1 / 28
1
しおりを挟む
シャンデリアの煌めきが、磨き上げられた床に反射する。
王立学園の卒業記念パーティー。
国中の高位貴族が集うこの華やかな会場は、今、凍りついたような静寂に包まれていた。
その中心にいるのは、豪奢な金髪をなびかせた一人の青年。
この国の第一王子、クラーク・ド・アルカディアである。
彼は隣に小柄で可愛らしい少女を震えるように抱き寄せ、憎悪のこもった瞳で目の前の女性を睨みつけていた。
視線の先に立つのは、公爵令嬢ダンキア・フォン・バルト。
燃えるような赤髪を複雑に編み上げ、深紅のドレスを身に纏った彼女は、扇子を口元にあてて静かに佇んでいる。
その姿はまさに、悪の華。
誰もが固唾を呑んで見守る中、クラーク王子が高らかに叫んだ。
「ダンキア・フォン・バルト! 貴様との婚約を、この場を持って破棄する!」
会場がどよめく。
「おお、ついに……」
「やはりあの噂は本当だったのか」
「聖女のようなミーナ嬢をいじめ抜いたという……」
周囲のヒソヒソ話など、クラーク王子の耳には入らない。
彼は勝利を確信したような笑みを浮かべ、ダンキアの絶望する顔を待ち構えた。
泣き叫ぶか。
縋り付くか。
あるいは、見苦しい言い訳を並べ立てるか。
さあ、どうする悪女よ!
ダンキアは、扇子をパチリと閉じた。
そして、よく通る凛とした声で即答した。
「御意」
「……は?」
クラーク王子の口が半開きになる。
ダンキアは優雅にカーテシー(お辞儀)をした。
その動作には一分の隙もなく、あまりの美しさに周囲の貴族たちが思わず溜息を漏らすほどだ。
顔を上げたダンキアは、どこか清々しい表情をしていた。
「殿下のご命令とあらば、このダンキア、謹んでお受けいたします。婚約破棄、確かに承りました」
「お、おい……待て」
予想外の反応に、クラーク王子がたじろぐ。
「なんだその態度は! 悲しくないのか! 悔しくないのか!」
「いいえ? 王族の決定は絶対ですので」
「そうではなく! 貴様は自分が何をしたか分かっているのか! ここにいるミーナへの陰湿な嫌がらせの数々……!」
クラーク王子は隣の少女、ミーナの肩を抱き寄せた。
ミーナは「ひっ」と小さな悲鳴を上げ、涙目でダンキアを見つめる。
「階段から突き落とそうとしたり、教科書を破いたり、紅茶に毒を入れたり……数え上げればキリがない! この心優しいミーナがどれほど傷ついたか!」
ダンキアは首をかしげた。
「殿下。訂正させていただいてもよろしいでしょうか」
「言い訳など聞かん!」
「言い訳ではありません。事実確認です」
ダンキアはスタスタと、クラーク王子とミーナの目の前まで歩み寄る。
その迫力に、近衛騎士たちが思わず剣の柄に手をかけた。
しかし、彼女は武器など持っていない。
ただの扇子一本だ。
ダンキアは無表情でミーナを見下ろした。
「ミーナ様。私があなたを階段から突き落とした、と仰いましたね?」
「は、はい……! ダンキア様に背中をドンってされて……私、怖くて……」
「なるほど」
ダンキアは自身の右手をじっと見つめ、握ったり開いたりした。
そして、真面目な顔でクラーク王子に向き直る。
「殿下、それは物理的に不可能です」
「何だと!? 目撃者もいるんだぞ!」
「いいえ、不可能です。もし私が彼女を『突き落とす』つもりで背中に触れたなら、彼女は階段を転げ落ちるどころか、壁を突き破って隣の校舎まで飛んでいっているはずですから」
「……は?」
会場中が再び、ポカンとした空気に包まれる。
ダンキアは至って真剣だった。
彼女は幼い頃から、己の異常な身体能力に悩まされてきた。
ドアノブを回せばねじ切れ、ティーカップを持てば粉砕し、軽くハグをすれば相手の肋骨を折りかける。
今の彼女は、全身全霊で「手加減」をしている状態なのだ。
「教科書を破いた、というのも解せません。私が紙を破ろうとすれば、机ごと両断してしまいます。紅茶に毒? そんなまどろっこしいことは致しません。毒を入れる手間があるなら、ティーポットを素手で握りつぶして威圧した方が早いですもの」
「な、何を言っているんだ貴様は……頭がおかしくなったのか!?」
「いいえ、至って冷静です。つまり、ミーナ様が現在こうして五体満足で生きていらっしゃることが、私が何もしていない何よりの証拠。私の『加減』を甘く見ないでいただきたい」
ダンキアは胸を張った。
