11 / 28
11
しおりを挟む
「……ワン、ツー、スリー! はい、そこ! 肘の角度が甘いですわよ! 関節を正しく動かすことは、将来的な医療コストの削減に繋がるのですから!」
朝日が岩肌をオレンジ色に染める早朝。ガラガラ地方の暫定キャンプ地では、異様な光景が広がっていた。
公爵令嬢であったはずのカタールが、泥のついたドレスの裾を大胆に捲り上げ、四十人のむさ苦しい男たちを前に「効率的朝の体操」を指導しているのだ。
「いいですか。朝の五分間の柔軟こそが、日中の労働災害を防ぎ、結果として工期を短縮させるのです! ほら、ガンツ親方もサボらないで!」
「へ、へい……っ。お嬢、いやCEO。この動き、意外とキツいんだが……」
「キツいのは普段使っていない筋肉が泣いている証拠ですわ。さあ、次は深呼吸! この地の澄んだ空気を肺いっぱいに取り込んで、脳に酸素を送りなさい!」
その様子を、一段高い岩の上から眺めていたゼストは、手にしたコーヒーカップ(木製)を口に運ぶのも忘れて呆然としていた。
隣には、同じく遠い目をしている護衛騎士のバルトが立っている。
「……バルト。一応確認したいんだが。あそこで『もっと腰を落として!』と叫んでいる女性は、確かに我が国でも指折りの名門、オシエル公爵家の令嬢だった人だよね?」
「間違いありません。私も十数年お仕えしていますが、あんなにキレのある動きをするお嬢様は初めて見ました。……おそらく、王宮でのストレスが全て『効率化への情熱』に変換されたのでしょう」
「情熱、ね……。僕の知っている公爵令嬢という生き物は、もっとこう、バラの香りに包まれて詩を読んだり、刺繍をしたり、婚約者の浮気にしおらしく涙したりするものだと思っていたんだが」
ゼストは、体操を終えて「さあ、業務開始ですわ!」と爽やかに解散を宣言したカタールを見つめた。
彼女の顔には泥が跳ね、手袋は作業で薄汚れている。しかし、その瞳は王都にいた頃のどの令嬢よりも——そしてどの商人よりも、眩しく輝いていた。
「ゼスト様! そこにいたのですか。ちょうど良かったですわ。隣国から届いた資材の検収作業、立ち会っていただけます?」
カタールが、弾むような足取りでゼストの下へ駆け寄ってきた。
「ああ、もちろんだ。……それにしてもカタール、君は少しは休むということを知らないのかい? 昨夜も深夜まで街の設計図を引いていただろう」
「休む? 何をおっしゃるんです。今は『創業期』ですよ? この時期の数時間の遅れが、将来的な複利計算でどれほどの損失を生むか、商会長であるあなたなら理解できるはずですわ」
彼女は当然のように言い放つと、ゼストの手を掴んで荷降ろし場へと引っ張っていった。
「見てください、この石灰石の質! これなら、私が考案した『速乾性簡易セメント』の試作に十分耐えられます。これで社宅の建設を一気に進めますわよ」
「……簡易セメント? そんなものまで自作するつもりかい?」
「配合比率さえ間違えなければ、既製品を買うよりコストを四割カットできますもの。ゼスト様、あなたにはその浮いた予算で、次は『最高級の寝具』を百セット発注していただきたいのです」
カタールは、汚れた手袋のまま、ゼストの目を真っ直ぐに見つめた。
「従業員には最高の休息を。それが結果として、最高の品質を生む。……私のこの投資、間違っているかしら?」
ゼストは、彼女の熱に浮かされるように、思わず息を呑んだ。
至近距離で見るカタールの瞳は、計算高い冷徹さと、理想を追い求める無垢な情熱が同居している。
商売道具としての価値ではない。一人の人間として、これほどまでに強くて美しい生き物を、ゼストは見たことがなかった。
(……ああ、ダメだ。これは投資家として失格かもしれない)
ゼストの胸の奥で、カチリ、と小さな音がした。
それは、彼がこれまで大切にしてきた「損得勘定」の天秤が、一方的にカタールの側へと大きく傾いた音だった。
「……カタール。君、本当に公爵令嬢だよね?」
「なんですの、藪から棒に。合意書にもしっかり書いてあったでしょう?」
「いや、あまりにも規格外すぎてね。……分かった、寝具の件は僕の個人資産を使ってでも、大陸最高の品を揃えよう。ただし、条件がある」
「条件? マージンの上乗せなら検討しますけれど」
