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第一章 大人の私と高校生の君
8 会える自由
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夏希とのピアノ合わせから一ヶ月が経った。
七夕。彦星と織姫が一年に一度会える日。それなのに空のご機嫌は斜めで、今にでも雨が降り出しそうな黒い雲が覆っていた。今夜、二人は会えそうになさそうだ。
賀翔高校の女子トイレの小窓から空を見上げ、そう思う。
真新しい蛇口から出る水でしっかりと手を洗い終えると、新築の匂いを堪能しながら別館の旧校舎に向かって校舎を歩く。すれ違う生徒はいない。
残業が終わってから急いで来たが、時刻は二十時前。部活は既に終了している。
誰もいない音楽室に帰ってきた。
「夏希、いつ仕事が終わるんだろ?」
彼女はまだ職員室に篭ったままのようで、音楽室に姿はない。
私は彼女が来るまで個人練習をしよう。
誰もいない音楽室。
防音もしっかりしている為、ドアを閉めてしまえば、そこは無音の世界だ。耳鳴りのような音が聞こえてくる。私はこれが嫌い。だから、すぐにピアノに置いていた楽器を手に取って、リッププレートに唇を乗せた。
リストが作曲した『愛の夢』。
切なさもあるロマンティックなメロディ。愛する二人がお互いに想い合う、そんなイメージの曲だ。
でも、私には想う相手はいない。だから私が演奏すると、甘美なメロディーに哀愁が漂ってしまう。
曲が進むにつれて、情熱的になっていく。視線は絡み合い、惹かれ合う男女。手を伸ばして、二人は——
その瞬間、愛の夢を壊すように、外から物が倒れるような音が耳に入った。途端に肩が震え、ピタリと音を止める。
「何事……?」
誰だろう。
夏希、仕事が終わったのだろうか。
しかし、もし夏希ではなく、違う先生だったら……。
実はドアがしっかり閉まってなくて、音漏れをしていたのではと不安になる。恐る恐るドアに近づき、警戒しながら開けた。
「あ」
ドアの近くで頭を押さえながら蹲る男子生徒。
「えっと、頭を打ったの? 大丈夫?」
フルートを持っていない一方の手で、その茶髪にそっと触れると、彼は顔を上げた。
「この前の……」
「……お邪魔します」
空笑いする福岡くんだった。この前ノートを取りに来た、無愛想な福岡くんとは違う。助けてくれた、優しい彼だった。
「どうして、ここに?」
みんな帰ったんじゃないの? と考えていると、福岡くんは「すみません」と断ってから、改めて口を開いた。
「……フルート、聴いてました」
観念したような表情で、ぼそりと呟く。
ドキッとした。まさか聴かれていたなんて。人に聴かせるような演奏はしていなかった。完全に自分の為の、自己満足の演奏を。
本番は練習のように。練習は本番のように。まさしくこれだな。いや、こんな時に使う言葉ではないけど。
「えーっと、とりあえず、中に入ろ。こんな所で話すのもアレだし」
生徒がまだ校舎に残っていると、他の先生方に気づかれたらいけない気がする。
音楽室に招き入れると、パイプ椅子に福岡くんを座らせ、その隣に私も座る。
緊張する。若い子が、しかも異性がすぐそばにいるのは照れちゃう。
「勝手に聴いてて、すみません」
先に口を開いたのは福岡くんだった。
なんて返したらいいんだろう。そう返事に迷っていると、
「フルート、上手ですね」
真っ直ぐに私の目を見る。お世辞かもしれないけど、そう言われて素直に嬉しかった。
「そうかな。でも、音楽大学とか出てないし、ただのアマチュアだよ」
「音楽大学を出てないのに、あんなに演奏できたら凄いですよ」
「本当? そう言われると嬉しいなぁ」
自然に笑みが溢れる。
「て、そうじゃなくて!」
ハッと我に返る。流されてしまいそうだった。
私には彼に伝えたいことがある。
「この前、音楽室に福岡くん、来たよね?」
「ああ、はい。部活ノートを取りに行った日ですよね」
「どうしてあの時一回も目を合わせてくれなかったの⁉︎」
「え?」
驚いてはいるが、後ろめたいところがあるのか目が泳いでる。
「どうして? ねえ、どうしてなの?」
頬を膨らませながら、じっと睨みつけるように見つめた。
暫くしてから、彼は「すみません」と謝る。
しゅんと落ち込んでいる子犬を前にしているような気持ちになり、表立っていた怒りがスッと消えた。
