婚約破棄で自由になった悪役令嬢カタールは、趣味で無双?

ちゅんりー

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「……ワン、ツー、スリー! はい、そこ! 肘の角度が甘いですわよ! 関節を正しく動かすことは、将来的な医療コストの削減に繋がるのですから!」

朝日が岩肌をオレンジ色に染める早朝。ガラガラ地方の暫定キャンプ地では、異様な光景が広がっていた。

公爵令嬢であったはずのカタールが、泥のついたドレスの裾を大胆に捲り上げ、四十人のむさ苦しい男たちを前に「効率的朝の体操」を指導しているのだ。

「いいですか。朝の五分間の柔軟こそが、日中の労働災害を防ぎ、結果として工期を短縮させるのです! ほら、ガンツ親方もサボらないで!」

「へ、へい……っ。お嬢、いやCEO。この動き、意外とキツいんだが……」

「キツいのは普段使っていない筋肉が泣いている証拠ですわ。さあ、次は深呼吸! この地の澄んだ空気を肺いっぱいに取り込んで、脳に酸素を送りなさい!」

その様子を、一段高い岩の上から眺めていたゼストは、手にしたコーヒーカップ(木製)を口に運ぶのも忘れて呆然としていた。

隣には、同じく遠い目をしている護衛騎士のバルトが立っている。

「……バルト。一応確認したいんだが。あそこで『もっと腰を落として!』と叫んでいる女性は、確かに我が国でも指折りの名門、オシエル公爵家の令嬢だった人だよね?」

「間違いありません。私も十数年お仕えしていますが、あんなにキレのある動きをするお嬢様は初めて見ました。……おそらく、王宮でのストレスが全て『効率化への情熱』に変換されたのでしょう」

「情熱、ね……。僕の知っている公爵令嬢という生き物は、もっとこう、バラの香りに包まれて詩を読んだり、刺繍をしたり、婚約者の浮気にしおらしく涙したりするものだと思っていたんだが」

ゼストは、体操を終えて「さあ、業務開始ですわ!」と爽やかに解散を宣言したカタールを見つめた。

彼女の顔には泥が跳ね、手袋は作業で薄汚れている。しかし、その瞳は王都にいた頃のどの令嬢よりも——そしてどの商人よりも、眩しく輝いていた。

「ゼスト様! そこにいたのですか。ちょうど良かったですわ。隣国から届いた資材の検収作業、立ち会っていただけます?」

カタールが、弾むような足取りでゼストの下へ駆け寄ってきた。

「ああ、もちろんだ。……それにしてもカタール、君は少しは休むということを知らないのかい? 昨夜も深夜まで街の設計図を引いていただろう」

「休む? 何をおっしゃるんです。今は『創業期』ですよ? この時期の数時間の遅れが、将来的な複利計算でどれほどの損失を生むか、商会長であるあなたなら理解できるはずですわ」

彼女は当然のように言い放つと、ゼストの手を掴んで荷降ろし場へと引っ張っていった。

「見てください、この石灰石の質! これなら、私が考案した『速乾性簡易セメント』の試作に十分耐えられます。これで社宅の建設を一気に進めますわよ」

「……簡易セメント? そんなものまで自作するつもりかい?」

「配合比率さえ間違えなければ、既製品を買うよりコストを四割カットできますもの。ゼスト様、あなたにはその浮いた予算で、次は『最高級の寝具』を百セット発注していただきたいのです」

カタールは、汚れた手袋のまま、ゼストの目を真っ直ぐに見つめた。

「従業員には最高の休息を。それが結果として、最高の品質を生む。……私のこの投資、間違っているかしら?」

ゼストは、彼女の熱に浮かされるように、思わず息を呑んだ。

至近距離で見るカタールの瞳は、計算高い冷徹さと、理想を追い求める無垢な情熱が同居している。

商売道具としての価値ではない。一人の人間として、これほどまでに強くて美しい生き物を、ゼストは見たことがなかった。

(……ああ、ダメだ。これは投資家として失格かもしれない)

ゼストの胸の奥で、カチリ、と小さな音がした。

それは、彼がこれまで大切にしてきた「損得勘定」の天秤が、一方的にカタールの側へと大きく傾いた音だった。

「……カタール。君、本当に公爵令嬢だよね?」

「なんですの、藪から棒に。合意書にもしっかり書いてあったでしょう?」

「いや、あまりにも規格外すぎてね。……分かった、寝具の件は僕の個人資産を使ってでも、大陸最高の品を揃えよう。ただし、条件がある」

「条件? マージンの上乗せなら検討しますけれど」

「いいえ。……今夜、仕事が終わった後でいい。僕と一緒に、君が掘り当てたあの温泉に入ってくれないか? もちろん、男女別々の区画でいいからさ。少し、ゆっくり話がしたいんだ」

カタールは不思議そうに小首を傾げた。

「温泉? ああ、成分の臨床試験のフィードバックですね。構いませんわよ。経営者同士、裸の付き合いで信頼関係を築くのも、一つの合理的な選択ですわ」

「……君のその、色気のない合理的なところが最高に魅力的だよ」

ゼストは苦笑しながら、カタールの細い指先をそっと握った。

泥で汚れたその手は、どんな宝石で飾られた手よりも、ゼストにとっては尊いものに感じられた。

それを見守るバルトは、「……またお嬢様が、無自覚に大物を釣り上げた」と、深くため息をつくのだった。
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