「いいえ。……今夜、仕事が終わった後でいい。僕と一緒に、君が掘り当てたあの温泉に入ってくれないか? もちろん、男女別々の区画でいいからさ。少し、ゆっくり話がしたいんだ」
カタールは不思議そうに小首を傾げた。
「温泉? ああ、成分の臨床試験のフィードバックですね。構いませんわよ。経営者同士、裸の付き合いで信頼関係を築くのも、一つの合理的な選択ですわ」
「……君のその、色気のない合理的なところが最高に魅力的だよ」
ゼストは苦笑しながら、カタールの細い指先をそっと握った。
泥で汚れたその手は、どんな宝石で飾られた手よりも、ゼストにとっては尊いものに感じられた。
それを見守るバルトは、「……またお嬢様が、無自覚に大物を釣り上げた」と、深くため息をつくのだった。
朝日が岩肌をオレンジ色に染める早朝。ガラガラ地方の暫定キャンプ地では、異様な光景が広がっていた。
公爵令嬢であったはずのカタールが、泥のついたドレスの裾を大胆に捲り上げ、四十人のむさ苦しい男たちを前に「効率的朝の体操」を指導しているのだ。
「いいですか。朝の五分間の柔軟こそが、日中の労働災害を防ぎ、結果として工期を短縮させるのです! ほら、ガンツ親方もサボらないで!」
「へ、へい……っ。お嬢、いやCEO。この動き、意外とキツいんだが……」
「キツいのは普段使っていない筋肉が泣いている証拠ですわ。さあ、次は深呼吸! この地の澄んだ空気を肺いっぱいに取り込んで、脳に酸素を送りなさい!」
その様子を、一段高い岩の上から眺めていたゼストは、手にしたコーヒーカップ(木製)を口に運ぶのも忘れて呆然としていた。
隣には、同じく遠い目をしている護衛騎士のバルトが立っている。
「……バルト。一応確認したいんだが。あそこで『もっと腰を落として!』と叫んでいる女性は、確かに我が国でも指折りの名門、オシエル公爵家の令嬢だった人だよね?」
「間違いありません。私も十数年お仕えしていますが、あんなにキレのある動きをするお嬢様は初めて見ました。……おそらく、王宮でのストレスが全て『効率化への情熱』に変換されたのでしょう」
「情熱、ね……。僕の知っている公爵令嬢という生き物は、もっとこう、バラの香りに包まれて詩を読んだり、刺繍をしたり、婚約者の浮気にしおらしく涙したりするものだと思っていたんだが」
ゼストは、体操を終えて「さあ、業務開始ですわ!」と爽やかに解散を宣言したカタールを見つめた。
彼女の顔には泥が跳ね、手袋は作業で薄汚れている。しかし、その瞳は王都にいた頃のどの令嬢よりも——そしてどの商人よりも、眩しく輝いていた。
「ゼスト様! そこにいたのですか。ちょうど良かったですわ。隣国から届いた資材の検収作業、立ち会っていただけます?」
カタールが、弾むような足取りでゼストの下へ駆け寄ってきた。
「ああ、もちろんだ。……それにしてもカタール、君は少しは休むということを知らないのかい? 昨夜も深夜まで街の設計図を引いていただろう」
「休む? 何をおっしゃるんです。今は『創業期』ですよ? この時期の数時間の遅れが、将来的な複利計算でどれほどの損失を生むか、商会長であるあなたなら理解できるはずですわ」
彼女は当然のように言い放つと、ゼストの手を掴んで荷降ろし場へと引っ張っていった。
「見てください、この石灰石の質! これなら、私が考案した『速乾性簡易セメント』の試作に十分耐えられます。これで社宅の建設を一気に進めますわよ」
「……簡易セメント? そんなものまで自作するつもりかい?」
「配合比率さえ間違えなければ、既製品を買うよりコストを四割カットできますもの。ゼスト様、あなたにはその浮いた予算で、次は『最高級の寝具』を百セット発注していただきたいのです」
カタールは、汚れた手袋のまま、ゼストの目を真っ直ぐに見つめた。
「従業員には最高の休息を。それが結果として、最高の品質を生む。……私のこの投資、間違っているかしら?」
ゼストは、彼女の熱に浮かされるように、思わず息を呑んだ。
至近距離で見るカタールの瞳は、計算高い冷徹さと、理想を追い求める無垢な情熱が同居している。
商売道具としての価値ではない。一人の人間として、これほどまでに強くて美しい生き物を、ゼストは見たことがなかった。
(……ああ、ダメだ。これは投資家として失格かもしれない)
ゼストの胸の奥で、カチリ、と小さな音がした。
それは、彼がこれまで大切にしてきた「損得勘定」の天秤が、一方的にカタールの側へと大きく傾いた音だった。
「……カタール。君、本当に公爵令嬢だよね?」
「なんですの、藪から棒に。合意書にもしっかり書いてあったでしょう?」
「いや、あまりにも規格外すぎてね。……分かった、寝具の件は僕の個人資産を使ってでも、大陸最高の品を揃えよう。ただし、条件がある」
「条件? マージンの上乗せなら検討しますけれど」
「いいえ。……今夜、仕事が終わった後でいい。僕と一緒に、君が掘り当てたあの温泉に入ってくれないか? もちろん、男女別々の区画でいいからさ。少し、ゆっくり話がしたいんだ」
カタールは不思議そうに小首を傾げた。
「温泉? ああ、成分の臨床試験のフィードバックですね。構いませんわよ。経営者同士、裸の付き合いで信頼関係を築くのも、一つの合理的な選択ですわ」
「……君のその、色気のない合理的なところが最高に魅力的だよ」
ゼストは苦笑しながら、カタールの細い指先をそっと握った。
泥で汚れたその手は、どんな宝石で飾られた手よりも、ゼストにとっては尊いものに感じられた。
それを見守るバルトは、「……またお嬢様が、無自覚に大物を釣り上げた」と、深くため息をつくのだった。
0
あなたにおすすめの小説
『婚約破棄された悪役令嬢ですが、嫁ぎ先で“連れ子三人”の母になりました ~三人の「ママ」が聞けるまで、私は絶対に逃げません~』
放浪人
恋愛
「母はいりません」と拒絶された悪役令嬢が、最強の“ママ”になるまでの物語。
「君のような可愛げのない女は、王妃にふさわしくない」
身に覚えのない罪で婚約破棄され、“悪役令嬢”の汚名を着せられたクラリス。 彼女が新たに嫁いだのは、北方の辺境を守る「氷の公爵」ことレオンハルト・フォン・グレイフだった。
冷え切った屋敷で彼女を待っていたのは、無表情な夫と、心に傷を負った三人の連れ子たち。 「僕たちに、母はいりません」 初対面で突きつけられた三つの拒絶。しかし、クラリスは諦めなかった。
「称号はいりません。私が欲しいのは――あなたたち三人の『ママ』になれる日だけです」
得意の生活魔法『灯(ともしび)』で凍えた部屋を温め、『鎮(しずめ)』の歌で夜泣きを癒やし、家政手腕で荒れた食卓を立て直す。 クラリスの献身的な愛情は、頑なだった子供たちの心を解きほぐし、やがて不器用な夫の氷の心さえも熱く溶かしていく。
これは、不遇な悪役令嬢が「最強の母」となり、家族を脅かす元婚約者や魔獣たちを華麗に撃退し、最愛の家族から「ママ」と呼ばれるその日までを綴った物語。
働かないつもりでしたのに、気づけば全部うまくいっていました ――自由に生きる貴族夫人と溺愛旦那様』
鷹 綾
恋愛
前世では、仕事に追われるだけの人生を送り、恋も自由も知らないまま終わった私。
だからこそ転生後に誓った――
「今度こそ、働かずに優雅に生きる!」 と。
気づけば貴族夫人、しかも結婚相手は冷静沈着な名門貴族リチャード様。
「君は何もしなくていい。自由に過ごしてくれ」
――理想的すぎる条件に、これは勝ち確人生だと思ったのに。
なぜか気づけば、
・屋敷の管理を改善して使用人の待遇が激変
・夫の仕事を手伝ったら経理改革が大成功
・興味本位で教えた簿記と珠算が商業界に革命を起こす
・商人ギルドの顧問にまで祭り上げられる始末
「あれ? 私、働かない予定でしたよね???」
自分から出世街道を爆走するつもりはなかったはずなのに、
“やりたいことをやっていただけ”で、世界のほうが勝手に変わっていく。
一方、そんな彼女を静かに見守り続けていた夫・リチャードは、
実は昔から彼女を想い続けていた溺愛系旦那様で――。
「君が選ぶなら、私はずっとそばにいる」
働かないつもりだった貴族夫人が、
自由・仕事・愛情のすべてを“自分で選ぶ”人生に辿り着く物語。
これは、
何もしないはずだったのに、幸せだけは全部手に入れてしまった女性の物語。
公爵令嬢、学校をつくる。 ―学院のない世界に学院を作りますわ!―
鷹 綾
恋愛
男が学び、女は飾るだけ——
そんな世界に、ひとりの公爵令嬢が問いを投げた。
レクチャラー・トレイルブレイザー。
名門公爵家に生まれた彼女は、幼い頃に父から“学院”という御伽話を聞く。徒弟でも修道院でもない、講師を集め、制度として人を育てる場所。
この世界には、まだその言葉すら存在しなかった。
「講師を一か所に集めますわ」
家庭ごとに高額な家庭教師を雇う非効率。
才能があっても機会を得られない現実。
身分と財力だけが教育を決める社会構造。
彼女は合理性を武器に、貴族子弟のための“学院”を創設する。
複数の生徒から月謝を集めることで、家庭教師より安価に。
講師にはより高額な報酬を。
制度として成立する形で、教育を再設計する。
やがて学院は成果を出し、“学院出身”は優秀の証となる。
その基盤の上で、彼女は次の一歩を踏み出す。
——貴族女子学院。
「美しさと知性と教養を兼ね備えた令嬢。婚約先は、よりどりみどりですわ」
表向きは婚約戦略。
だが本当の狙いは、女性の地位向上。
男尊女卑が当然の世界で、女が学ぶことは前例なき挑戦。
保守派の反発、王太子からの婚約打診。
それでも彼女は揺れない。
「婚約は家同士の契約です。決定権は父にあります」
父を盾にしながら、順序を守り、世界を壊さず、底から上げる。
恋より制度。
革命ではなく積み重ね。
学院のない世界に、学院を。
これは、静かに世界を変えようとする公爵令嬢の物語。
下級兵士は断罪された追放令嬢を護送する。
やすぴこ
恋愛
「ジョセフィーヌ!! 貴様を断罪する!!」
王立学園で行われたプロムナード開催式の場で、公爵令嬢ジョセフィーヌは婚約者から婚約破棄と共に数々の罪を断罪される。
愛していた者からの慈悲無き宣告、親しかった者からの嫌悪、信じていた者からの侮蔑。
弁解の機会も与えられず、その場で悪名高い国外れの修道院送りが決定した。
このお話はそんな事情で王都を追放された悪役令嬢の素性を知らぬまま、修道院まで護送する下級兵士の恋物語である。
この度なろう、アルファ、カクヨムで同時完結しました。
(なろう版だけ諸事情で18話と19話が一本となっておりますが、内容は同じです)
【完結】無意識 悪役公爵令嬢は成長途中でございます!ー新たなる王室編ー
愚者 (フール)
恋愛
無意識 悪役公爵令嬢は成長途中でございます!
幼女編、こちらの続編となります。
家族の罪により王から臣下に下った代わりに、他国に暮らしていた母の違う兄がに入れ替わり玉座に座る。
新たな王族たちが、この国エテルネルにやって来た。
その後に、もと王族と荒れ地へ行った家族はどうなるのか?
離れて暮らすプリムローズとは、どんな関係になるのかー。
そんな彼女の成長過程を、ゆっくりお楽しみ下さい。
☆この小説だけでも、十分に理解できる様にしております。
全75話
全容を知りたい方は、先に書かれた小説をお読み下さると有り難いです。
前編は幼女編、全91話になります。
裏切られた令嬢は、30歳も年上の伯爵さまに嫁ぎましたが、白い結婚ですわ。
夏生 羽都
恋愛
王太子の婚約者で公爵令嬢でもあったローゼリアは敵対派閥の策略によって生家が没落してしまい、婚約も破棄されてしまう。家は子爵にまで落とされてしまうが、それは名ばかりの爵位で、実際には平民と変わらない生活を強いられていた。
辛い生活の中で母親のナタリーは体調を崩してしまい、ナタリーの実家がある隣国のエルランドへ行き、一家で亡命をしようと考えるのだが、安全に国を出るには貴族の身分を捨てなければいけない。しかし、ローゼリアを王太子の側妃にしたい国王が爵位を返す事を許さなかった。
側妃にはなりたくないが、自分がいては家族が国を出る事が出来ないと思ったローゼリアは、家族を出国させる為に30歳も年上である伯爵の元へ後妻として一人で嫁ぐ事を自分の意思で決めるのだった。
※作者独自の世界観によって創作された物語です。細かな設定やストーリー展開等が気になってしまうという方はブラウザバッグをお願い致します。
侍女は婚約が内定している俺様属性の男と縁を切りたい。
彩柚月
恋愛
リリアは侯爵令嬢。オスカーとは、婚約予定。あくまでも予定で、まだ結んでいません。オスカーは何故かリリアにだけ、威圧的な態度を取るらしい。嫌で仕方がないので、オスカーの兄とプレ婚約期のやり直し。
今が幸せなので、あなたのことは助けてあげられません。
※ご都合主義満載
※細かい部分はサラッと流してください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる