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夜会の喧騒が、不自然に途絶えた。
まるで何かの合図があったかのように、音楽が止み、人々の視線がホールの中央へと注がれる。
その中心に立っていたのは、私の婚約者であるアラン王太子と、その腕にしがみつく小柄な男爵令嬢、ミナだった。
「タリー・ローズブレイド公爵令嬢! 僕は今日、今この時をもって、君との婚約を破棄する!」
アラン殿下の声が、高い天井に反響する。
周囲の貴族たちが息を呑む音が聞こえた。憐れみ、嘲笑、あるいは好奇心。それらの視線が、無遠慮に私の背中へと突き刺さる。
私はゆっくりと瞼を閉じ、そして開いた。
手にした極彩色の羽扇子(はねせんす)を、バサリと音を立てて開く。
「……あら。随分と大きな声を出されますのね、殿下」
私の声は震えていなかった。むしろ、ダンスホールの隅々まで響き渡るほど凛としていたはずだ。
「とぼけるな! 君がミナに行った数々の嫌がらせ、もう我慢ならないんだ!」
アラン殿下が私を指差す。その指先は怒りで震えているようだった。
「嫌がらせ、ですか?」
「そうだ! 教科書を破り、ドレスにワインをかけ、階段から突き落とそうとしただろう! すべてミナから聞いている!」
彼の腕の中で、ミナが怯えたように身を縮める。上目遣いで私を見つめるその瞳は、涙で潤んでいた。
「タリー様……どうしてそんな酷いことを……私はただ、仲良くしたかっただけなのに……」
震える声。可憐な容姿。守ってあげたくなるような儚さ。
なるほど、殿下のお好みには合致しているのだろう。地味で、慎ましく、男の庇護欲をそそる花。
対して私はどうだ。
燃えるような真紅のドレスに、派手な化粧。頭には大ぶりの宝石をあしらい、手には孔雀の羽を使った扇子。
誰よりも目立ち、誰よりも華やかであることを是としてきた。
それが王太子の隣に立つ者の務めだと信じていたからだ。
「……身に覚えがありませんわ」
私は扇子で口元を隠し、冷ややかに告げた。
「嘘をつくな!」
「嘘ではありません。そもそも、私がその方に興味を持つ理由がありませんもの」
「なんだと?」
「私は公爵家の娘として、そして次期王妃としての教育に忙殺されておりました。そのような、どこの馬の骨とも知れぬ方に構っている暇など、一秒たりともありませんわ」
私の言葉に、ミナが「ひどい……」と声を漏らす。
アラン殿下の顔が朱に染まった。
「その高慢な態度だ! 君はいつもそうだ。自分が一番で、他人を見下して、派手に着飾ることしか考えていない!」
「着飾って何が悪いのです?」
私は扇子を翻し、一歩前に進み出た。
ヒールの音が、静まり返ったホールに鋭く響く。
「王族とは、国の象徴であり太陽です。民が憧れ、仰ぎ見る存在であらねばなりません。地味で目立たない太陽など、誰が拝みますの?」
「屁理屈を言うな! 僕は、ミナのような心優しい女性こそが王妃にふさわしいと言っているんだ!」
「心優しい、ねえ」
私はチラリとミナを見た。
私の視線とぶつかった瞬間、彼女の口元が微かに歪んだのを、私は見逃さなかった。
(ああ、そういうことですの)
すべてを悟った。
彼女は計算している。か弱い被害者を演じ、愚かな王子を焚きつけ、私という邪魔者を排除しようとしているのだ。
そして、アラン殿下はまんまとその手中に落ちた。
「証拠はあるのですか?」
「証拠だと?」
「ええ。私が彼女をいじめたという証拠です。目撃者は? 突き落とそうとした現場を、誰かが見ていましたの?」
「それは……ミナが二人きりの時だったと……」
「つまり、彼女の証言だけ、ということですわね」
私は呆れてため息をついた。
「殿下。貴方は次期国王となられる方です。一方的な証言だけで人を断罪するなど、あってはならないことですわ」
「うるさい、うるさい! 僕は君のそういう、可愛げのないところが嫌いなんだ!」
アラン殿下が叫んだ。
その言葉は、理屈ではなく感情だった。
彼はただ、私が嫌いなのだ。
派手で、気が強くて、自分より背が高くて、正論ばかり言う私が。
そして、自分を立ててくれる、小さくて可愛いミナを選んだ。
ただ、それだけのこと。
私の胸の奥で、何かが冷たく砕け散った音がした。
幼い頃から受けてきた厳しい妃教育。王妃になるために費やしてきた努力。それら全てが、今この瞬間、無価値なものとして切り捨てられたのだ。
悔しくないと言えば嘘になる。
はらわたが煮え繰り返るほど腹が立っている。
けれど。
(ここで泣くなんて、三流のすることですわ)
私はタリー・ローズブレイド。
社交界の華。誰よりも気高く、美しく咲き誇る大輪の薔薇。
こんな愚かな男のために涙を流して化粧を崩すなど、私のプライドが許さない。
私はバサリと扇子を閉じ、アラン殿下に突きつけた。
「……わかりましたわ」
「え?」
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
予想外の返答だったのか、アラン殿下が目を丸くする。
「そ、そうか。やっと自分の罪を認める気になったか」
「いいえ。罪など認めておりません」
私は背筋を伸ばし、顎を上げて彼を見下ろした。
「貴方様が、私の輝きに耐えられなくなっただけでしょう? 隣に並ぶには、私が眩しすぎた。だから、ご自分にお似合いの、地味で可愛らしい石ころを選ばれた」
「き、貴様……!」
「お似合いですわよ、お二人は。せいぜい、二人だけの小さなお庭で、仲睦まじくおままごとをなさっていればよろしい」
言い放つと同時に、私はくるりと踵を返した。
ドレスの裾が大きく翻り、美しい弧を描く。
「待て! まだ話は終わっていないぞ!」
背後でアラン殿下が何か喚いているが、私は一度も振り返らなかった。
これ以上、あんな男の顔を見ていたら、扇子で殴りつけてしまいそうだったからだ。
(あーあ、終わっちゃった)
心の中で、乾いた笑いが漏れる。
父様は怒るだろうか。母様は悲しむだろうか。
国のための政略結婚だった。家のため、国のために、私は自分を殺して王太子妃という型に嵌まろうとしてきた。
でも、それももう終わりだ。
「道を開けなさい!」
私が声を張り上げると、人垣が波が引くように割れた。
誰もが私を遠巻きに見ている。
「可哀想に」「捨てられた女」「あんな強気な態度だから嫌われるのよ」
ひそひそとした囁き声が耳に届く。
うるさい。黙りなさい。私は可哀想なんかじゃない。
私は自由になったのだ。
あの窮屈な王宮からも、顔を合わせるたびに「もっと地味にしろ」と小言を言ってくる王妃様からも、そしてあの見る目のない愚かな元婚約者からも。
私は胸を張り、カツカツとヒールを鳴らして歩いた。
その足取りは、ダンスのステップのように軽やかでなければならない。
どんなに傷ついていても、どんなに惨めでも、私は笑っていなければならない。
それが、悪役令嬢と呼ばれた私の、最後の意地だった。
ホールの出口へ向かう途中、ふいに強烈な寒気を感じた。
視線の圧力。
それまで浴びてきた、好奇や嘲笑の視線とは明らかに質の違う、重く鋭い気配。
ふと顔を上げると、出口の扉の前に、巨大な影が立っていた。
壁のように立ちはだかる、黒い騎士服の男。
周囲の人々が避けて通るその男は、社交界で「氷の城壁」と恐れられている、辺境伯キース・ヴェルンシュタインだった。
無骨で、無口で、女っ気の一つもない、堅物中の堅物。
(……邪魔ですわね)
彼が退かなければ、私は会場から出られない。
私は足を止めず、彼に向かって一直線に歩み寄った。
「ごきげんよう、辺境伯様。そこを通していただけます?」
精一杯の強がりを込めて、私は彼を見上げた。
近くで見ると、改めてその大きさに圧倒される。岩のような体躯に、鋭い眼光。
彼は私を見下ろし、じっと動かない。
まさか、彼も私を嘲笑うつもりなのだろうか。
「婚約破棄された女になど、かける言葉もないとおっしゃるの?」
私の挑発的な言葉に、キース辺境伯の眉がぴくりと動いた。
そして、低く、腹の底に響くような声で言った。
「……違う」
「何が違いますの?」
「あんたは」
彼はそこで言葉を切り、無骨な手をゆっくりと持ち上げた。
殴られるのかと思い、私は身構えた。
しかし、その手は私の頬に触れることなく、不器用に宙を彷徨い、やがて私の目の前に差し出された。
まるで、ダンスの誘いのように。
「あんたは、泣いているのか?」
その問いかけに、私は息を止めた。
扇子を持つ指に力が入り、爪が食い込む。
泣いてなどいない。私は笑っている。完璧な笑顔を張り付かせているはずだ。
なのに、この男は。
この、氷のように冷徹だと言われる男だけが、私の仮面の下を見透かしたというのか。
ホールの中心では、未だアラン殿下たちが私の悪口を言っているのが聞こえる。
このまま一人で逃げ出せば、私は本当に「負け犬」になる。
「……泣いてなど、おりませんわ」
私は扇子を閉じ、彼の手をパチンと叩いた。
「私のプライドは、これしきのことで折れたりしませんの」
「そうか」
キース辺境伯は、短くそう答えた。
そして、信じられないことを口にした。
「なら、証明してみせろ」
「はい?」
「あんたが負けていないことを。その輝きが、あんな男の言葉一つで曇るような安いものじゃないことを」
彼は差し出した手を引っ込めなかった。
その瞳は、真っ直ぐに私を射抜いている。
そこには嘲りも、憐れみもない。ただ純粋な、熱のような色が宿っていた。
「俺と踊れ、タリー・ローズブレイド」
会場中がどよめいた。
あの堅物辺境伯が、ダンスを申し込んだ?
しかも、今まさに婚約破棄されたばかりの、傷物令嬢に?
私は呆気にとられ、しばらく彼の手を見つめていた。
けれど、次第に胸の奥から、熱いものが込み上げてくるのを感じた。
それは屈辱ではない。
この男は、私に「逃げるな」と言っているのだ。
堂々と胸を張り、最後まで美しくあれと、そう言っているのだ。
(面白いじゃない)
私はニヤリと笑った。
この状況で、私に手を差し伸べる命知らず。
その無骨な手のひらが、今はたまらなく頼もしく見えた。
「よろしいですわ」
私は扇子を腰のベルトに差し、彼の手の上に自分の手を重ねた。
「ただし、私のリードについてこられなくて、恥をかいても知りませんわよ?」
「……善処する」
音楽はない。
けれど、私の心の中では、すでに激しいリズムが鳴り響いていた。
さあ、見せてあげるわ。
アラン、ミナ。そして私を笑ったすべての人々へ。
これが、悪役令嬢タリーの、最後の、そして最高のダンスよ!
まるで何かの合図があったかのように、音楽が止み、人々の視線がホールの中央へと注がれる。
その中心に立っていたのは、私の婚約者であるアラン王太子と、その腕にしがみつく小柄な男爵令嬢、ミナだった。
「タリー・ローズブレイド公爵令嬢! 僕は今日、今この時をもって、君との婚約を破棄する!」
アラン殿下の声が、高い天井に反響する。
周囲の貴族たちが息を呑む音が聞こえた。憐れみ、嘲笑、あるいは好奇心。それらの視線が、無遠慮に私の背中へと突き刺さる。
私はゆっくりと瞼を閉じ、そして開いた。
手にした極彩色の羽扇子(はねせんす)を、バサリと音を立てて開く。
「……あら。随分と大きな声を出されますのね、殿下」
私の声は震えていなかった。むしろ、ダンスホールの隅々まで響き渡るほど凛としていたはずだ。
「とぼけるな! 君がミナに行った数々の嫌がらせ、もう我慢ならないんだ!」
アラン殿下が私を指差す。その指先は怒りで震えているようだった。
「嫌がらせ、ですか?」
「そうだ! 教科書を破り、ドレスにワインをかけ、階段から突き落とそうとしただろう! すべてミナから聞いている!」
彼の腕の中で、ミナが怯えたように身を縮める。上目遣いで私を見つめるその瞳は、涙で潤んでいた。
「タリー様……どうしてそんな酷いことを……私はただ、仲良くしたかっただけなのに……」
震える声。可憐な容姿。守ってあげたくなるような儚さ。
なるほど、殿下のお好みには合致しているのだろう。地味で、慎ましく、男の庇護欲をそそる花。
対して私はどうだ。
燃えるような真紅のドレスに、派手な化粧。頭には大ぶりの宝石をあしらい、手には孔雀の羽を使った扇子。
誰よりも目立ち、誰よりも華やかであることを是としてきた。
それが王太子の隣に立つ者の務めだと信じていたからだ。
「……身に覚えがありませんわ」
私は扇子で口元を隠し、冷ややかに告げた。
「嘘をつくな!」
「嘘ではありません。そもそも、私がその方に興味を持つ理由がありませんもの」
「なんだと?」
「私は公爵家の娘として、そして次期王妃としての教育に忙殺されておりました。そのような、どこの馬の骨とも知れぬ方に構っている暇など、一秒たりともありませんわ」
私の言葉に、ミナが「ひどい……」と声を漏らす。
アラン殿下の顔が朱に染まった。
「その高慢な態度だ! 君はいつもそうだ。自分が一番で、他人を見下して、派手に着飾ることしか考えていない!」
「着飾って何が悪いのです?」
私は扇子を翻し、一歩前に進み出た。
ヒールの音が、静まり返ったホールに鋭く響く。
「王族とは、国の象徴であり太陽です。民が憧れ、仰ぎ見る存在であらねばなりません。地味で目立たない太陽など、誰が拝みますの?」
「屁理屈を言うな! 僕は、ミナのような心優しい女性こそが王妃にふさわしいと言っているんだ!」
「心優しい、ねえ」
私はチラリとミナを見た。
私の視線とぶつかった瞬間、彼女の口元が微かに歪んだのを、私は見逃さなかった。
(ああ、そういうことですの)
すべてを悟った。
彼女は計算している。か弱い被害者を演じ、愚かな王子を焚きつけ、私という邪魔者を排除しようとしているのだ。
そして、アラン殿下はまんまとその手中に落ちた。
「証拠はあるのですか?」
「証拠だと?」
「ええ。私が彼女をいじめたという証拠です。目撃者は? 突き落とそうとした現場を、誰かが見ていましたの?」
「それは……ミナが二人きりの時だったと……」
「つまり、彼女の証言だけ、ということですわね」
私は呆れてため息をついた。
「殿下。貴方は次期国王となられる方です。一方的な証言だけで人を断罪するなど、あってはならないことですわ」
「うるさい、うるさい! 僕は君のそういう、可愛げのないところが嫌いなんだ!」
アラン殿下が叫んだ。
その言葉は、理屈ではなく感情だった。
彼はただ、私が嫌いなのだ。
派手で、気が強くて、自分より背が高くて、正論ばかり言う私が。
そして、自分を立ててくれる、小さくて可愛いミナを選んだ。
ただ、それだけのこと。
私の胸の奥で、何かが冷たく砕け散った音がした。
幼い頃から受けてきた厳しい妃教育。王妃になるために費やしてきた努力。それら全てが、今この瞬間、無価値なものとして切り捨てられたのだ。
悔しくないと言えば嘘になる。
はらわたが煮え繰り返るほど腹が立っている。
けれど。
(ここで泣くなんて、三流のすることですわ)
私はタリー・ローズブレイド。
社交界の華。誰よりも気高く、美しく咲き誇る大輪の薔薇。
こんな愚かな男のために涙を流して化粧を崩すなど、私のプライドが許さない。
私はバサリと扇子を閉じ、アラン殿下に突きつけた。
「……わかりましたわ」
「え?」
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
予想外の返答だったのか、アラン殿下が目を丸くする。
「そ、そうか。やっと自分の罪を認める気になったか」
「いいえ。罪など認めておりません」
私は背筋を伸ばし、顎を上げて彼を見下ろした。
「貴方様が、私の輝きに耐えられなくなっただけでしょう? 隣に並ぶには、私が眩しすぎた。だから、ご自分にお似合いの、地味で可愛らしい石ころを選ばれた」
「き、貴様……!」
「お似合いですわよ、お二人は。せいぜい、二人だけの小さなお庭で、仲睦まじくおままごとをなさっていればよろしい」
言い放つと同時に、私はくるりと踵を返した。
ドレスの裾が大きく翻り、美しい弧を描く。
「待て! まだ話は終わっていないぞ!」
背後でアラン殿下が何か喚いているが、私は一度も振り返らなかった。
これ以上、あんな男の顔を見ていたら、扇子で殴りつけてしまいそうだったからだ。
(あーあ、終わっちゃった)
心の中で、乾いた笑いが漏れる。
父様は怒るだろうか。母様は悲しむだろうか。
国のための政略結婚だった。家のため、国のために、私は自分を殺して王太子妃という型に嵌まろうとしてきた。
でも、それももう終わりだ。
「道を開けなさい!」
私が声を張り上げると、人垣が波が引くように割れた。
誰もが私を遠巻きに見ている。
「可哀想に」「捨てられた女」「あんな強気な態度だから嫌われるのよ」
ひそひそとした囁き声が耳に届く。
うるさい。黙りなさい。私は可哀想なんかじゃない。
私は自由になったのだ。
あの窮屈な王宮からも、顔を合わせるたびに「もっと地味にしろ」と小言を言ってくる王妃様からも、そしてあの見る目のない愚かな元婚約者からも。
私は胸を張り、カツカツとヒールを鳴らして歩いた。
その足取りは、ダンスのステップのように軽やかでなければならない。
どんなに傷ついていても、どんなに惨めでも、私は笑っていなければならない。
それが、悪役令嬢と呼ばれた私の、最後の意地だった。
ホールの出口へ向かう途中、ふいに強烈な寒気を感じた。
視線の圧力。
それまで浴びてきた、好奇や嘲笑の視線とは明らかに質の違う、重く鋭い気配。
ふと顔を上げると、出口の扉の前に、巨大な影が立っていた。
壁のように立ちはだかる、黒い騎士服の男。
周囲の人々が避けて通るその男は、社交界で「氷の城壁」と恐れられている、辺境伯キース・ヴェルンシュタインだった。
無骨で、無口で、女っ気の一つもない、堅物中の堅物。
(……邪魔ですわね)
彼が退かなければ、私は会場から出られない。
私は足を止めず、彼に向かって一直線に歩み寄った。
「ごきげんよう、辺境伯様。そこを通していただけます?」
精一杯の強がりを込めて、私は彼を見上げた。
近くで見ると、改めてその大きさに圧倒される。岩のような体躯に、鋭い眼光。
彼は私を見下ろし、じっと動かない。
まさか、彼も私を嘲笑うつもりなのだろうか。
「婚約破棄された女になど、かける言葉もないとおっしゃるの?」
私の挑発的な言葉に、キース辺境伯の眉がぴくりと動いた。
そして、低く、腹の底に響くような声で言った。
「……違う」
「何が違いますの?」
「あんたは」
彼はそこで言葉を切り、無骨な手をゆっくりと持ち上げた。
殴られるのかと思い、私は身構えた。
しかし、その手は私の頬に触れることなく、不器用に宙を彷徨い、やがて私の目の前に差し出された。
まるで、ダンスの誘いのように。
「あんたは、泣いているのか?」
その問いかけに、私は息を止めた。
扇子を持つ指に力が入り、爪が食い込む。
泣いてなどいない。私は笑っている。完璧な笑顔を張り付かせているはずだ。
なのに、この男は。
この、氷のように冷徹だと言われる男だけが、私の仮面の下を見透かしたというのか。
ホールの中心では、未だアラン殿下たちが私の悪口を言っているのが聞こえる。
このまま一人で逃げ出せば、私は本当に「負け犬」になる。
「……泣いてなど、おりませんわ」
私は扇子を閉じ、彼の手をパチンと叩いた。
「私のプライドは、これしきのことで折れたりしませんの」
「そうか」
キース辺境伯は、短くそう答えた。
そして、信じられないことを口にした。
「なら、証明してみせろ」
「はい?」
「あんたが負けていないことを。その輝きが、あんな男の言葉一つで曇るような安いものじゃないことを」
彼は差し出した手を引っ込めなかった。
その瞳は、真っ直ぐに私を射抜いている。
そこには嘲りも、憐れみもない。ただ純粋な、熱のような色が宿っていた。
「俺と踊れ、タリー・ローズブレイド」
会場中がどよめいた。
あの堅物辺境伯が、ダンスを申し込んだ?
しかも、今まさに婚約破棄されたばかりの、傷物令嬢に?
私は呆気にとられ、しばらく彼の手を見つめていた。
けれど、次第に胸の奥から、熱いものが込み上げてくるのを感じた。
それは屈辱ではない。
この男は、私に「逃げるな」と言っているのだ。
堂々と胸を張り、最後まで美しくあれと、そう言っているのだ。
(面白いじゃない)
私はニヤリと笑った。
この状況で、私に手を差し伸べる命知らず。
その無骨な手のひらが、今はたまらなく頼もしく見えた。
「よろしいですわ」
私は扇子を腰のベルトに差し、彼の手の上に自分の手を重ねた。
「ただし、私のリードについてこられなくて、恥をかいても知りませんわよ?」
「……善処する」
音楽はない。
けれど、私の心の中では、すでに激しいリズムが鳴り響いていた。
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