婚約破棄、喜びのあまり側転してもよろしいでしょうか?

ちゅんりー

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「……おい、キース。この書類の山は、一体何の嫌がらせだ?」


王宮の執務室。
第一王子セドリックは、机の上にうず高く積まれた書類の塔を見上げ、引きつった声を絞り出した。


かつてそこには、常に整理整頓された数枚の紙と、淹れたての香ばしい紅茶、そして……。
不敵な笑みを浮かべながら「早くサインをなさって? この無能王子」と毒を吐くベルベットの姿があったはずだ。


「嫌がらせではありません。それが本来、殿下が処理すべき一日分の業務量です」


側近のキースが、感情を一切排した声で答える。
彼は街から戻ったばかりで、その足取りはどこか軽やかだったが、手にした報告書の束は容赦なくセドリックの机に叩きつけられた。


「馬鹿な! これまではもっと少なかったはずだ! ベルベットがいなくなってから、明らかに三倍には増えているぞ!」


「いいえ、殿下。三倍に増えたのではなく、三分の一しか見ていなかっただけです。残りの三分の二は、すべてベルベット嬢が裏で処理していましたから」


キースが淡々と告げた事実に、セドリックは手に持っていた羽根ペンを落とした。


「……ベルベットが? あのお局……ではなく、悪役令嬢が、書類仕事を?」


「左様です。彼女は殿下が『カトレア嬢、今日も君は花のように美しいね』などと中庭で愛を語っている間に、領地からの陳情書を精査し、予算案の矛盾を叩き潰し、汚職まがいの請求書をシュレッダーにかけておられました」


キースの言葉に、セドリックの顔がみるみる青ざめていく。


「な、なぜ彼女がそんなことを……。あいつはただ、私を困らせるために王宮に居座っていたのではないのか?」


「殿下を困らせるためなら、むしろ仕事を溜め込んで破綻させる方が効率的でしょう。彼女は『完璧な悪役には、完璧な舞台裏が必要なのよ』と仰っていました。……おそらく、王家という舞台を維持するために、泥臭い仕事を一手に引き受けていたのでしょう」


セドリックは震える手で、一番上にあった書類を手に取った。
それは、複雑な水利権に関する難解な合意書だった。
かつては、ベルベットが重要な箇所に「ここにサインしろ、馬鹿」という付箋を貼ってくれていたため、彼は内容をろくに読まずに決済できていたのだ。


今、その付箋はない。
あるのは、理解不能な数字の羅列と、解決を急かす地方官の恨み言だけだ。


「……キース。ベルベットは、今どこで何をしているのだ」


「先ほどローズウッド公爵邸を伺いましたが、非常に元気そうでしたよ。街で激辛の串焼きを頬張りながら、私に『ごわす』と叫んでおられました」


「……ごわす?」


セドリックが困惑の表情を浮かべる。
あの誇り高く、優雅な(そして恐ろしい)ベルベットが、そんな珍妙な言葉を発するはずがない。


「彼女は今、男爵令嬢のカトレア嬢を『次期悪役令嬢』として育成するプロジェクトに心血を注いでいるようです。私が訪ねた時も、庭園にカトレア嬢の凄まじい高笑いが響き渡っていました」


「カ、カトレアを育成!? あんなに可憐で、守ってあげたくなるような彼女を、ベルベットと同じような魔王にするつもりか!」


「ええ。カトレア嬢本人も、非常に乗り気のご様子でした。……殿下、今のうちに言っておきますが、カトレア嬢への復縁やお茶会の誘いは、すべてベルベット嬢という高い壁に阻まれることになるでしょう」


セドリックはガクッ、と椅子に沈み込んだ。


ベルベットがいれば、仕事は回る。
ベルベットがいれば、カトレアは可愛いヒロインのままだった。
ベルベットがいれば……自分は「正義の王子」として振る舞うだけで、すべてが上手くいっていたのだ。


「……私は、とんでもない損失を出してしまったのではないか?」


「ようやく気づかれましたか。遅すぎますよ」


キースは冷ややかに言い放つと、懐から一通の封筒を取り出した。


「これはベルベット嬢からの伝言です。『仕事が溜まって泣きそうでしょうけれど、お花に水をやる暇があるなら数字を読みなさい。この、脳みそがお花畑な王子様』とのことです」


「……ベルベットォ!!」


セドリックの絶叫が執務室に響くが、彼を助ける毒舌の主はもうここにはいない。


一方で、キースは窓の外を見つめながら、街で見たベルベットの笑顔を思い出していた。
あんなに楽しそうに笑う彼女を、自分は三年間、一度も見たことがなかった。


(殿下、貴方は彼女の『悪』という仮面に甘えすぎていた。……そして私も、その仮面の裏にある輝きに、もっと早く気づくべきだった)


キースは密かに、心の中で決意した。
この積み上がった書類の山を、セドリックに無理やり片付けさせた後……。
自分もまた、何らかの理由を付けて、あの賑やかな公爵邸へ通い詰めることを。


「さあ殿下。後悔している暇はありません。この予算案、今日中に終わらなければ、明日の朝食は抜きですよ」


「キ、キース! 貴様までベルベットのようなことを言うな!」


王宮に、初めての「ベルベット・ロス」という名の暗雲が立ち込め始めた瞬間だった。
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