婚約破棄、喜びのあまり側転してもよろしいでしょうか?

ちゅんりー

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「……ちょっと、キース様。いつまでついてくるおつもり? ここは私の馬車の前ですわよ」


プルメリア伯爵邸の門門。
夕闇が迫る中、私は馬車に乗り込もうとして足を止めた。
背後には、護衛の任務を終えたはずのキース様が、当然のような顔をして立っている。


「貴女がこのまま高揚して、帰り道に道行く人々へ高笑いを浴びせないか心配でしてね。公爵邸の門を潜るまで見届けるのが、今の私の任務です」


「失礼な! 私はオンとオフの切り替えがはっきりしたプロの悪役令嬢ですわ。プライベートで無駄に喉を酷使したりしませんわよ」


私はふいっと顔を背け、馬車のステップに足をかけた。
すると、キース様がそっと私の手を取り、エスコートの姿勢を取る。
手袋越しに伝わる体温が、なぜか先ほど飲んだ激辛レモネードよりも熱く感じられた。


「……先ほどの話の続きですが、ベルベット嬢。貴女はどうして、そこまでして『悪役』であることに拘るのです?」


馬車の中に入り、向かい合わせに座った瞬間、キース様が真面目なトーンで切り出してきた。
窓の外を流れる夜の景色が、二人の空間をより密閉されたものにする。


「拘る、というほどのことではありませんわ。ただ、これが私の性に合っているだけ。……清純で、淑やかで、誰かに守られるだけの人生なんて、退屈すぎて欠伸が出てしまいますもの」


私は扇子を膝の上で弄びながら、視線を落とした。


「悪役令嬢になれば、好きなだけ派手な服を着て、好きなだけ自分勝手に振る舞えます。周囲の期待に合わせる必要もなく、自分の美学だけで生きていける。……これ以上の贅沢がありますかしら?」


「……それが、貴女の言う『自由』ですか」


「ええ、そうですわ。たとえ世界中を敵に回しても、鏡の中の自分にだけは嘘をつきたくない。私は私の人生の主役で、同時に最高の悪役でありたいのですわ」


私は顔を上げ、キース様を真っ直ぐに見据えた。
この男には、誤魔化しが通じない。なら、いっそ本当のことを言ってしまえばいい。
……もっとも、本当のことと言っても、それは私の歪んだ美学の話だけれど。


「……でも、貴女のしていることは、結局のところ誰かのためになっている。殿下の尻拭いも、カトレア嬢の更生(?)も。それは、悪役の領分を超えているのでは?」


「あら、勘違いしないで。私が殿下の仕事をしていたのは、彼があまりに無能すぎて、私の『断罪劇』という舞台が台無しになるのが嫌だったからですわ」


私は身を乗り出し、キース様に顔を近づけた。


「いいですか? 主役が馬鹿すぎて物語が破綻したら、悪役の散り際が美しくなくなるでしょう? 私はただ、最高の結末のために舞台装置を整えていただけですの。慈悲なんて、一滴もございませんわよ!」


「……ふっ、あはははは!」


キース様が、突然声を上げて笑い出した。
いつも無表情な彼が、お腹を抱えて笑っている。


「な、なんですの! 私は真面目な話をしておりますのよ!」


「すみません……。貴女があまりに『悪役であるための正当性』を熱く語るものだから。……貴女は、本当に、悪役という役柄を愛しているのですね」


「……ええ、愛していますわよ。何が悪いというのです」


「いえ。素晴らしいと思います。……では、一つ教えてください。貴女が三年間、王宮で私に冷たく当たっていたのも、その『舞台』の一部だったのですか?」


キース様の目が、少しだけ悪戯っぽく細められた。


「……それは……」


言葉に詰まった。
確かに、彼に対しても「悪役令嬢らしく」接してきたつもりだ。
有能で鼻につく側近……という設定で、彼には常に辛辣な言葉を投げていた。


「『キース様、その鉄面皮を剥いで、銀の盆にして差し上げましょうか?』……あれは、なかなかの名台詞でしたね」


「……覚えていらしたのね」


「ええ。言われた時は驚きましたが、今なら分かります。貴女は私に構って欲しかったのでしょう?」


「はあああああ!? 違いますわ! あれは純粋な嫌がらせ……!」


「いいえ。貴女は、私が自分の正体を見抜くかどうかを試していた。あるいは、自分の孤独な舞台に、誰か一人でも『観客』ではなく『共演者』として上がってきて欲しかった……。そうではありませんか?」


キース様の手が、私の膝の上に置かれた扇子を、そっと握りしめた。


「……素直に白状します。私は、貴女のその『悪の舞台』に、すっかり魅了されてしまったようです」


心臓が、耳元で鳴っているのではないかと思うほど激しく鼓動を打つ。
これは、マズいわ。
今までのどんな罵倒よりも、どんな冤罪よりも、今のこの状況の方が私を追い詰めている。


「……貴方、本当に……素直すぎるのよ」


私は扇子を奪い返し、自分の顔を半分隠した。
隠しきれない熱が、頬を赤く染めているのが自分でも分かった。


「告白、ということでしたら、私も一つ白状しましょうか。……キース様、貴方は私の舞台を台無しにする、最悪のイレギュラーですわ」


「光栄です」


「……でも、嫌いではありませんわよ。貴方のその、空気を読まない誠実さだけは」


私は消え入りそうな声で、そう付け加えた。
馬車が、ローズウッド公爵邸の前に止まる。


「お嬢様、到着いたしました……。おや、車内の空気が、なんだか甘酸っぱいような、毒々しいような、不思議な香りがいたしますが」


扉を開けたセバスチャンが、目を丸くして私たちを見比べた。


「セバスチャン! 無駄口を叩かないで! ほら、キース様、さっさと降りてくださいまし!」


私はキース様を押し出すようにして馬車を降りた。
キース様は、去り際にもう一度だけ私を振り返り、優雅に一礼した。


「ベルベット嬢。……明日の朝、カトレア嬢の特訓の成果を確認しに、また伺いますね」


「……勝手になさい!」


私は屋敷の中へと逃げ込んだ。
自室に戻り、ベッドに倒れ込んだ瞬間、私は枕に顔を埋めて足をバタつかせた。


「……なによ、なによあの男! あんなの、台本にありませんわよ!」


悪役令嬢の私が、ヒーロー(候補)に翻弄されるなんて。
こんなの、私の完璧な人生設計には一文字も書かれていなかった。


けれど、胸の奥で燻っているこの感情は、嫌いな味ではなかった。
私は一人、夜の静寂の中で、今日何度目か分からない高笑いを上げようとして……。
けれど代わりに、小さく、満足げな溜息を漏らしたのだった。
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