ジュ・トゥ・ヴの時計

北村利明

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第六章 携帯電話の中身

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 八月二七日(日曜日)
 それは、マリと僕とで行った温泉旅行の帰りのことだった。上りの特急列車に乗ると、マリはお手洗いに立った。マリのバッグのポケットには携帯電話が無造作に入っていた。マリの携帯電話は、何らロックされていなかったのでメールを見るのは簡単だった。そのメールを見て驚いた。ヒロだけじゃなかった。メールの送信者は複数の男性名であり、その内容は、待ち合わせ場所に関するやりとり、マリの容姿への賞賛、そして、性行為の暗示だった。
 以前、七月八日にレストランで会ったとき、マリはこのあと女子高時代の友人と会うと言っていた。その日のメールには、「写真で見たマリちゃんは可愛いので、今日会えるのが楽しみで・・・」などと書いてある。このメールを書いたのは、ヒロとは違う名前の男だ。この日、マリはこの男に会っていたのだろう。携帯電話を持つ手が震えた。
 携帯電話をそっとマリのバッグのポケットに戻すと、目をつぶって眠ったふりをした。しばらくしてマリが帰ってきた。マリは何も気付かずに携帯プレーヤーで音楽を聴いている。僕はお手洗いに行くからとマリに告げてデッキに行った。手の震えを気付かれたくないのと、さっきのメールのことを静かにひとりで考えたかったからだ。
 さっきのメールは、文面からいって出会い系サイトのメールであることは明らかだった。マリは、出会い系サイトで不倫をしていたのだ。もう駄目だと思った。ヒロひとりだけが不倫の相手ならば、マリの母の不倫のように、時間が経てば解決するだろう。でも、マリの不倫の相手はひとりだけじゃない。マリは、相手が誰でもよかった。それがマリのいうところの「生き生きと暮らす」ということだったんだろう。
 マリは、婚姻における貞操の義務で抑圧されているのが嫌だったんだろう。配偶者の僕は、マリを家に閉じ込め、貞操の義務で自由を奪う「ヌシ」だったのだ。
 マリと僕との結婚生活は、もう六年になる。マリは、最初に僕と出会ったときのときめきを忘れ、新たなときめきを求めて、出会い系サイトで複数の男たちと会っていたのだろう。
 マリは、「私は風俗に通う人や浮気する人は嫌い。あなたはそんな人にならないでね。浮気なんかしないでね。」と言っていた。でも、マリ自身は貞操の義務を守ろうとしない。そもそも出会い系の男は、性行為をするために、出会った女を褒めまくるに決まっている。マリは、そんな浅はかな褒め言葉が欲しかったのか。僕は、「そのこと」は止めて欲しい、心が痛くてたまらないと何回もマリに伝えていた。でもマリは、僕の苦しみには何ら目を向けず、こういうことを続けるのか。そしてマリは、僕と生活していた日々は、死にたいと思うほど苦しかったのか。まるで終身刑のようだったのか。
 そういえばマタイの言葉の第一九章には、こう書いてあった。
「だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」
 これを言葉とおりに解釈すると、妻の不貞のためであれば、例外としてその妻を離別してもよいとも解釈できる。カトリックの教義において、この解釈が正しいのかどうかは知らない。でも、僕はカトリックの信者ではないから、カトリックの教義に縛られることはない。
 法的には、僕から離婚することは可能だ。マリは有責配偶者だから僕が希望すれば離婚できる。ここで、いちばん問題となるのは時間だ。いま三〇代後半だから、この状態のまま何年も費やすと四〇歳を超えてしまい、再婚が難しくなるだろう。僕には時間がなかった。
 車内にアナウンスが流れた、特急列車はもうすぐ次の駅に止まるそうだ。手の震えも収まったし、あまり長く席を離れても怪しまれるだろう。僕は、取りあえずマリのところに帰った。

 九月二日(土曜日)
 マリとレストランで会い、食事をしながら普通に楽しく話ができた。食事が終わるとマリを家まで送った。こんな時間を地道に積み重ねて、マリとの関係を再構築できないかと思った。マリと別れた帰り道にメールを打った。

「今日は幸せな時間が過ごせた。ありがとう。」

 帰りの電車内で、マリの携帯電話のことを思い出した。先週見たマリの携帯電話には、出会い系サイトの男たちが送ったメールが並んでいた。僕のメールは、出会い系サイトの男たちのメールの後に並ぶのだろう。そしてマリは、違う曜日には違う男と会って、今日と同じように食事をしながら楽しく話をして、その男との情事を重ねるのだろう。別居以来、マリを食事や旅行に誘わないと会うこともできない。マリにとって今の僕は、まるっきり出会い系サイトの男たちと同じだ。そのことを思うと、また心がキリキリと痛んだ。
 マリは、いつから出会い系サイトを使っていたんだろうか。マリがいつか言っていた「月200件の着信」、あれはミキさんやサトコさんの着信とすれば多すぎる。それ以外の交友関係ということだろうか。もしかするとマリは、携帯電話の契約と共に出会い系サイトを始めたのかもしれない。

 九月三日(日曜日)
 カトリックの教会の日曜礼拝に参加した。礼拝をしながら思った。僕はマリが好きだ。マリが好きだからこそ、マリの不倫は僕にとっての地獄だ。その僕が地獄に落ちないための方法が、聖書には書いてあった。
 「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちないほうがましである。」(マタイによる福音書 第一八章より)
 僕が地獄に落ちないためには、マリに不倫を止めてもらうか、またはマリが好きだという気持ちを切って捨てるしかない。
 この日曜礼拝には、子供連れの家族が多く参加していることに気付いた。子供たちは誰もがかわいかった。たぶん、これら家族は、街で普通に見掛ける家族のうちのひとつに過ぎないのだろう。けれども、いまの僕にはまぶしかった、そして、はるかに遠い存在に見えた。マリは子供が嫌いだから、子供を作らないだろう。例えマリが家に帰ってきてくれても、こんな家族を作ることはできないだろう。
 僕は、会社の飲み会で部下の女の子と話をしたときや、合気道の道場の女の子と話をしたときに、マリのことを忘れて心の痛みが無くなることに気付いていた。マリの不倫で傷ついた心は、他の女性で癒やすことができるし、他の女性と再婚すれは、マリのことを忘れて安らかな日々を取り戻せるだろう。また、マリとの間に子供を持つことはできないだろうけど、再婚すれば、もしかすると子供を持てるかもしれない…。
 教会の日曜礼拝から帰ると、マリの残していたノートパソコンを開いて、ヒロとマリとのやりとりを読んだ。ふと、ヒロからのメールの一年前に、見知らぬ名前「カキヌマ・ジョウジ」から一通のメールを受信していることに気付いた。こいつはいったいどういう関係なのだろう。

日時:二月一五日(月)
送信元:カキヌマ・ジョウジ
宛先:マリ
題名:こんばんは
本文:
このメールアドレスであっていますか。一昨日は一緒に過ごせて嬉しかったです。

この男も、マリの不倫相手の一人なのかもしれないと思った。


 九月一六日(土曜日)
 マリに電話して、明日から一週間ほど米国に海外出張に行くことを留守番電話に吹き込んだ。そして、できるならば出張中に一度は家に帰って、様子を見て欲しいと頼んだ。ポストに郵便物が溜まっていると、空き巣に狙われるおそれがあるからだ。


 九月二四日(日曜日)
 米国出張の帰りの飛行機で映画「モンスターズ・インク」を見た。主人公である毛むくじゃらの青いモンスターのサリーは、人間界から迷い込んできた無邪気な人間の女の子ブーに懐かれる。でも最後に人間の女の子ブーは人間界に戻ってしまい、プーと逢うためのドアはシュレッダで処分され、サリーは二度とブーに逢えなくなってしまう。
 この無邪気な人間の女の子ブーがマリと重なって見えた。機内で飲んでいたワインのせいもあって、こんな子供向けの映画なのに泣けてたまらなかった。このときは米国時間の深夜であり、殆どの乗客はシートを倒して寝ていた。僕は静かに涙を流していただけだから、たぶん誰も気づかなかっただろう。泣くだけ泣いたら決心できた。多分、マリは違う世界の人なのだ。だとしたら、これ以上マリを縛りつけてはいけない。
 この映画では、ブーが人間界に戻った後に、ブーの部屋に繋がるドアの欠片が残されていた。主人公のサリーは、この欠片を大事に拾い上げて持っていた。いつかまたブーに会えるかもしれない希望の象徴として。
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