クラーク王子は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「ふ、ふざけるな! そんなデタラメが通じると思っているのか! 貴様のような性悪女は、王太子の婚約者に相応しくない! 今すぐここから立ち去れ!」
「はい、喜んで」
ダンキアは間髪入れずに答えると、懐から分厚い封筒を取り出した。
「では、こちらにサインをお願いいたします」
「な、なんだこれは」
「婚約破棄に伴う、慰謝料ならびに損害賠償の請求書です」
「はあああああ!?」
クラーク王子が素っ頓狂な声を上げる。
ダンキアは淡々と説明を始めた。
「一方的な婚約破棄の場合、有責配偶者……今回は殿下になりますが、相応の慰謝料が発生いたします。また、我がバルト公爵家がこれまで王家のために投資した教育費、衣装代、社交費、および精神的苦痛に対する賠償金。これらを細かく算出したものがこちらです」
「き、貴様……準備していたのか!?」
「備えあれば憂いなし、と申しますので」
実はダンキア、この婚約が窮屈で仕方なかった。
「王太子の婚約者」という立場は、彼女にとって鎖そのもの。
護身術の稽古も禁止、魔物狩りも禁止、ダンジョン探索なんてもってのほか。
ただ微笑んで、刺繍をして、王子のご機嫌を取るだけの日々。
(筋肉が……私の筋肉が泣いていますわ!)
毎晩、隠れて腕立て伏せ一万回をこなすだけでは、溢れ出る活力を抑えきれなかったのだ。
それが今日、ようやく解放される。
ダンキアにとっては、婚約破棄こそが福音だった。
「さあ、殿下。ここにサインを。印鑑がなければ拇印でも構いません。指を貸していただければ、私が押しますので」
「ふ、ふざけるな! 誰がそんなもの……!」
クラーク王子が請求書を払いのけようと手を伸ばす。
その瞬間。
バシュッ。
鋭い音が響いた。
ダンキアが持っていた扇子が、王子の手を払った……のではない。
王子の手が触れる前に、ダンキアが扇子を開き、その風圧だけで王子の手を弾き返したのだ。
「うわっ!?」
バランスを崩した王子は、尻餅をついた。
「あら、失礼。虫が飛んでいたものですから」
ダンキアはニッコリと微笑むと、請求書を近くのテーブルに置いた。
「後日、正式に王宮へ送付させていただきます。必ずお支払いくださいませ。バルト家は借金には厳しいですので」
言うべきことは言った。
これ以上、この会場に留まる理由はない。
ダンキアは出口へと向かって歩き出した。
だが、数歩進んだところで立ち止まる。
「……あ」
彼女は自分の足元を見た。
今日のドレスは、王太子の婚約者として恥じないよう、最高級の生地を使い、流行のタイトなシルエットで作られている。
裾が長く、歩幅が制限されるデザインだ。
(歩きにくい……)
これまでは我慢していた。
淑女として、小股で歩くのがマナーだと教え込まれていたからだ。
しかし、もう婚約者ではない。
「こんな拘束具、もう必要ありませんわね」
ダンキアは両手でドレスのスカート部分を掴んだ。
「だ、ダンキア? 何を……」
倒れたままのクラーク王子が呆然と呟く。
次の瞬間。
ビリィィィィィィィッ!!
盛大な布の裂ける音が、静まり返ったホールに響き渡った。
ダンキアは躊躇なく、ドレスの裾を膝上まで引きちぎったのである。
露わになったのは、白くなめらかな、しかし驚くほど引き締まった健康的な太もも。
「ひっ……!」
誰かが悲鳴を上げた。
しかしダンキアは気にしない。
破り捨てた布切れを放り投げ、太ももに隠していた革ベルトの位置を直す。
そこには、護身用の小型ナイフ……ではなく、なぜか小さなダンベルがぶら下がっていた。
「ふう、動きやすくなりました」
彼女は足首をコキコキと回し、軽くジャンプをする。
ドスッ。
着地の瞬間、床の大理石に小さなヒビが入った気がしたが、誰も見なかったことにした。
「それでは皆様、ごきげんよう」
ダンキアは清々しい笑顔を振りまき、ドレスの裾を翻して走り出した。
そのスピードは、貴族の令嬢のものではない。
野生の獣、あるいは熟練の冒険者のそれだった。
「ま、待て! 捕まえろ! 衛兵! その無礼者を捕らえろ!」
ようやく我に返ったクラーク王子が叫ぶ。
会場の警備に当たっていた衛兵たちが、慌ててダンキアの前に立ちふさがった。
「ダンキア様! お止まりください!」
屈強な男たちが三人、槍を構えて壁を作る。
普通の令嬢なら、これで怯えて立ち止まるだろう。
だが、ダンキアは速度を緩めない。
むしろ加速した。
「どいてくださいませ! 今の私は制御が利きませんの!」
「えっ」
「衝・撃・破(タックル)!」
ドガァァァァァン!
