ジュ・トゥ・ヴの時計

北村利明

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第八章 報告

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 家に帰ると、先ずマリの母に電話して離婚を報告した。
「さきほど、マリと離婚しました。いままでお世話になりました。」
「マリちゃんと離婚したあとでもリョウさんが息子であることには変わりないわ。いつでも連絡してきてちょうだい。」
「いえ、もう今後は連絡しません。そちらからも、何があっても決して連絡しないでください。」
「…、わかったわ。」
「それでは、もう会うこともありませんが、お元気で。」

 僕は別に婿養子でも何でもない。マリと離婚した後までマリの母と会いたいとも思わない。
 そういえばマリの父は婿養子だった。マリの母の家は決して資産があるわけでもなく、由緒ある家というわけでもないので不思議だった。そしてマリの父は、マリの母が不倫しているにも関わらず一緒に暮らしていた。
 もしかすると、マリの父親は、マリの母の不倫を知って、それを容認していたのかもしれない。そういえば、娘のマリが母親の不倫を知っているのに、夫であるマリの父親が知らない訳がない。
 マリとマリの母は、僕にマリの不倫を容認して欲しかったんだろう。ちょうど、マリの父親がマリの母親の不倫を容認していたように。
 そして僕は、自身が悪かったところが判った。マリを結婚相手として選んでしまったことだ。マリの考えが僕とは相容れないことは、結婚前にハルオと浮気したことでよく判っていたはずなのに…。

 その次は、ヒロに電話した。
「クリハシ・ヒロキさんですか。」
「はい、クリハシは私です。」
「マリの夫のリョウです。わかりますね。」
「あ……。」
「本日、マリと離婚しました。先ほど離婚届を提出しています。」
「は、はぁ……。」
「だから、ヒロキさんに対して慰謝料を請求します。」
「あの…、マリとは…、ゴールデンウィーク以降は会ってないのですけど…。」
「そんなことは知りません。以前の電話でも、マリとの不貞行為を認めていますね。」
「いや…、その…。」
「ご自宅に内容証明を送りますので、慰謝料を指定口座に振り込んでください。」
 マリは、ヒロとゴールデンウィーク頃に別れたようだった。これで、マリが五月初旬に家に帰ってきた理由が分かった。マリはヒロと別れて行き場がなくなったから帰ってきたのだった。ヒロは、かつてのハイテンションがウソのようだった。
 ヒロは、マリと仕事の接点も趣味の接点もなく、学校も違うので、普通には出会うはずもない。ヒロとマリの接点も、出会い系サイトなのかもしれないと思った。すると、あのハイテンションは、出会い系サイトで女を誘うときの虚飾ということになる。
 ヒロには慰謝料請求の内容証明郵便を送る。今のヒロに、慰謝料を払う経済力があるとはとても思えないし、慰謝料について真面目に協議するとも思えない。でも、時効の期間が満了する三年後まで、繰り返し何回も請求書を送ろう。ヒロは、いつ訴訟に移行するかと、怯えて暮らすことになるだろう。

 あの「ジュ・トゥ・ヴ」の時計を贈ってくれたミキさんにもさよならを告げた。
「先ほどマリと離婚しました。」
「はい。」
「ついては、ミキさんお願いがあります。今後、…、マリの…、助けになって貰えますか。」
電話越しにミキさんの笑い声が聞こえた。
「リョウさんたら何を言うのかと思えば。」
「僕は今後、マリと逢うことすらできないからです。もう、一生逢うこともできない。」
ミキさんは、旦那さんにマリの関係を断つように言われれているそうだが、僕が助けになって欲しいといえば、マリとの縁を復活させるかもしれない。マリの周りから去る人間は、僕一人だけで充分だ。

 僕はマリの写真をすべて捨てた。そしてマリとの共通の友人すべてとの付き合いを断った。マリと知り合うきっかけになった合気道の道場から退会した。そして、マリと離婚してしまったから、カトリック教会の日曜礼拝に行く理由もなくなった。
 「ジュ・トゥ・ヴ」を奏でる時計も、マリのために買ったドレッサーも全部マリの実家に送った。家の中は、ほとんど空になってしまった。脳内から、マリの記憶をできるだけはやく消してしまうためだ。家の鍵も変えた。たとえマリが合鍵を作っていたとしても、もう物理的に入れない。

 振り返ってみると、僕とマリとの離婚は、僕の意志で決めたわけでもなく、マリの意志で決めたわけもない。敢えて言うならば、マリの祖母のキヨさんの死が、僕とマリとの離婚を決めたのだろう。キヨさんが亡くなられたので、マリはタガが外れて、出会い系の男達との不貞に走った。そして僕は、キヨさんの苦しみと、死への恐怖を見ていたからこそ、マリとの離婚がどんなに苦しくても生きていることを選んだ。
 離婚したあと、僕はマリの姿を見たことはないし、マリからの連絡もない。マリがこの家に居た痕跡は何も残っていないし、マリのことを思い出すことも殆どなくなった。けれど、エリック・サティの「ジュ・トゥ・ヴ」を耳にすると、あの時計を思い出し、マリと暮らした七年間と、マリを好きだったときの気持ちを思い出す。あの日々に帰りたい訳じゃない。けれど、あの七年間が、僕が生きてきた日々であることには変わりないのだから。
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