婚約破棄。予言なんて不吉なこと、言わないでいただけます?

ちゅんりー

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「……ようやく、不動産屋からの資料を精読できるわ」


セドリック様を物理的(ネズミと学園長)に排除した私は、図書室のさらに奥、禁書庫に近い静寂の地へと避難していた。


手元の資料には、理想的な物件が並んでいる。
湖畔の静かな別荘、近隣住人なし、防犯体制(物理)完備。
完璧だわ。これこそが私の求めていた終着駅よ。


「……おや。その物件はあまりお勧めできないね。地下の湿気が高く、三年後には床板が腐り始める計算だ」


「…………」


私は無言で、手にした資料を丸めた。
振り返らなくてもわかる。この、脳髄を撫で回されるような粘着質な声。


「……サイラス様。貴方、今は魔法史の講義中ではありませんの?」


「あんな基礎的な話を聞くより、君の『未来予測』の源泉を解析する方がよろしいという結論に達したんだ。……そこでだ、マーリ」


サイラス様が、仰々しく一本の巻物を取り出した。
それは、古めかしい羊皮紙に、禍々しいほどの魔力が込められた複雑な術式がびっしりと書き込まれたものだった。


「……何かしら、その不吉なゴミは」


「ゴミじゃない。僕と君の『終身共同観測契約書』だ」


「……日本語に翻訳してくださる?」


「結婚して、一生僕に観察させてくれというプロポーズだよ」


サイラス様は、至って真面目な顔で、巻物を私の鼻先に突きつけてきた。


「この契約書にサインをすれば、君の生活費、研究費、そして隠居後の安全はすべて僕の魔導師団が保証する。その代わり、君の毎日の心拍、体温、思考のパターンをすべて僕に提供してもらう」


「……お断りしますわ。プライバシーの欠片もありませんもの」


「おや、冷たいね。でも、この契約書には『拒否権を物理的に消失させる』特殊な魔導インクが使われているんだ。君がこれに触れた瞬間、契約は半分成立したとみなされ――」


私は、サイラス様の手元と、その巻物をじっと観察した。
インクの光沢。紙の端の僅かな縮れ。そして、サイラス様が持っているペンの「持ち手」の熱。


「……サイラス様。その契約、あと五秒で白紙に戻りますわよ」


「ははっ、まさか。これは古代の魔女が使っていた消えないインク――」


「消えはしませんけれど、そのインク。特定の温度を超えると、成分が揮発して無色透明になる性質を持っていますわね。……今、貴方の手の熱が、巻物の芯にある加熱用の魔石を刺激していますわ」


「……え?」


サイラス様が慌てて巻物を広げた。
そこには、先ほどまでびっしりと書かれていたはずの術式が、陽炎のようにゆらゆらと消えていく様子が映し出されていた。


「……あ、ああああ!? 僕の、僕の三日三晩かけた精密な術式が……透明に……!」


「予備のインクの瓶、そこの棚にありましたけれど……あ、貴方が今、驚いて肘で突き落としましたわね」


ガシャアアンッ!!


棚から落ちたインク瓶が床で砕け、真っ黒な液体がサイラス様の高価なローブを無惨に染め上げた。


「……あ。……あ、ああああ……」


「……言ったはずですわ。不吉なゴミだって。……サイラス様、そのインク、一度服に付くと、特殊な中和剤を使わない限り一生落ちませんわよ。……あ、その中和剤のレシピ、さっき消えた術式の裏に書いてあったようですけれど」


「…………嘘だろ?」


天才魔導師が、真っ黒に汚れた自分の袖を握りしめ、膝から崩れ落ちた。


「……やれやれ。物理的な性質を無視して魔法ばかりに頼るから、そんなことになるんですのよ。……あ、サイラス様。あと十秒で、貴方のその黒い汚れを『不浄の魔力』だと勘違いした図書室の自動浄化システムが作動しますわよ」


「……え? 自動浄化……って、あの高圧洗浄魔法のことかい?」


「ええ。……三、二、一。はい、どうぞ」


ドォォォォォンッ!!


天井の魔法陣から、凄まじい勢いの水流がサイラス様を直撃した。
図書室の一角が、一瞬にして滝行の現場と化した。


「……ぶはっ! ごぼっ……! ま、マーリ……! 君は、君はやっぱり……最高だ……!」


ずぶ濡れになりながらも、サイラス様は狂ったように笑い、流されていく手帳に何かを書き込もうとしていた。


「……お大事になさって。私は別の部屋で、静かに不動産資料を読み直しますわ」


私は、水浸しの天才を放置して、足早に図書室を後にした。


セドリック様は筋肉で、サイラス様は理論で。
どちらも私を「捕獲」しようとするけれど、この世界の物理法則は、いつだって私の味方をしてくれる。


「……でも、さすがに疲れましたわね」


私は中庭を歩きながら、ふと足を止めた。
リリア様がいなくなり、殿下との婚約も解消された。
残るは、この二人の「執着」をどう物理的に回避するかだけだ。


「……物件、やっぱり湖の真ん中の孤島にしようかしら。橋を落とせば、誰も来られませんものね」


私は、自分の未来予測が「より過激な引き籠もり」に向かっていることを自覚しながら、重い溜息を吐いた。
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