轟音と共に、三人の衛兵が宙を舞った。
まるでボウリングのピンのように弾き飛ばされ、会場の壁に激突して崩れ落ちる。
砂煙が舞う中、突破口を開いたダンキアは、そのまま出口の扉(厚さ五センチのオーク材)を蹴り破って夜の闇へと消えていった。
残されたのは、粉砕された扉の破片と、呆然と立ち尽くす数百人の貴族たち。
そして、腰を抜かしたまま震えるクラーク王子とミーナだけであった。
***
会場を飛び出したダンキアは、王都の石畳を疾走していた。
夜風が頬を撫でる。
引きちぎったドレスの裾がはためく。
(ああ、なんて自由!)
これまでは呼吸をするのさえ窮屈だった。
笑い方も、歩き方も、話し方も、全て「王子の婚約者」という型にはめられていた。
けれど、今は違う。
彼女はただのダンキア・フォン・バルト。
力持ちで、少しおてんばな、一人の娘に戻ったのだ。
「ふふっ、あはははは!」
誰もいない路地裏で、彼女は高らかに笑った。
まずは屋敷に戻って、冒険者の服に着替えよう。
そしてギルドへ行くのだ。
ずっと憧れていた、魔物退治の依頼を受けるために。
「待っていなさい、まだ見ぬ強敵たちよ! 私の拳が火を噴きますわ!」
月明かりの下、令嬢らしからぬガッツポーズを決めるダンキア。
その拳が空を切った風圧で、近くの街灯の火がフッと消えたことには、彼女自身も気づいていなかった。
こうして、悪役令嬢ダンキアの、波乱と筋肉に満ちた第二の人生が幕を開けたのである。
王立学園の卒業記念パーティー。
国中の高位貴族が集うこの華やかな会場は、今、凍りついたような静寂に包まれていた。
その中心にいるのは、豪奢な金髪をなびかせた一人の青年。
この国の第一王子、クラーク・ド・アルカディアである。
彼は隣に小柄で可愛らしい少女を震えるように抱き寄せ、憎悪のこもった瞳で目の前の女性を睨みつけていた。
視線の先に立つのは、公爵令嬢ダンキア・フォン・バルト。
燃えるような赤髪を複雑に編み上げ、深紅のドレスを身に纏った彼女は、扇子を口元にあてて静かに佇んでいる。
その姿はまさに、悪の華。
誰もが固唾を呑んで見守る中、クラーク王子が高らかに叫んだ。
「ダンキア・フォン・バルト! 貴様との婚約を、この場を持って破棄する!」
会場がどよめく。
「おお、ついに……」
「やはりあの噂は本当だったのか」
「聖女のようなミーナ嬢をいじめ抜いたという……」
周囲のヒソヒソ話など、クラーク王子の耳には入らない。
彼は勝利を確信したような笑みを浮かべ、ダンキアの絶望する顔を待ち構えた。
泣き叫ぶか。
縋り付くか。
あるいは、見苦しい言い訳を並べ立てるか。
さあ、どうする悪女よ!
