悪役令嬢ダンキア、婚約破棄に「御意」と即答する。

ちゅんりー

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シャンデリアの煌めきが、磨き上げられた床に反射する。

王立学園の卒業記念パーティー。

国中の高位貴族が集うこの華やかな会場は、今、凍りついたような静寂に包まれていた。

その中心にいるのは、豪奢な金髪をなびかせた一人の青年。

この国の第一王子、クラーク・ド・アルカディアである。

彼は隣に小柄で可愛らしい少女を震えるように抱き寄せ、憎悪のこもった瞳で目の前の女性を睨みつけていた。

視線の先に立つのは、公爵令嬢ダンキア・フォン・バルト。

燃えるような赤髪を複雑に編み上げ、深紅のドレスを身に纏った彼女は、扇子を口元にあてて静かに佇んでいる。

その姿はまさに、悪の華。

誰もが固唾を呑んで見守る中、クラーク王子が高らかに叫んだ。

「ダンキア・フォン・バルト! 貴様との婚約を、この場を持って破棄する!」

会場がどよめく。

「おお、ついに……」

「やはりあの噂は本当だったのか」

「聖女のようなミーナ嬢をいじめ抜いたという……」

周囲のヒソヒソ話など、クラーク王子の耳には入らない。

彼は勝利を確信したような笑みを浮かべ、ダンキアの絶望する顔を待ち構えた。

泣き叫ぶか。

縋り付くか。

あるいは、見苦しい言い訳を並べ立てるか。

さあ、どうする悪女よ!

ダンキアは、扇子をパチリと閉じた。

そして、よく通る凛とした声で即答した。

「御意」

「……は?」

クラーク王子の口が半開きになる。

ダンキアは優雅にカーテシー(お辞儀)をした。

その動作には一分の隙もなく、あまりの美しさに周囲の貴族たちが思わず溜息を漏らすほどだ。

顔を上げたダンキアは、どこか清々しい表情をしていた。

「殿下のご命令とあらば、このダンキア、謹んでお受けいたします。婚約破棄、確かに承りました」

「お、おい……待て」

予想外の反応に、クラーク王子がたじろぐ。

「なんだその態度は! 悲しくないのか! 悔しくないのか!」

「いいえ? 王族の決定は絶対ですので」

「そうではなく! 貴様は自分が何をしたか分かっているのか! ここにいるミーナへの陰湿な嫌がらせの数々……!」

クラーク王子は隣の少女、ミーナの肩を抱き寄せた。

ミーナは「ひっ」と小さな悲鳴を上げ、涙目でダンキアを見つめる。

「階段から突き落とそうとしたり、教科書を破いたり、紅茶に毒を入れたり……数え上げればキリがない! この心優しいミーナがどれほど傷ついたか!」

ダンキアは首をかしげた。

「殿下。訂正させていただいてもよろしいでしょうか」

「言い訳など聞かん!」

「言い訳ではありません。事実確認です」

ダンキアはスタスタと、クラーク王子とミーナの目の前まで歩み寄る。

その迫力に、近衛騎士たちが思わず剣の柄に手をかけた。

しかし、彼女は武器など持っていない。

ただの扇子一本だ。

ダンキアは無表情でミーナを見下ろした。

「ミーナ様。私があなたを階段から突き落とした、と仰いましたね?」

「は、はい……! ダンキア様に背中をドンってされて……私、怖くて……」

「なるほど」

ダンキアは自身の右手をじっと見つめ、握ったり開いたりした。

そして、真面目な顔でクラーク王子に向き直る。

「殿下、それは物理的に不可能です」

「何だと!? 目撃者もいるんだぞ!」

「いいえ、不可能です。もし私が彼女を『突き落とす』つもりで背中に触れたなら、彼女は階段を転げ落ちるどころか、壁を突き破って隣の校舎まで飛んでいっているはずですから」

「……は?」

会場中が再び、ポカンとした空気に包まれる。

ダンキアは至って真剣だった。

彼女は幼い頃から、己の異常な身体能力に悩まされてきた。

ドアノブを回せばねじ切れ、ティーカップを持てば粉砕し、軽くハグをすれば相手の肋骨を折りかける。

今の彼女は、全身全霊で「手加減」をしている状態なのだ。

「教科書を破いた、というのも解せません。私が紙を破ろうとすれば、机ごと両断してしまいます。紅茶に毒? そんなまどろっこしいことは致しません。毒を入れる手間があるなら、ティーポットを素手で握りつぶして威圧した方が早いですもの」

「な、何を言っているんだ貴様は……頭がおかしくなったのか!?」

「いいえ、至って冷静です。つまり、ミーナ様が現在こうして五体満足で生きていらっしゃることが、私が何もしていない何よりの証拠。私の『加減』を甘く見ないでいただきたい」

ダンキアは胸を張った。

クラーク王子は顔を真っ赤にして怒鳴った。

「ふ、ふざけるな! そんなデタラメが通じると思っているのか! 貴様のような性悪女は、王太子の婚約者に相応しくない! 今すぐここから立ち去れ!」

「はい、喜んで」

ダンキアは間髪入れずに答えると、懐から分厚い封筒を取り出した。

「では、こちらにサインをお願いいたします」

「な、なんだこれは」

「婚約破棄に伴う、慰謝料ならびに損害賠償の請求書です」

「はあああああ!?」

クラーク王子が素っ頓狂な声を上げる。

ダンキアは淡々と説明を始めた。

「一方的な婚約破棄の場合、有責配偶者……今回は殿下になりますが、相応の慰謝料が発生いたします。また、我がバルト公爵家がこれまで王家のために投資した教育費、衣装代、社交費、および精神的苦痛に対する賠償金。これらを細かく算出したものがこちらです」

「き、貴様……準備していたのか!?」

「備えあれば憂いなし、と申しますので」

実はダンキア、この婚約が窮屈で仕方なかった。

「王太子の婚約者」という立場は、彼女にとって鎖そのもの。

護身術の稽古も禁止、魔物狩りも禁止、ダンジョン探索なんてもってのほか。

ただ微笑んで、刺繍をして、王子のご機嫌を取るだけの日々。

(筋肉が……私の筋肉が泣いていますわ!)

毎晩、隠れて腕立て伏せ一万回をこなすだけでは、溢れ出る活力を抑えきれなかったのだ。

それが今日、ようやく解放される。

ダンキアにとっては、婚約破棄こそが福音だった。

「さあ、殿下。ここにサインを。印鑑がなければ拇印でも構いません。指を貸していただければ、私が押しますので」

「ふ、ふざけるな! 誰がそんなもの……!」

クラーク王子が請求書を払いのけようと手を伸ばす。

その瞬間。

バシュッ。

鋭い音が響いた。

ダンキアが持っていた扇子が、王子の手を払った……のではない。

王子の手が触れる前に、ダンキアが扇子を開き、その風圧だけで王子の手を弾き返したのだ。

「うわっ!?」

バランスを崩した王子は、尻餅をついた。

「あら、失礼。虫が飛んでいたものですから」

ダンキアはニッコリと微笑むと、請求書を近くのテーブルに置いた。

「後日、正式に王宮へ送付させていただきます。必ずお支払いくださいませ。バルト家は借金には厳しいですので」

言うべきことは言った。

これ以上、この会場に留まる理由はない。

ダンキアは出口へと向かって歩き出した。

だが、数歩進んだところで立ち止まる。

「……あ」

彼女は自分の足元を見た。

今日のドレスは、王太子の婚約者として恥じないよう、最高級の生地を使い、流行のタイトなシルエットで作られている。

裾が長く、歩幅が制限されるデザインだ。

(歩きにくい……)

これまでは我慢していた。

淑女として、小股で歩くのがマナーだと教え込まれていたからだ。

しかし、もう婚約者ではない。

「こんな拘束具、もう必要ありませんわね」

ダンキアは両手でドレスのスカート部分を掴んだ。

「だ、ダンキア? 何を……」

倒れたままのクラーク王子が呆然と呟く。

次の瞬間。

ビリィィィィィィィッ!!

盛大な布の裂ける音が、静まり返ったホールに響き渡った。

ダンキアは躊躇なく、ドレスの裾を膝上まで引きちぎったのである。

露わになったのは、白くなめらかな、しかし驚くほど引き締まった健康的な太もも。

「ひっ……!」

誰かが悲鳴を上げた。

しかしダンキアは気にしない。

破り捨てた布切れを放り投げ、太ももに隠していた革ベルトの位置を直す。

そこには、護身用の小型ナイフ……ではなく、なぜか小さなダンベルがぶら下がっていた。

「ふう、動きやすくなりました」

彼女は足首をコキコキと回し、軽くジャンプをする。

ドスッ。

着地の瞬間、床の大理石に小さなヒビが入った気がしたが、誰も見なかったことにした。

「それでは皆様、ごきげんよう」

ダンキアは清々しい笑顔を振りまき、ドレスの裾を翻して走り出した。

そのスピードは、貴族の令嬢のものではない。

野生の獣、あるいは熟練の冒険者のそれだった。

「ま、待て! 捕まえろ! 衛兵! その無礼者を捕らえろ!」

ようやく我に返ったクラーク王子が叫ぶ。

会場の警備に当たっていた衛兵たちが、慌ててダンキアの前に立ちふさがった。

「ダンキア様! お止まりください!」

屈強な男たちが三人、槍を構えて壁を作る。

普通の令嬢なら、これで怯えて立ち止まるだろう。

だが、ダンキアは速度を緩めない。

むしろ加速した。

「どいてくださいませ! 今の私は制御が利きませんの!」

「えっ」

「衝・撃・破(タックル)!」

ドガァァァァァン!

轟音と共に、三人の衛兵が宙を舞った。

まるでボウリングのピンのように弾き飛ばされ、会場の壁に激突して崩れ落ちる。

砂煙が舞う中、突破口を開いたダンキアは、そのまま出口の扉(厚さ五センチのオーク材)を蹴り破って夜の闇へと消えていった。

残されたのは、粉砕された扉の破片と、呆然と立ち尽くす数百人の貴族たち。

そして、腰を抜かしたまま震えるクラーク王子とミーナだけであった。

***

会場を飛び出したダンキアは、王都の石畳を疾走していた。

夜風が頬を撫でる。

引きちぎったドレスの裾がはためく。

(ああ、なんて自由!)

これまでは呼吸をするのさえ窮屈だった。

笑い方も、歩き方も、話し方も、全て「王子の婚約者」という型にはめられていた。

けれど、今は違う。

彼女はただのダンキア・フォン・バルト。

力持ちで、少しおてんばな、一人の娘に戻ったのだ。

「ふふっ、あはははは!」

誰もいない路地裏で、彼女は高らかに笑った。

まずは屋敷に戻って、冒険者の服に着替えよう。

そしてギルドへ行くのだ。

ずっと憧れていた、魔物退治の依頼を受けるために。

「待っていなさい、まだ見ぬ強敵たちよ! 私の拳が火を噴きますわ!」

月明かりの下、令嬢らしからぬガッツポーズを決めるダンキア。

その拳が空を切った風圧で、近くの街灯の火がフッと消えたことには、彼女自身も気づいていなかった。

こうして、悪役令嬢ダンキアの、波乱と筋肉に満ちた第二の人生が幕を開けたのである。
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