「えっと、もう一つ確かめたいことがあるんだけど……学校から駅に向かう途中に住宅街があるでしょ? そこで夜に、変なストーカーを助けてくれたのって……君、だよね?」
「ああ……はい」
「そのお礼をちゃんと言いたかったの! それなのに目を合わせてくれないから言うタイミングがわからなかったんだよ」
「あー……俺、あの時、助けた人とお姉さんが似てるなって思ってたんですけど、同一人物なのか自信が持てなくて。それに俺、ハーフだから、好奇の目で見られることもよくあるし、その類かなって」
無視してすみません、と申し訳なさそうに言う。
初夏の木々を思い起こさせる、鮮やかな緑色の双眸を見つめながら、
「確かに、宝石みたいに綺麗な目をしてるから、つい見入っちゃう気持ちがわかるかも」
自然に顔が綻ぶ。
「スマホを届けてくれたことも、変な人から助けてくれたことも、家まで送ってくれたことも、全部ありがとう」
「いえ、全然気にしてませんから」
「それでお礼がしたいんだけど、まさか今日会えるなんて思わなかったから、今、渡せる物がないんだよね」
楽器に隠れるように顔を……全く隠れられてないが。
「礼なんて大丈夫ですよ」
「お金はあるから、ジュ——」
ジュースでも奢るよ。
そう言い掛けた時、またドアが開いた。
「……ハハーン」
ドアにもたれたまま、こちらを見る人物—— 夏希だ。腕を組み、私達を見て、なにやら納得したような含みのある言い方。
「お邪魔してます」
そんな夏希を特に気にする様子はなく、福岡くんは彼女に挨拶した。
「てか、キミさぁ。下校時刻、結構過ぎてんだけど」
「ハハ。すみません」
反省の気持ちがこもっていない謝罪。
「笑って誤魔化すなよぉ」
「え? ダメですか?」
「あたしだったからよかったけど、他の先生だったら叱られるよ~?」
「それは嫌だなぁ。じゃあ、今日はもう帰ります」
「気をつけて早く帰りなよ。ただでさえキミん家、厳しいんだから」
「はい。無駄なお気遣い、ありがとうございます」
会釈してから、彼は私を一瞥すると音楽室を後にした。
「無駄って、余計な一言を言ってんじゃないよ」という夏希の怒り気味の言葉を華麗にスルーする。
一体何故、真面目そうな彼が、こんな時間まで居残りをしていたのだろうか。
そんなことを考えていると、椅子からぽすんっと空気の抜ける音がした。ピアノに楽譜を置いた夏希が、先程まで彼が座っていた椅子に腰掛けている。
「しほり、忠告だよ」
心なしか、彼女の声には緊張感があった。
私は黙ってそれを聞く。
「福岡に手を出すのはやめときなよ。そもそも社会人が高校生に手を出すなんて、許されないことではあるんだけど、あの子だけはやめときな」
「だから、そんなつもりじゃ」
彼女の言葉が私に覆い被さってきた。
「福岡の母親、異常な程に厳しい人だから」
「所謂、モンスターピアレンツ、て奴よ」夏希は溜息混じりに言った。
彼女は、その母親のクレームを喰らったことがあるのだろうか。それに酷く疲れて、げっそりしているような顔に見える。
「実はさ、ついさーっきまで福岡のお母さんと電話してたのよ」
「え? どうして? あ、もしかして帰ってくるのが遅いから?」
そりゃ心配よね。親の立場から考えたら、仕方がない。
「今日だけじゃないみたいよ? 最近ずっと帰りが遅いみたい。だからどういうことなんだ、ていうクレームよ、クレーム」
大股を開き、椅子の背もたれに体全体を預け、だらけるように座っている。
「部活は予定通り終わらせてるしさ。誰が何時に学校を出たとか、そんなのあたしら教員が覚えてるわけないじゃん? それに寄り道してるかもしれないし、生徒のことをなんでもわかるわけないっつーの」
「まあ、そうよね」
「と思ってても、そんなこと言えるわけがないっしょ? だから相手から『事件か事故が起きたら責任を負え』とか、『家まで毎日送り届けてこい』とか……『給食費を返せ』とか、意味わかんないことを黙って聴いてるだけ……無理だよぉぉ、もー!」
苛々が募り、彼女は両手両足をバタつかせたと思ったら、グダッと力が抜ける。相当心身共にやられているようだ。
「先生って大変なんだね」
「やりがいはあるよ~」
「やりがいの話は全くしてなかったよね」
ツッコミを入れてみるが、夏希は天井を見ながら、前髪を掻き上げていた。
「息子はあんなに良い子なのに……親子とは思えん」
「まあまあ」
「てなわけで!」
夏希はガバッと体を起こし、私を指差した。
「福岡にはあまり関わらないことだね! 絶っっ対にあの鬼婆がしほりのとこに行くから!」
「鬼婆って言ったら駄目だって」私は苦笑した。
その時、外から微かに物音が聞こえた気がして、ドアのガラスに視線を向けるが、そこには誰もいなかった。
七夕。彦星と織姫が一年に一度会える日。それなのに空のご機嫌は斜めで、今にでも雨が降り出しそうな黒い雲が覆っていた。今夜、二人は会えそうになさそうだ。
賀翔高校の女子トイレの小窓から空を見上げ、そう思う。
真新しい蛇口から出る水でしっかりと手を洗い終えると、新築の匂いを堪能しながら別館の旧校舎に向かって校舎を歩く。すれ違う生徒はいない。
残業が終わってから急いで来たが、時刻は二十時前。部活は既に終了している。
誰もいない音楽室に帰ってきた。
「夏希、いつ仕事が終わるんだろ?」
彼女はまだ職員室に篭ったままのようで、音楽室に姿はない。
私は彼女が来るまで個人練習をしよう。
誰もいない音楽室。
防音もしっかりしている為、ドアを閉めてしまえば、そこは無音の世界だ。耳鳴りのような音が聞こえてくる。私はこれが嫌い。だから、すぐにピアノに置いていた楽器を手に取って、リッププレートに唇を乗せた。
リストが作曲した『愛の夢』。
切なさもあるロマンティックなメロディ。愛する二人がお互いに想い合う、そんなイメージの曲だ。
でも、私には想う相手はいない。だから私が演奏すると、甘美なメロディーに哀愁が漂ってしまう。
曲が進むにつれて、情熱的になっていく。視線は絡み合い、惹かれ合う男女。手を伸ばして、二人は——
その瞬間、愛の夢を壊すように、外から物が倒れるような音が耳に入った。途端に肩が震え、ピタリと音を止める。
「何事……?」
誰だろう。
夏希、仕事が終わったのだろうか。
しかし、もし夏希ではなく、違う先生だったら……。
実はドアがしっかり閉まってなくて、音漏れをしていたのではと不安になる。恐る恐るドアに近づき、警戒しながら開けた。
「あ」
ドアの近くで頭を押さえながら蹲る男子生徒。
「えっと、頭を打ったの? 大丈夫?」
フルートを持っていない一方の手で、その茶髪にそっと触れると、彼は顔を上げた。
「この前の……」
「……お邪魔します」
空笑いする福岡くんだった。この前ノートを取りに来た、無愛想な福岡くんとは違う。助けてくれた、優しい彼だった。
「どうして、ここに?」
みんな帰ったんじゃないの? と考えていると、福岡くんは「すみません」と断ってから、改めて口を開いた。
「……フルート、聴いてました」
観念したような表情で、ぼそりと呟く。
ドキッとした。まさか聴かれていたなんて。人に聴かせるような演奏はしていなかった。完全に自分の為の、自己満足の演奏を。
本番は練習のように。練習は本番のように。まさしくこれだな。いや、こんな時に使う言葉ではないけど。
「えーっと、とりあえず、中に入ろ。こんな所で話すのもアレだし」
生徒がまだ校舎に残っていると、他の先生方に気づかれたらいけない気がする。
音楽室に招き入れると、パイプ椅子に福岡くんを座らせ、その隣に私も座る。
緊張する。若い子が、しかも異性がすぐそばにいるのは照れちゃう。
「勝手に聴いてて、すみません」
先に口を開いたのは福岡くんだった。
なんて返したらいいんだろう。そう返事に迷っていると、
「フルート、上手ですね」
真っ直ぐに私の目を見る。お世辞かもしれないけど、そう言われて素直に嬉しかった。
「そうかな。でも、音楽大学とか出てないし、ただのアマチュアだよ」
「音楽大学を出てないのに、あんなに演奏できたら凄いですよ」
「本当? そう言われると嬉しいなぁ」
自然に笑みが溢れる。
「て、そうじゃなくて!」
ハッと我に返る。流されてしまいそうだった。
私には彼に伝えたいことがある。
「この前、音楽室に福岡くん、来たよね?」
「ああ、はい。部活ノートを取りに行った日ですよね」
「どうしてあの時一回も目を合わせてくれなかったの⁉︎」
「え?」
驚いてはいるが、後ろめたいところがあるのか目が泳いでる。
「どうして? ねえ、どうしてなの?」
頬を膨らませながら、じっと睨みつけるように見つめた。
暫くしてから、彼は「すみません」と謝る。
しゅんと落ち込んでいる子犬を前にしているような気持ちになり、表立っていた怒りがスッと消えた。
「えっと、もう一つ確かめたいことがあるんだけど……学校から駅に向かう途中に住宅街があるでしょ? そこで夜に、変なストーカーを助けてくれたのって……君、だよね?」
「ああ……はい」
「そのお礼をちゃんと言いたかったの! それなのに目を合わせてくれないから言うタイミングがわからなかったんだよ」
「あー……俺、あの時、助けた人とお姉さんが似てるなって思ってたんですけど、同一人物なのか自信が持てなくて。それに俺、ハーフだから、好奇の目で見られることもよくあるし、その類かなって」
無視してすみません、と申し訳なさそうに言う。
初夏の木々を思い起こさせる、鮮やかな緑色の双眸を見つめながら、
「確かに、宝石みたいに綺麗な目をしてるから、つい見入っちゃう気持ちがわかるかも」
自然に顔が綻ぶ。
「スマホを届けてくれたことも、変な人から助けてくれたことも、家まで送ってくれたことも、全部ありがとう」
「いえ、全然気にしてませんから」
「それでお礼がしたいんだけど、まさか今日会えるなんて思わなかったから、今、渡せる物がないんだよね」
楽器に隠れるように顔を……全く隠れられてないが。
「礼なんて大丈夫ですよ」
「お金はあるから、ジュ——」
ジュースでも奢るよ。
そう言い掛けた時、またドアが開いた。
「……ハハーン」
ドアにもたれたまま、こちらを見る人物—— 夏希だ。腕を組み、私達を見て、なにやら納得したような含みのある言い方。
「お邪魔してます」
そんな夏希を特に気にする様子はなく、福岡くんは彼女に挨拶した。
「てか、キミさぁ。下校時刻、結構過ぎてんだけど」
「ハハ。すみません」
反省の気持ちがこもっていない謝罪。
「笑って誤魔化すなよぉ」
「え? ダメですか?」
「あたしだったからよかったけど、他の先生だったら叱られるよ~?」
「それは嫌だなぁ。じゃあ、今日はもう帰ります」
「気をつけて早く帰りなよ。ただでさえキミん家、厳しいんだから」
「はい。無駄なお気遣い、ありがとうございます」
会釈してから、彼は私を一瞥すると音楽室を後にした。
「無駄って、余計な一言を言ってんじゃないよ」という夏希の怒り気味の言葉を華麗にスルーする。
一体何故、真面目そうな彼が、こんな時間まで居残りをしていたのだろうか。
そんなことを考えていると、椅子からぽすんっと空気の抜ける音がした。ピアノに楽譜を置いた夏希が、先程まで彼が座っていた椅子に腰掛けている。
「しほり、忠告だよ」
心なしか、彼女の声には緊張感があった。
私は黙ってそれを聞く。
「福岡に手を出すのはやめときなよ。そもそも社会人が高校生に手を出すなんて、許されないことではあるんだけど、あの子だけはやめときな」
「だから、そんなつもりじゃ」
彼女の言葉が私に覆い被さってきた。
「福岡の母親、異常な程に厳しい人だから」
「所謂、モンスターピアレンツ、て奴よ」夏希は溜息混じりに言った。
彼女は、その母親のクレームを喰らったことがあるのだろうか。それに酷く疲れて、げっそりしているような顔に見える。
「実はさ、ついさーっきまで福岡のお母さんと電話してたのよ」
「え? どうして? あ、もしかして帰ってくるのが遅いから?」
そりゃ心配よね。親の立場から考えたら、仕方がない。
「今日だけじゃないみたいよ? 最近ずっと帰りが遅いみたい。だからどういうことなんだ、ていうクレームよ、クレーム」
大股を開き、椅子の背もたれに体全体を預け、だらけるように座っている。
「部活は予定通り終わらせてるしさ。誰が何時に学校を出たとか、そんなのあたしら教員が覚えてるわけないじゃん? それに寄り道してるかもしれないし、生徒のことをなんでもわかるわけないっつーの」
「まあ、そうよね」
「と思ってても、そんなこと言えるわけがないっしょ? だから相手から『事件か事故が起きたら責任を負え』とか、『家まで毎日送り届けてこい』とか……『給食費を返せ』とか、意味わかんないことを黙って聴いてるだけ……無理だよぉぉ、もー!」
苛々が募り、彼女は両手両足をバタつかせたと思ったら、グダッと力が抜ける。相当心身共にやられているようだ。
「先生って大変なんだね」
「やりがいはあるよ~」
「やりがいの話は全くしてなかったよね」
ツッコミを入れてみるが、夏希は天井を見ながら、前髪を掻き上げていた。
「息子はあんなに良い子なのに……親子とは思えん」
「まあまあ」
「てなわけで!」
夏希はガバッと体を起こし、私を指差した。
「福岡にはあまり関わらないことだね! 絶っっ対にあの鬼婆がしほりのとこに行くから!」
「鬼婆って言ったら駄目だって」私は苦笑した。
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