ダンキアは、扇子をパチリと閉じた。
そして、よく通る凛とした声で即答した。
「御意」
「……は?」
クラーク王子の口が半開きになる。
ダンキアは優雅にカーテシー(お辞儀)をした。
その動作には一分の隙もなく、あまりの美しさに周囲の貴族たちが思わず溜息を漏らすほどだ。
顔を上げたダンキアは、どこか清々しい表情をしていた。
「殿下のご命令とあらば、このダンキア、謹んでお受けいたします。婚約破棄、確かに承りました」
「お、おい……待て」
予想外の反応に、クラーク王子がたじろぐ。
「なんだその態度は! 悲しくないのか! 悔しくないのか!」
「いいえ? 王族の決定は絶対ですので」
「そうではなく! 貴様は自分が何をしたか分かっているのか! ここにいるミーナへの陰湿な嫌がらせの数々……!」
クラーク王子は隣の少女、ミーナの肩を抱き寄せた。
ミーナは「ひっ」と小さな悲鳴を上げ、涙目でダンキアを見つめる。
「階段から突き落とそうとしたり、教科書を破いたり、紅茶に毒を入れたり……数え上げればキリがない! この心優しいミーナがどれほど傷ついたか!」
ダンキアは首をかしげた。
「殿下。訂正させていただいてもよろしいでしょうか」
「言い訳など聞かん!」
「言い訳ではありません。事実確認です」
ダンキアはスタスタと、クラーク王子とミーナの目の前まで歩み寄る。
その迫力に、近衛騎士たちが思わず剣の柄に手をかけた。
しかし、彼女は武器など持っていない。
ただの扇子一本だ。
ダンキアは無表情でミーナを見下ろした。
「ミーナ様。私があなたを階段から突き落とした、と仰いましたね?」
「は、はい……! ダンキア様に背中をドンってされて……私、怖くて……」
「なるほど」
ダンキアは自身の右手をじっと見つめ、握ったり開いたりした。
そして、真面目な顔でクラーク王子に向き直る。
「殿下、それは物理的に不可能です」
「何だと!? 目撃者もいるんだぞ!」
「いいえ、不可能です。もし私が彼女を『突き落とす』つもりで背中に触れたなら、彼女は階段を転げ落ちるどころか、壁を突き破って隣の校舎まで飛んでいっているはずですから」
「……は?」
会場中が再び、ポカンとした空気に包まれる。
ダンキアは至って真剣だった。
彼女は幼い頃から、己の異常な身体能力に悩まされてきた。
ドアノブを回せばねじ切れ、ティーカップを持てば粉砕し、軽くハグをすれば相手の肋骨を折りかける。
今の彼女は、全身全霊で「手加減」をしている状態なのだ。
「教科書を破いた、というのも解せません。私が紙を破ろうとすれば、机ごと両断してしまいます。紅茶に毒? そんなまどろっこしいことは致しません。毒を入れる手間があるなら、ティーポットを素手で握りつぶして威圧した方が早いですもの」
「な、何を言っているんだ貴様は……頭がおかしくなったのか!?」
「いいえ、至って冷静です。つまり、ミーナ様が現在こうして五体満足で生きていらっしゃることが、私が何もしていない何よりの証拠。私の『加減』を甘く見ないでいただきたい」
ダンキアは胸を張った。
クラーク王子は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「ふ、ふざけるな! そんなデタラメが通じると思っているのか! 貴様のような性悪女は、王太子の婚約者に相応しくない! 今すぐここから立ち去れ!」
「はい、喜んで」
ダンキアは間髪入れずに答えると、懐から分厚い封筒を取り出した。
「では、こちらにサインをお願いいたします」
「な、なんだこれは」
「婚約破棄に伴う、慰謝料ならびに損害賠償の請求書です」
「はあああああ!?」
クラーク王子が素っ頓狂な声を上げる。
ダンキアは淡々と説明を始めた。
「一方的な婚約破棄の場合、有責配偶者……今回は殿下になりますが、相応の慰謝料が発生いたします。また、我がバルト公爵家がこれまで王家のために投資した教育費、衣装代、社交費、および精神的苦痛に対する賠償金。これらを細かく算出したものがこちらです」
「き、貴様……準備していたのか!?」
「備えあれば憂いなし、と申しますので」
実はダンキア、この婚約が窮屈で仕方なかった。
「王太子の婚約者」という立場は、彼女にとって鎖そのもの。
護身術の稽古も禁止、魔物狩りも禁止、ダンジョン探索なんてもってのほか。
ただ微笑んで、刺繍をして、王子のご機嫌を取るだけの日々。
(筋肉が……私の筋肉が泣いていますわ!)
