、この領地に射し込んだ光そのものだった。
侯爵家の娘だった頃、エルナが市場を歩けば、視線は恐れと好奇心に満ちていた。しかし今、市場の人々が彼女に向ける視線は、尊敬と親愛の念に変わっていた。
八百屋の主人は、エルナに新鮮なハーブの束を差し出した。
「奥様、いつもありがとうございます。このローズマリーは、特に香りが良いですよ。ヴァイスハルト様がお好きだと伺っています」
「ありがとう。レオンが喜ぶわ」
エルナは微笑み、会話を交わす。彼らが言う「奥様」という呼びかけには、形式的な敬意だけでなく、彼女が領地のために尽くしたことへの感謝が込められていた。
ルミナは、パン屋の大きなカゴの前で立ち止まった。
「ママ、これ、くろ!」
ルミナが指差したのは、レオンがいつも朝食で食べる、外皮が硬い黒パンだった。
「あら、そうね。レオンパパと同じ黒いパンね」
エルナはルミナの頭を撫で、小さなパンを一つ購入した。
(この子には、レオンの「黒」が、もう孤独の象徴ではないのね)
エルナは、ルミナにとって、レオンの黒衣は「冷徹な影」ではなく、自分を抱きしめてくれる温かい父親の色なのだと気づき、胸が熱くなった。
エルナが市場を歩き終え、帰り支度をしようとした時、彼女の護衛が小さな包みを差し出した。
「奥様。先ほど、ヴァイスハルト様から伝言と、こちらを預かりました」
エルナが包みを開けると、中には柔らかく暖かい、上質な白い毛糸で編まれた小さなマフラーが入っていた。
そして、添えられたレオンの筆跡で書かれたメモには、簡潔にこう記されていた。
『午後の風は冷たくなります。あなたが市場で立ち止まり、長く会話を交わすことを考慮し、ルミナにこれを。あなたは常に、領地の中心にいるのですから』
エルナは、思わず笑みがこぼれた。レオンは、離れていても、彼女の行動パターン(熱心に領民と話すこと)と、そこから生じる「不測の寒さ」まで予測し、対策を講じていたのだ。
ルミナは、すぐに白いマフラーを首に巻いて、嬉しそうに駆け出した。白い毛糸は、レオンの**「影」の過去とは対照的な、エルナとルミナの「光」**の色だった。
エルナは、レオンの完璧な気遣いに、深く感謝した。彼はもう、彼女を守るためだけに完璧なのではない。愛する家族の喜びと快適さのために、その知性を使っているのだ。
帰路、エルナはルミナを抱き上げ、静かに微笑んだ。
この自由な散歩、領民との温かい言葉、そして離れていても届くレオンの愛情。すべてが、かつて侯爵家で「利用価値」としてしか見られなかった彼女が、自らの意志で選び取った人生の結実だった。
「ルミナ。パパとママは、この場所を選んだのよ」
エルナは、ルミナの髪に口付けた。その視線の先には、夫婦の愛と信頼に守られ、光に満ちたヴァイスハルト家の屋敷が見えていた。
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