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ノイシュタット帝国の朝は、清々しい空気と、完璧に管理されたタイムスケジュールで始まります。
私の専属秘書官となったルークをはじめ、新たに配属された十名の事務官たちは、当初、私を「隣国から来た得体の知れない令嬢」として、遠巻きに見ていました。
それもそうでしょう。昨日まで敵対に近い関係だった国の、しかも「悪役令嬢」として婚約破棄された女が、いきなり帝国の中枢に座ったのですから。
「……あの、マリーナ様。本日の予定ですが、財務局からの再検討依頼が三件、それから……」
ルークが、おずおずと資料を差し出します。彼の目は、明らかに睡眠不足で充血していました。
「ルーク、その資料を見る前に、まずは顔を洗ってきなさい。それから、その左手に持っている『栄養ドリンクの空き瓶』を捨てなさい。効率が落ちていますわ」
「えっ……あ、はい。すみません、昨夜はこの資料を整理するだけで手一杯で……」
「いいですか。書類を整理するために夜を明かすのは、無能の証明ですわ。……どれ、貸してごらんなさい」
私は彼の手から資料を奪い取ると、五分で目を通しました。
「……なるほど。この輸送ルートの関税特例措置、計算式が古いままですわね。それに、ここの署名。財務局次長の筆跡ですが、普段より少し震えています。……さては、昨夜かなりお酒を飲んで適当にサインしましたわね?」
「えっ……ええっ!? そんなことまでわかるんですか!?」
「数字と筆跡は、真実を語るものですわ。……ルーク、この三件はすべて差し戻し。ただし、私が赤字で修正したこの『改善案』を添えて送りなさい。二度と手抜きはさせない、という無言の圧力を込めてね」
私がスラスラと赤ペンを走らせると、ルークは開いた口が塞がらないといった様子で書類を眺めていました。
「……信じられない。僕たちが三日かけても見つけられなかった不備を、たった数分で……」
「ルーク、感心している暇があったら、他の事務官たちを集めなさい。……今から一時間で、帝国の『全事務工程の最適化』を行いますわ」
「全事務工程……!? 一時間で、ですか!?」
「ええ。今のあなたたちの働き方は、あまりにも非効率ですもの。もっと楽をして、もっと成果を出す。それがマリーナ流・ホワイト職場改革ですわ!」
それからの三十分、私は執務室の中央に立ち、次々と指示を飛ばしました。
「そこのあなた! その書類のファイリングは時間の無駄です。色分けして魔導タグを付けなさい!」
「あなたは計算機を使わずに、この術式を起動させなさい。脳のメモリを節約するのです!」
「そこの彼女、お茶を淹れるタイミングが早すぎます。私がこの三枚の書類にサインし終えた五秒後が、最も適温ですわ!」
嵐のような一時間が過ぎた頃。
執務室の中の空気は、劇的に変わっていました。
山積みだった書類は整理され、事務官たちの動きには無駄がなくなり、驚くほど静かで、かつ迅速な空間へと変貌したのです。
「……終わりました。……えっ、本当に、今日の分の仕事が、もう終わったんですか?」
事務官の一人が、信じられないという顔で時計を見ました。まだ午前十一時です。
「ええ。午後からは自由時間ですわ。勉強するもよし、街へ遊びに行くもよし。……ただし、明日の朝九時には、完璧なコンディションで出勤すること。いいわね?」
「「「は、はい! マリーナ教祖様!!」」」
……いつの間にか、呼び方が「教祖様」に変わっていました。
彼らは今や、私を敬遠するどころか、拝むような目で見ています。
「……マリーナ、君の教育は少し過激すぎるんじゃないかな」
扉の近くで、いつの間にかラインハルト様が、壁に背を預けて笑っていました。
「ラインハルト様。見ていらしたのですか?」
「ああ。事務官たちが、まるで奇跡を見た聖者のような顔をして執務室から出ていくのを見かけてね。……君は、私の国まで作り変えてしまうつもりかい?」
「まさか。私はただ、自分の仕事をしやすくしただけですわ。……それで、ラインハルト様。本日の『重要案件』は?」
私は椅子から立ち上がり、彼に向き直りました。
ラインハルト様は、少し真剣な表情になり、一通の報告書をテーブルに置きました。
「……ベルセルク王国の経済状況が、予測を上回る速さで悪化している。エドワードが強引に徴収しようとした臨時税が、各地で暴動の火種になっているようだ」
「……あら。あの方は、まだ国民の忍耐力を『無限のリソース』だと思っていらっしゃるのね」
「さらに、エドワードは隣国……つまり我が国に対して、多額の『融資』を申し込んできた。……マリーナ、君ならどう返事をする?」
私は、報告書の内容をチラリと見ただけで、即座に答えを出しました。
「融資など不要ですわ。……それより、担保として『国境付近の鉱山利権』を要求しましょう。あそこは、私が以前から帝国の物流拠点として目を付けていた場所です」
「……利権を奪い、実質的な経済支配を進めるということか。冷徹だな、マリーナ」
ラインハルト様は、愉快そうに私の腰を引き寄せ、耳元で低く囁きました。
「だが、そういうところも……私は嫌いじゃない」
「ビジネスチャンスを逃さない。……それが、私からエドワード様への、最大限の『お返し』ですわ」
私はラインハルト様の胸に手を当て、不敵な笑みを浮かべました。
一方、その頃。ベルセルク王国の王宮では。
「マリーナぁぁぁ! なぜだ! なぜ街でパンが買えなくなっているんだ! お前がいれば、こんなことにはならなかったはずだろう!」
エドワード様の叫びが、今日も虚しく、荒れ果てた執務室に響き渡っていました。
彼の隣で、リリアンさんは「パンがないなら、お菓子を食べればいいのに……」と、どこかで聞いたような台詞を本当に呟いて、周囲の官僚たちを絶望させているのでした。
私の専属秘書官となったルークをはじめ、新たに配属された十名の事務官たちは、当初、私を「隣国から来た得体の知れない令嬢」として、遠巻きに見ていました。
それもそうでしょう。昨日まで敵対に近い関係だった国の、しかも「悪役令嬢」として婚約破棄された女が、いきなり帝国の中枢に座ったのですから。
「……あの、マリーナ様。本日の予定ですが、財務局からの再検討依頼が三件、それから……」
ルークが、おずおずと資料を差し出します。彼の目は、明らかに睡眠不足で充血していました。
「ルーク、その資料を見る前に、まずは顔を洗ってきなさい。それから、その左手に持っている『栄養ドリンクの空き瓶』を捨てなさい。効率が落ちていますわ」
「えっ……あ、はい。すみません、昨夜はこの資料を整理するだけで手一杯で……」
「いいですか。書類を整理するために夜を明かすのは、無能の証明ですわ。……どれ、貸してごらんなさい」
私は彼の手から資料を奪い取ると、五分で目を通しました。
「……なるほど。この輸送ルートの関税特例措置、計算式が古いままですわね。それに、ここの署名。財務局次長の筆跡ですが、普段より少し震えています。……さては、昨夜かなりお酒を飲んで適当にサインしましたわね?」
「えっ……ええっ!? そんなことまでわかるんですか!?」
「数字と筆跡は、真実を語るものですわ。……ルーク、この三件はすべて差し戻し。ただし、私が赤字で修正したこの『改善案』を添えて送りなさい。二度と手抜きはさせない、という無言の圧力を込めてね」
私がスラスラと赤ペンを走らせると、ルークは開いた口が塞がらないといった様子で書類を眺めていました。
「……信じられない。僕たちが三日かけても見つけられなかった不備を、たった数分で……」
「ルーク、感心している暇があったら、他の事務官たちを集めなさい。……今から一時間で、帝国の『全事務工程の最適化』を行いますわ」
「全事務工程……!? 一時間で、ですか!?」
「ええ。今のあなたたちの働き方は、あまりにも非効率ですもの。もっと楽をして、もっと成果を出す。それがマリーナ流・ホワイト職場改革ですわ!」
それからの三十分、私は執務室の中央に立ち、次々と指示を飛ばしました。
「そこのあなた! その書類のファイリングは時間の無駄です。色分けして魔導タグを付けなさい!」
「あなたは計算機を使わずに、この術式を起動させなさい。脳のメモリを節約するのです!」
「そこの彼女、お茶を淹れるタイミングが早すぎます。私がこの三枚の書類にサインし終えた五秒後が、最も適温ですわ!」
嵐のような一時間が過ぎた頃。
執務室の中の空気は、劇的に変わっていました。
山積みだった書類は整理され、事務官たちの動きには無駄がなくなり、驚くほど静かで、かつ迅速な空間へと変貌したのです。
「……終わりました。……えっ、本当に、今日の分の仕事が、もう終わったんですか?」
事務官の一人が、信じられないという顔で時計を見ました。まだ午前十一時です。
「ええ。午後からは自由時間ですわ。勉強するもよし、街へ遊びに行くもよし。……ただし、明日の朝九時には、完璧なコンディションで出勤すること。いいわね?」
「「「は、はい! マリーナ教祖様!!」」」
……いつの間にか、呼び方が「教祖様」に変わっていました。
彼らは今や、私を敬遠するどころか、拝むような目で見ています。
「……マリーナ、君の教育は少し過激すぎるんじゃないかな」
扉の近くで、いつの間にかラインハルト様が、壁に背を預けて笑っていました。
「ラインハルト様。見ていらしたのですか?」
「ああ。事務官たちが、まるで奇跡を見た聖者のような顔をして執務室から出ていくのを見かけてね。……君は、私の国まで作り変えてしまうつもりかい?」
「まさか。私はただ、自分の仕事をしやすくしただけですわ。……それで、ラインハルト様。本日の『重要案件』は?」
私は椅子から立ち上がり、彼に向き直りました。
ラインハルト様は、少し真剣な表情になり、一通の報告書をテーブルに置きました。
「……ベルセルク王国の経済状況が、予測を上回る速さで悪化している。エドワードが強引に徴収しようとした臨時税が、各地で暴動の火種になっているようだ」
「……あら。あの方は、まだ国民の忍耐力を『無限のリソース』だと思っていらっしゃるのね」
「さらに、エドワードは隣国……つまり我が国に対して、多額の『融資』を申し込んできた。……マリーナ、君ならどう返事をする?」
私は、報告書の内容をチラリと見ただけで、即座に答えを出しました。
「融資など不要ですわ。……それより、担保として『国境付近の鉱山利権』を要求しましょう。あそこは、私が以前から帝国の物流拠点として目を付けていた場所です」
「……利権を奪い、実質的な経済支配を進めるということか。冷徹だな、マリーナ」
ラインハルト様は、愉快そうに私の腰を引き寄せ、耳元で低く囁きました。
「だが、そういうところも……私は嫌いじゃない」
「ビジネスチャンスを逃さない。……それが、私からエドワード様への、最大限の『お返し』ですわ」
私はラインハルト様の胸に手を当て、不敵な笑みを浮かべました。
一方、その頃。ベルセルク王国の王宮では。
「マリーナぁぁぁ! なぜだ! なぜ街でパンが買えなくなっているんだ! お前がいれば、こんなことにはならなかったはずだろう!」
エドワード様の叫びが、今日も虚しく、荒れ果てた執務室に響き渡っていました。
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