毎晩、隠れて腕立て伏せ一万回をこなすだけでは、溢れ出る活力を抑えきれなかったのだ。
それが今日、ようやく解放される。
ダンキアにとっては、婚約破棄こそが福音だった。
「さあ、殿下。ここにサインを。印鑑がなければ拇印でも構いません。指を貸していただければ、私が押しますので」
「ふ、ふざけるな! 誰がそんなもの……!」
クラーク王子が請求書を払いのけようと手を伸ばす。
その瞬間。
バシュッ。
鋭い音が響いた。
ダンキアが持っていた扇子が、王子の手を払った……のではない。
王子の手が触れる前に、ダンキアが扇子を開き、その風圧だけで王子の手を弾き返したのだ。
「うわっ!?」
バランスを崩した王子は、尻餅をついた。
「あら、失礼。虫が飛んでいたものですから」
ダンキアはニッコリと微笑むと、請求書を近くのテーブルに置いた。
「後日、正式に王宮へ送付させていただきます。必ずお支払いくださいませ。バルト家は借金には厳しいですので」
言うべきことは言った。
これ以上、この会場に留まる理由はない。
ダンキアは出口へと向かって歩き出した。
だが、数歩進んだところで立ち止まる。
「……あ」
彼女は自分の足元を見た。
今日のドレスは、王太子の婚約者として恥じないよう、最高級の生地を使い、流行のタイトなシルエットで作られている。
裾が長く、歩幅が制限されるデザインだ。
(歩きにくい……)
これまでは我慢していた。
淑女として、小股で歩くのがマナーだと教え込まれていたからだ。
しかし、もう婚約者ではない。
「こんな拘束具、もう必要ありませんわね」
ダンキアは両手でドレスのスカート部分を掴んだ。
「だ、ダンキア? 何を……」
倒れたままのクラーク王子が呆然と呟く。
次の瞬間。
ビリィィィィィィィッ!!
盛大な布の裂ける音が、静まり返ったホールに響き渡った。
ダンキアは躊躇なく、ドレスの裾を膝上まで引きちぎったのである。
露わになったのは、白くなめらかな、しかし驚くほど引き締まった健康的な太もも。
「ひっ……!」
誰かが悲鳴を上げた。
しかしダンキアは気にしない。
破り捨てた布切れを放り投げ、太ももに隠していた革ベルトの位置を直す。
そこには、護身用の小型ナイフ……ではなく、なぜか小さなダンベルがぶら下がっていた。
「ふう、動きやすくなりました」
彼女は足首をコキコキと回し、軽くジャンプをする。
ドスッ。
着地の瞬間、床の大理石に小さなヒビが入った気がしたが、誰も見なかったことにした。
「それでは皆様、ごきげんよう」
ダンキアは清々しい笑顔を振りまき、ドレスの裾を翻して走り出した。
そのスピードは、貴族の令嬢のものではない。
野生の獣、あるいは熟練の冒険者のそれだった。
「ま、待て! 捕まえろ! 衛兵! その無礼者を捕らえろ!」
ようやく我に返ったクラーク王子が叫ぶ。
会場の警備に当たっていた衛兵たちが、慌ててダンキアの前に立ちふさがった。
「ダンキア様! お止まりください!」
屈強な男たちが三人、槍を構えて壁を作る。
普通の令嬢なら、これで怯えて立ち止まるだろう。
だが、ダンキアは速度を緩めない。
むしろ加速した。
「どいてくださいませ! 今の私は制御が利きませんの!」
「えっ」
「衝・撃・破(タックル)!」
ドガァァァァァン!
轟音と共に、三人の衛兵が宙を舞った。
まるでボウリングのピンのように弾き飛ばされ、会場の壁に激突して崩れ落ちる。
砂煙が舞う中、突破口を開いたダンキアは、そのまま出口の扉(厚さ五センチのオーク材)を蹴り破って夜の闇へと消えていった。
残されたのは、粉砕された扉の破片と、呆然と立ち尽くす数百人の貴族たち。
そして、腰を抜かしたまま震えるクラーク王子とミーナだけであった。
***
会場を飛び出したダンキアは、王都の石畳を疾走していた。
夜風が頬を撫でる。
引きちぎったドレスの裾がはためく。
(ああ、なんて自由!)
