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「……いたぞ。間違いない、あそこにいるのがベルベットだ」
ローズウッド公爵邸の広大な庭園を一望できる、裏山の茂み。
第一王子セドリックは、泥にまみれたマントを羽織り、顔を隠すための深いフードを被って息を潜めていた。
その鼻の下には、急造の「付け髭」が不自然に張り付いている。
「殿下。その髭、右側が垂れ下がっていますよ。それから、公爵家の庭を覗き見するのは立派な不法侵入です。騎士団に通報しましょうか?」
すぐ後ろに控えるキースが、至極真っ当なトーンで告げる。
彼もまた、王子のワガママに付き合わされてこんな場所まで連れてこられた被害者の一人だ。
「黙れ、キース! これは視察だ。婚約破棄され、絶望の淵に立たされた元婚約者が、自暴自棄になっていないかを確認する……王族としての義務なのだ!」
「どの口が仰るのですか。昨夜、書類の山を前に『ベルベットの馬鹿野郎、早く帰ってきて私の代わりに計算しろ』と泣き言を言っていたのは誰ですか」
「うぐっ……。と、とにかく! あいつのことだ、きっと今頃、独り寂しく部屋の隅で私の写真を破り捨てているに違いない」
セドリックは震える手で望遠鏡を構えた。
レンズの先に映し出されたのは、優雅にアフタヌーンティーを楽しむ令嬢の姿……。
ではなかった。
「もっとですわ、カトレア様! 笑い声に『影』が足りませんわよ! ただの楽しいピクニックではありませんの! 相手を精神的に圧殺する重厚な笑いを目指しなさい!」
「はい、師匠! オホォ……オホホホ、オホホホホォォォ!」
「声が裏返っておりますわ! あと、高笑いしながらティーカップを掲げる角度は四十五度です! それ以上だと、下品に見えますわよ!」
庭園の中央。
ベルベットは真っ赤な日傘を振り回しながら、カトレアに熱血指導を行っていた。
その顔には絶望など微塵もなく、むしろ「趣味に没頭する専門家」のような活き活きとした輝きがある。
「……キース。あいつ、何をしているんだ?」
「見ての通り、後継者の育成ですよ。非常に教育熱心ですね」
「おかしいだろう! あそこは、あいつが私との思い出に浸りながら涙を流す場所のはずだ! なぜ爆笑しながらスクワットをさせているんだ!」
そう、カトレアは今、高笑いを続けながらドレス姿で屈伸運動を繰り返していた。
悪役令嬢としての持久力を鍛えるためだというが、客観的に見れば奇行以外の何物でもない。
「ベルベット! そのくらいにして差し上げなさい!」
そこへ、ベルベットの兄たちがやってきた。
セドリックは「おっ、ようやく制止が入るか」と期待したが、兄たちの手には重そうな木箱が握られていた。
「カトレア嬢。高笑いの次は、この重しを持って扇子を開閉する特訓だ。手首のスナップを鍛えることで、扇子の音に威圧感が宿るぞ」
「ありがとうございます、お兄様! 私、頑張りますわ!」
「……あの家族、全員頭が狂っているのか?」
セドリックの額に、だらりと冷や汗が流れた。
自分が三年間見てきたベルベットは、もっと冷酷で、静かに皮肉を言う女だったはずだ。
こんな、生命力の塊のような存在ではなかった。
「殿下、そろそろ戻りましょう。これ以上見ていると、貴方のメンタルが保ちませんよ」
「いや、まだだ! あいつはきっと、強がっているだけだ。ふとした瞬間に、私の名を呼んで泣き崩れるはず……」
その時。
ベルベットがふと足を止め、セドリックたちが隠れている裏山の方へ視線を向けた。
彼女は鼻をくんくんと動かし、不敵な笑みを浮かべる。
「あら? なんだか、向こうの方から『無能の悪臭』が漂ってきますわね」
「ひっ……!」
セドリックは思わず茂みの奥へ引っ込んだ。
「カトレア様。あそこに向かって、本日一番の、相手を無に帰すような嘲笑をぶちかまして差し上げなさい。ターゲットは……そうね、『自分のことをまだ愛されていると勘違いしている哀れな野良犬』だと思って」
「承知いたしましたわ、師匠! ……オ、オホ、オホホホホホホホ!!」
カトレアの全力の高笑いが、山々にこだまする。
その音波は物理的な圧力を持って、セドリックの胸を貫いた。
「……キース。私は、あいつに野良犬だと思われているのか?」
「いえ、殿下。野良犬ではなく『無能の悪臭を放つ、哀れな野良犬』ですね。正確に理解しましょう」
「帰る……。もう帰るぞ、キース……!」
セドリックはボロボロになった付け髭を引き剥がし、逃げるように山を降りていった。
その後ろ姿を見送りながら、キースは一度だけ、庭園にいるベルベットと視線を合わせた。
ベルベットはキースに気づくと、扇子で口元を隠し、パチンとウィンクをして見せた。
彼女には最初から、すべてお見通しだったのだ。
「……全く、恐ろしい女性だ」
キースは小さく呟き、けれどその声には、隠しきれない賞賛が混じっていた。
「さあ、カトレア様! 次は『相手の謝罪を笑って聞き流す、慈悲ゼロの表情』の練習ですわよ!」
「はいっ、師匠!」
公爵邸の庭園には、今日も健全で毒々しい笑い声が、いつまでも響き渡っていたのである。
ローズウッド公爵邸の広大な庭園を一望できる、裏山の茂み。
第一王子セドリックは、泥にまみれたマントを羽織り、顔を隠すための深いフードを被って息を潜めていた。
その鼻の下には、急造の「付け髭」が不自然に張り付いている。
「殿下。その髭、右側が垂れ下がっていますよ。それから、公爵家の庭を覗き見するのは立派な不法侵入です。騎士団に通報しましょうか?」
すぐ後ろに控えるキースが、至極真っ当なトーンで告げる。
彼もまた、王子のワガママに付き合わされてこんな場所まで連れてこられた被害者の一人だ。
「黙れ、キース! これは視察だ。婚約破棄され、絶望の淵に立たされた元婚約者が、自暴自棄になっていないかを確認する……王族としての義務なのだ!」
「どの口が仰るのですか。昨夜、書類の山を前に『ベルベットの馬鹿野郎、早く帰ってきて私の代わりに計算しろ』と泣き言を言っていたのは誰ですか」
「うぐっ……。と、とにかく! あいつのことだ、きっと今頃、独り寂しく部屋の隅で私の写真を破り捨てているに違いない」
セドリックは震える手で望遠鏡を構えた。
レンズの先に映し出されたのは、優雅にアフタヌーンティーを楽しむ令嬢の姿……。
ではなかった。
「もっとですわ、カトレア様! 笑い声に『影』が足りませんわよ! ただの楽しいピクニックではありませんの! 相手を精神的に圧殺する重厚な笑いを目指しなさい!」
「はい、師匠! オホォ……オホホホ、オホホホホォォォ!」
「声が裏返っておりますわ! あと、高笑いしながらティーカップを掲げる角度は四十五度です! それ以上だと、下品に見えますわよ!」
庭園の中央。
ベルベットは真っ赤な日傘を振り回しながら、カトレアに熱血指導を行っていた。
その顔には絶望など微塵もなく、むしろ「趣味に没頭する専門家」のような活き活きとした輝きがある。
「……キース。あいつ、何をしているんだ?」
「見ての通り、後継者の育成ですよ。非常に教育熱心ですね」
「おかしいだろう! あそこは、あいつが私との思い出に浸りながら涙を流す場所のはずだ! なぜ爆笑しながらスクワットをさせているんだ!」
そう、カトレアは今、高笑いを続けながらドレス姿で屈伸運動を繰り返していた。
悪役令嬢としての持久力を鍛えるためだというが、客観的に見れば奇行以外の何物でもない。
「ベルベット! そのくらいにして差し上げなさい!」
そこへ、ベルベットの兄たちがやってきた。
セドリックは「おっ、ようやく制止が入るか」と期待したが、兄たちの手には重そうな木箱が握られていた。
「カトレア嬢。高笑いの次は、この重しを持って扇子を開閉する特訓だ。手首のスナップを鍛えることで、扇子の音に威圧感が宿るぞ」
「ありがとうございます、お兄様! 私、頑張りますわ!」
「……あの家族、全員頭が狂っているのか?」
セドリックの額に、だらりと冷や汗が流れた。
自分が三年間見てきたベルベットは、もっと冷酷で、静かに皮肉を言う女だったはずだ。
こんな、生命力の塊のような存在ではなかった。
「殿下、そろそろ戻りましょう。これ以上見ていると、貴方のメンタルが保ちませんよ」
「いや、まだだ! あいつはきっと、強がっているだけだ。ふとした瞬間に、私の名を呼んで泣き崩れるはず……」
その時。
ベルベットがふと足を止め、セドリックたちが隠れている裏山の方へ視線を向けた。
彼女は鼻をくんくんと動かし、不敵な笑みを浮かべる。
「あら? なんだか、向こうの方から『無能の悪臭』が漂ってきますわね」
「ひっ……!」
セドリックは思わず茂みの奥へ引っ込んだ。
「カトレア様。あそこに向かって、本日一番の、相手を無に帰すような嘲笑をぶちかまして差し上げなさい。ターゲットは……そうね、『自分のことをまだ愛されていると勘違いしている哀れな野良犬』だと思って」
「承知いたしましたわ、師匠! ……オ、オホ、オホホホホホホホ!!」
カトレアの全力の高笑いが、山々にこだまする。
その音波は物理的な圧力を持って、セドリックの胸を貫いた。
「……キース。私は、あいつに野良犬だと思われているのか?」
「いえ、殿下。野良犬ではなく『無能の悪臭を放つ、哀れな野良犬』ですね。正確に理解しましょう」
「帰る……。もう帰るぞ、キース……!」
セドリックはボロボロになった付け髭を引き剥がし、逃げるように山を降りていった。
その後ろ姿を見送りながら、キースは一度だけ、庭園にいるベルベットと視線を合わせた。
ベルベットはキースに気づくと、扇子で口元を隠し、パチンとウィンクをして見せた。
彼女には最初から、すべてお見通しだったのだ。
「……全く、恐ろしい女性だ」
キースは小さく呟き、けれどその声には、隠しきれない賞賛が混じっていた。
「さあ、カトレア様! 次は『相手の謝罪を笑って聞き流す、慈悲ゼロの表情』の練習ですわよ!」
「はいっ、師匠!」
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