筑摩江や

野良

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 月が隠れ、草木も眠り、鳥の鳴き声一つ響かぬ静謐の夜。先ほどまで降っていた雨は鳴りを潜め、湿った空気に残滓があるだけだった。

「治部殿、先ほど島津殿ら夜襲組が戻られました。夜襲は成功。事の子細については明日の軍議にてとのこと」
「あい分かった。下がれ」
「失礼致します」

 城中に戦の気配が色濃く漂っている。深く昏い闇の中で誰かが躍り、何かが蠢き、各々の闘志がせめぎあう。そんな、戦の気配が。
 そなたは義に厚く実直な男だが、如何せん、人望がない。ふと、吉継の言葉が脳裏に浮かぶ。それは五大老が一人、前田利家がこの世を去って幾ばくもない夜に向けられたものだった。

「ゆえに今、このような面倒が起きているのだ」

 絶えず叩かれ続ける門戸に、荒々しい罵声と共に呼ばれる己の名に苛立つ三成をよそに、集っていた面々はかける言葉に困り、苦笑を浮かべた。毛利輝元、上杉景勝、安国寺恵瓊、そして大谷吉継。皆、今後どのように豊臣を守り、支えていくかを協議するために集まっていた。それが何の因果か、三成への私怨にまみれた武功派の襲撃を受ける羽目になったのだ。
 とはいえ、捨て置くわけにもいかない。いくら人望がないとはいえ、三成は五奉行の一人なのだ。今ここで失えば、家康は野放しになってしまう。表の者たちの堂々とした態度から家康が手を引いているのは間違いない。秀吉の死からたった一月の間に私婚を繰り返した家康を戒め、抑え込んでいた利家の死。天下を手にする絶好の機会だ。家康が見逃すはずがない。そう読んではいたものの、よもや喪に服す暇もないうちに仕掛けてくるとは思いもよらなかったのだ。

「いっそ、内府の懐に入り込んでやろうか」
「この阿呆。それが本気ならば今すぐ外に放り出すぞ、 一任斎殿が」
「貴殿らの軽口のやり取りに巻き込まんでくれ」
「いやはや、それにしても事をどう収めたものか」
「兵を出すか」

 淡々とした声の主は景勝だった。平素と変わらぬ眼光の鋭さと眉間の皺に、三成はその真意を推測しかねた。喧騒はもはや耳に入らない。

「…請えばご助力いただけるのか」
「あの騒ぎようでは、秀頼公の耳に入るのも時間の問題だろう。今となっては治部殿が五奉行から外されるのは避けられん」
「それは些か早計ではないか」
「治部殿をみすみす内府の策に乗せるわけにはいかぬ」
「しかし、会津中納言様の言うことも尤もよ」
「刑部殿までそのようなことを…」
「三成、そなたが決断するのだ。元よりこれはそなたの問題なのだから。なに、どのようなものであっても私はその決断を支持すると約束しようではないか」

 吉継が傍観の腹を決めたことで恵瓊と輝元も渋々、口を閉じた。景勝の揺らぐことのない視線と意識の外で響く打音に急かされ、三成は息が詰まる思いがした。何が最善か。とうに分かっているのに、声が喉の奥に貼り付いたかのように出てこない。
 刹那、一際大きな三成を呼ぶ声が響く。雑音でしかなかったそれは、有象無象の粗暴な影から形ある人の姿となった。共にした時間だけはいやに長く、気に入らぬからこそ声だけでもその存在を認識できる相手ーー加藤清正だ。彼の人が口にする言葉だけが三成を腹の底から苛立たせ、心内に爪痕のような傷を残した。

「…いっそあのとき、討ってしまえば良かったのかもしれんな」

 数日前、岐阜城が福島正則らによって落とされたことを聞いた三成は同じように呟いた。しかし、たとえ時が戻ったとしても叶わぬことだろうと分かっていた。相性は最悪。できることならどこか遠くに押しやって、二度と顔を合わせたくないほどの憎らしい相手。けれど、三成はどうしても清正を傷つけることに乗り気になれなかった。
 最初から気に食わなかった。周囲を気にすることなくやり合える時分、そう言っては争った。最初が一体いつのことだったかさえ確かめることなく過ごしているうちに、仲の悪さは周知の事実として広まっていった。 気づいたときには、手遅れだった。歩み寄るにはもう、互いの考えも地位も確固としたものとなっていた。
 恥を承知で告白すれば、三成は他の誰でもない、清正と敵対することが怖かった。豊臣の御代のために二百五十万石余りの大大名たる家康と斬り結べども、清正とは無理だった。互いの意見が合ったためしがない。清正が三成にとって最も大きな障害として立ちはだかるのは、自明の理だった。

「甘々よのう…」

 清正は肥後から出てこない。確かな情報として報告されたそれに、少なからず安堵した三成を吉継はせせら笑った。いとも簡単に看破されてしまった情けのない本音。秀吉の大切にしていたものを傷つけたくない。たったそれだけのことだった。あの夜、襲撃を奉行職を退くことで収めたのも、今夜、この大垣城で籠城することを決めたのも。ただそれだけが理由だった。
 家康は城攻めが苦手で野戦が得意。漏れ聞いた己が居城の佐和山城を落とし、大坂に向かうという敵方の作戦は、真実味を帯びていた。しかし、三成は大垣城を動かなかった。こちら側についてくれた者ーー大名から足軽の一人に至るまで、そのすべてを信じて任せたのだ。大坂に向かう途中の関ヶ原の地に陣を張った吉継たちが迎え討ってくれる、と。田辺城や大津城を落とした軍勢が駆けつけてくれる、と。大将である輝元が秀頼を擁して大坂から来てくれる、と。
 人望がない。誰に言われるまでもなく分かっている。それでも、秀吉の大切にしていたものを最大限、傷つけずに守るために人一倍の勇気と覚悟を持って、人を信じたのだ。結果、関ヶ原の地にて家康らの軍勢を挟み討ちにし、輝元と秀頼の参戦をもって終わりを迎えた。二方の側へと控え、捕縛した家康を眼前に据える。地に向けられていた視線がゆるゆると上がり、今にも交差せんばかりになったとき、三成の意識は溶けるようになくなった。
 これがはじまり。長い長い関ヶ原の戦の幕開けだった。
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