これまでは呼吸をするのさえ窮屈だった。
笑い方も、歩き方も、話し方も、全て「王子の婚約者」という型にはめられていた。
けれど、今は違う。
彼女はただのダンキア・フォン・バルト。
力持ちで、少しおてんばな、一人の娘に戻ったのだ。
「ふふっ、あはははは!」
誰もいない路地裏で、彼女は高らかに笑った。
まずは屋敷に戻って、冒険者の服に着替えよう。
そしてギルドへ行くのだ。
ずっと憧れていた、魔物退治の依頼を受けるために。
「待っていなさい、まだ見ぬ強敵たちよ! 私の拳が火を噴きますわ!」
月明かりの下、令嬢らしからぬガッツポーズを決めるダンキア。
その拳が空を切った風圧で、近くの街灯の火がフッと消えたことには、彼女自身も気づいていなかった。
こうして、悪役令嬢ダンキアの、波乱と筋肉に満ちた第二の人生が幕を開けたのである。
2
あなたにおすすめの小説
巻き戻される運命 ~私は王太子妃になり誰かに突き落とされ死んだ、そうしたら何故か三歳の子どもに戻っていた~
アキナヌカ
恋愛
私(わたくし)レティ・アマンド・アルメニアはこの国の第一王子と結婚した、でも彼は私のことを愛さずに仕事だけを押しつけた。そうして私は形だけの王太子妃になり、やがて側室の誰かにバルコニーから突き落とされて死んだ。でも、気がついたら私は三歳の子どもに戻っていた。
「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして
東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。
破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。
【完結】仕事を放棄した結果、私は幸せになれました。
キーノ
恋愛
わたくしは乙女ゲームの悪役令嬢みたいですわ。悪役令嬢に転生したと言った方がラノベあるある的に良いでしょうか。
ですが、ゲーム内でヒロイン達が語られる用な悪事を働いたことなどありません。王子に嫉妬? そのような無駄な事に時間をかまけている時間はわたくしにはありませんでしたのに。
だってわたくし、週4回は王太子妃教育に王妃教育、週3回で王妃様とのお茶会。お茶会や教育が終わったら王太子妃の公務、王子殿下がサボっているお陰で回ってくる公務に、王子の管轄する領の嘆願書の整頓やら収益やら税の計算やらで、わたくし、ちっとも自由時間がありませんでしたのよ。
こんなに忙しい私が、最後は冤罪にて処刑ですって? 学園にすら通えて無いのに、すべてのルートで私は処刑されてしまうと解った今、わたくしは全ての仕事を放棄して、冤罪で処刑されるその時まで、推しと穏やかに過ごしますわ。
※さくっと読める悪役令嬢モノです。
2月14~15日に全話、投稿完了。
感想、誤字、脱字など受け付けます。
沢山のエールにお気に入り登録、ありがとうございます。現在執筆中の新作の励みになります。初期作品のほうも見てもらえて感無量です!
恋愛23位にまで上げて頂き、感謝いたします。
王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~
由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。
両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。
そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。
王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。
――彼が愛する女性を連れてくるまでは。
【完結】愛したあなたは本当に愛する人と幸せになって下さい
高瀬船
恋愛
伯爵家のティアーリア・クランディアは公爵家嫡男、クライヴ・ディー・アウサンドラと婚約秒読みの段階であった。
だが、ティアーリアはある日クライヴと彼の従者二人が話している所に出くわし、聞いてしまう。
クライヴが本当に婚約したかったのはティアーリアの妹のラティリナであったと。
ショックを受けるティアーリアだったが、愛する彼の為自分は身を引く事を決意した。
【誤字脱字のご報告ありがとうございます!小っ恥ずかしい誤字のご報告ありがとうございます!個別にご返信出来ておらず申し訳ございません( •́ •̀ )】
大好きなあなたが「嫌い」と言うから「私もです」と微笑みました。
桗梛葉 (たなは)
恋愛
私はずっと、貴方のことが好きなのです。
でも貴方は私を嫌っています。
だから、私は命を懸けて今日も嘘を吐くのです。
貴方が心置きなく私を嫌っていられるように。
貴方を「嫌い」なのだと告げるのです。
口は禍の元・・・後悔する王様は王妃様を口説く
ひとみん
恋愛
王命で王太子アルヴィンとの結婚が決まってしまった美しいフィオナ。
逃走すら許さない周囲の鉄壁の護りに諦めた彼女は、偶然王太子の会話を聞いてしまう。
「跡継ぎができれば離縁してもかまわないだろう」「互いの不貞でも理由にすればいい」
誰がこんな奴とやってけるかっ!と怒り炸裂のフィオナ。子供が出来たら即離婚を胸に王太子に言い放った。
「必要最低限の夫婦生活で済ませたいと思います」
だが一目見てフィオナに惚れてしまったアルヴィン。
妻が初恋で絶対に別れたくない夫と、こんなクズ夫とすぐに別れたい妻とのすれ違いラブストーリー。
ご都合主義満載です!
旦那様には愛人がいますが気にしません。
りつ
恋愛
イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。
※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる