覚えのない罪で婚約破棄、なぜか隣国の王太子に気に入られた

ちゅんりー

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「……は? 今、なんと仰いました?」


私は、差し出されたラインハルト様の美しい手を見つめたまま、思考を停止させました。


いえ、正確には「思考を停止させた」のではなく「脳内計算機を高速で回し始めた」と言うべきでしょう。


ノイシュタット帝国の第一皇太子、ラインハルト・フォン・ノイシュタット。


若くして帝国の実権を握り、停滞していた国力を数年で大陸随一にまで押し上げた「氷の執政官」。


そんな雲の上の存在が、たった今婚約破棄されたばかりの私をスカウトしている。これは現実でしょうか。


「聞こえなかったかな? 私の国に来て、私の右腕として働いてほしいと言ったんだ」


ラインハルト様は、まるで極上の獲物を見つけた猟師のような目で、私をじっと見つめています。


「……お言葉ですが、私は今、この国の王太子から『悪女』として婚約破棄を言い渡されたばかりの身ですわ。そんな女を連れ帰れば、あなたの国の貴族たちが黙っていないのでは?」


「ハハッ、何を言う。私の国では、無能な聖女より、有能な悪女の方が何倍も重宝される。君がさっき見せた、あの鮮やかな事務的報復。あれこそ私が求めていた才能だ」


ラインハルト様は愉快そうに笑い、さらに距離を詰めてきました。


「それに、君がこの国でどれだけの仕事を代行していたか、私は知っているよ。エドワードが遊び歩いている間、深夜まで執務室に明かりを灯していたのは君だろう?」


……この方、見ていたのですか。私の、あの「徹夜続きでクマが酷いから誰にも会いたくない状態」の執務風景を。


「労働条件を提示しよう。年俸は今の公爵令嬢としての手当の三倍。専属の事務官を十名付け、有給休暇は年間四十日。さらに、仕事中の茶菓子は帝国最高のパティシエに用意させよう。……どうかな?」


(……年俸三倍。有給四十日。……そして、一流のパティシエ。……勝ったわ)


私の心の中の「転職活動・希望条件表」のすべての項目に、大きな花丸がつけられました。


「マリーナ! まだそこにいたのか! 不快だから早く消えろと言っただろう!」


背後から、空気を読まない怒鳴り声が響きました。


振り返ると、リリアンさんを腰に抱きつかせたエドワード様が、顔を真っ赤にしてこちらへ歩いてくるところでした。


「それに貴様……他国の皇太子と馴れ馴れしく何をしている! マリーナは罪人なのだぞ!」


エドワード様の言葉に、ラインハルト様の瞳がスッと細まりました。


「……罪人、か。エドワード殿下、その言葉は聞き捨てならないな。彼女が一体、どのような法に触れたというのだ?」


「それは……こいつがリリアンをいじめたからだ! 婚約者である私を蔑ろにした罪もある!」


「いじめの証拠は、先ほど彼女に論破されていたようだが? それに、婚約者を蔑ろにしていたのは、君の方ではないのか?」


ラインハルト様の冷徹な声が会場に響き渡り、エドワード様がたじろぎます。


「な、なんだと……!」


「君が彼女に押し付けていた公務の量。あれをこの国の法務官が見れば、君の方が『強制労働』の罪で訴えられるレベルだよ。……マリーナ嬢、彼の言う通り、君はもうこの場所から『消える』べきだ」


ラインハルト様は再び私の方を向き、優しく微笑みました。


「こんな埃っぽい場所ではなく、もっと相応しい場所へ。……君の才能が正当に評価される、私の元へ」


私は、自分の中で何かが弾ける音を聞きました。


この国への未練? そんなものは、今この瞬間に霧散しましたわ。


「……ラインハルト様。一つだけ、確認させてくださいませ」


「なんだい?」


「私の仕事に、彼の『尻拭い』は含まれますか?」


「まさか。君には、もっと高次元の、国家の根幹に関わるクリエイティブな仕事をお願いしたい。誰かの失敗を片付けるだけの時間は、君の人生には不要だ」


その言葉こそ、私がずっと求めていたものでした。


「決まりですわ。謹んで、お引き受けいたします」


私はラインハルト様の手を取り、優雅にカーテシーを捧げました。


「ちょっと待て! 勝手に話を進めるな! マリーナ、お前は公爵家の娘だろう! 勝手な移住など許されるはずが……!」


「エドワード様。先ほど、私を『追放』すると仰ったのは、他ならぬあなたですわ」


私は冷ややかに笑い、バインダーからさらに一枚、別の書類を取り出しました。


「こちらは『国外追放命令』の同意書です。あらかじめ、あなたが追放と言い出した時のために、公爵家と王家の事務官(私の息がかかった者たち)に根回しして作成しておきました。さあ、こちらにサインを」


「……は?」


「これで、私は法的にこの国との縁が切れます。公爵家は兄が継ぎますし、私は一人の自由な『技術職』として隣国へ渡ります。さあ、早く。あなたの愛するリリアンさんとの幸せな時間を、私がこれ以上邪魔してはいけませんものね?」


エドワード様は、何が起きているのか理解できないという顔で、差し出されたペンを握らされました。


彼は「マリーナを追い出せる」という目先の喜びと、私の有無を言わせぬプレッシャーに負け、震える手でサインを書き込みました。


「……よし。契約成立ですわね」


私は完成した書類をラインハルト様に手渡しました。


「ラインハルト様、お待たせいたしました。アデレード公爵令嬢マリーナ、ただいまをもって貴国への『移籍』を完了いたします」


「最高の契約だ。……行こうか、マリーナ。君の新しい執務室が、君を待っている」


ラインハルト様は私の腰を抱き寄せ、エドワード様に見せつけるように、堂々と会場の出口へと歩き出しました。


「あ、待って、マリーナ様! 私、まだ謝ってもらって……!」


リリアンさんが追いすがろうとしましたが、私は振り返りもせずに言い放ちました。


「リリアンさん。明日からエドワード様が処理しなければならない書類は、高さ二メートルほどありますわ。愛の力で、ぜひ助けてあげてくださいね。……あ、もちろん無給ですけれど」


リリアンさんの顔が、一瞬で引き攣るのが横目で見えました。


パーティー会場の扉が開かれ、心地よい夜風が私を包み込みます。


「マリーナ、荷物の準備はどうする? 必要なら、私の手勢を公爵邸に向かわせるが」


「いえ、ラインハルト様。準備の良さには定評がありますの。……ほら、あそこに」


パーティー会場の馬車溜まりには、すでに大量の荷物を積んだ十数台の馬車と、武装した公爵家の私兵たちが整列していました。


「婚約破棄を言い渡される五分前に、全ての荷造りと積み込みを完了させておきましたわ」


ラインハルト様は一瞬絶句し、その後、今日一番の大きな笑い声を上げました。


「……くくっ、ハハハ! 素晴らしい! 君をスカウトしたのは、私の人生で最高の決断だったよ!」


こうして私は、生まれた国を「退職」し、隣国の冷徹王太子の右腕……兼、契約上の婚約者(仮)として、新生活をスタートさせることになったのです。


この時の私はまだ、隣国の仕事が「ホワイト」すぎて逆に戸惑うことになるとは、夢にも思っていませんでした。
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