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満月の夜だった。
凍りついた湖の表面は、月明かりを反射して、まるで巨大な銀の鏡のように輝いている。
「見てくださいヴォルグ様! この氷の下、時折キラキラ光る影が見えますわ。これ、噂の『氷の妖精魚(わかさぎ)』じゃありませんこと!?」
私は厚手の毛皮に身を包み、氷に開けた小さな穴を覗き込んでいた。
「……ミュー。こんな夜更けに、わざわざ氷上へ魚の生存確認をしに来る女がどこにいる」
ヴォルグ様は呆れたように言いながらも、私の隣でどっかと腰を下ろした。
その手には、私が「夜食の材料を獲るまで帰りませんわ!」と宣言したせいで持たされることになった、小さな釣り竿が握られている。
「あら、ヴォルグ様。深夜の獲れたてこそ、一番の御馳走ですわよ。それに、この静寂……。王都の喧騒とは無縁の、最高のスパイスだと思いません?」
私は冷たい空気をたっぷりと吸い込んだ。
鼻の奥がツンとするような寒さ。けれど、隣にいるヴォルグ様の大きな体からは、確かな熱が伝わってくる。
「……。確かに、静かだな」
ヴォルグ様がポツリと呟いた。
いつもは領主として、あるいは「死神」として気を張っている彼だが、今夜の瞳は驚くほど穏やかだ。
「ヴォルグ様?」
「ミュー。貴様は……この地を、嫌いではないのか」
不意に、真剣なトーンで問われ、私は首を傾げた。
「嫌い? まさか! こんなに新鮮な食材に溢れ、温泉まであって、口うるさい王子もいない。私にとっては、ここは最高に美味しいパラダイスですわよ」
「……そうか。ならば……」
ヴォルグ様が釣り竿を置き、ゆっくりと私の方を向き直した。
月光に照らされた彼の顔は、いつもの威圧感が嘘のように消え、どこか儚げな美しささえ湛えている。
(……あら? なんだか、急に空気が甘くなったような気がするわ。……もしかして、氷の下に砂糖の精霊でも住んでいるのかしら?)
「ミュー。俺は、貴様のような女に出会ったのは初めてだ」
「ふふ、よく言われますわ。規格外とか、胃袋の化身とか」
「茶化すな。……貴様が来てから、俺の……この領地の景色が変わった。凍りついたまま動かなかった時間が、ようやく溶け始めたような気がするんだ」
ヴォルグ様が、私の手の上に、彼自身の大きな手を重ねた。
その手のひらは、外気とは裏腹に、驚くほど熱い。
「俺は口下手だ。気の利いた言葉も、王都の連中のような甘い囁きもできん。だが……」
ヴォルグ様の瞳が、私の目を真っ直ぐに射抜いた。
「……これからも、ずっと、俺の側にいてほしい」
(――っ!?)
心臓が、跳ねるような音を立てた。
(……きたわ。これって、もしかして……!)
私は期待に目を輝かせ、ヴォルグ様の手を握り返した。
「ヴォルグ様、それはつまり……!」
「ああ。貴様のいない生活は、もう考えられん」
ヴォルグ様が、わずかに頬を染め、決意を秘めた表情で頷く。
「分かっていますわ! つまり、私を『終身雇用の最高料理責任者兼、屋敷のトータルアドバイザー』として正式に採用したい、ということですね!?」
「…………は?」
ヴォルグ様が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まった。
「いいですよ! むしろこちらからお願いしたいくらいですわ! 給与は現物支給……つまり、領内の珍味を優先的に食べる権利。それから、新しい調理器具の予算も承認してくださいね。あと、退職金代わりに温泉の永住権をいただければ、私は一生あなたの胃袋の奴隷になりますわ!」
「……。いや、ミュー。俺が言いたいのは、そういう『契約』の話では……」
「あら、照れなくていいんですわよヴォルグ様! 『側にいてほしい』なんて、最高のヘッドハンティングの殺し文句ですもの。私、感動しましたわ!」
私は感極まった様子で、ヴォルグ様の太い腕をバンバンと叩いた。
ヴォルグ様は天を仰ぎ、深いため息をつくと、顔を覆って再び氷の上に座り込んだ。
「……俺が馬鹿だった。貴様の脳内構造を、一瞬でも一般人と同等だと思った俺が……」
「何言ってるんですか、早く釣りをしましょう! ほら、今、竿が引きましたわよ!」
「……。ああ、そうだな。……釣るか。魚を」
ヴォルグ様は、何とも言えない複雑な表情で再び釣り竿を握った。
月夜の湖畔には、私の楽しげな笑い声と、ヴォルグ様の哀愁漂う溜息が、静かに溶けていった。
二人の間の「決定的」な温度差には、まだ当分、誰も気づきそうになかった。
凍りついた湖の表面は、月明かりを反射して、まるで巨大な銀の鏡のように輝いている。
「見てくださいヴォルグ様! この氷の下、時折キラキラ光る影が見えますわ。これ、噂の『氷の妖精魚(わかさぎ)』じゃありませんこと!?」
私は厚手の毛皮に身を包み、氷に開けた小さな穴を覗き込んでいた。
「……ミュー。こんな夜更けに、わざわざ氷上へ魚の生存確認をしに来る女がどこにいる」
ヴォルグ様は呆れたように言いながらも、私の隣でどっかと腰を下ろした。
その手には、私が「夜食の材料を獲るまで帰りませんわ!」と宣言したせいで持たされることになった、小さな釣り竿が握られている。
「あら、ヴォルグ様。深夜の獲れたてこそ、一番の御馳走ですわよ。それに、この静寂……。王都の喧騒とは無縁の、最高のスパイスだと思いません?」
私は冷たい空気をたっぷりと吸い込んだ。
鼻の奥がツンとするような寒さ。けれど、隣にいるヴォルグ様の大きな体からは、確かな熱が伝わってくる。
「……。確かに、静かだな」
ヴォルグ様がポツリと呟いた。
いつもは領主として、あるいは「死神」として気を張っている彼だが、今夜の瞳は驚くほど穏やかだ。
「ヴォルグ様?」
「ミュー。貴様は……この地を、嫌いではないのか」
不意に、真剣なトーンで問われ、私は首を傾げた。
「嫌い? まさか! こんなに新鮮な食材に溢れ、温泉まであって、口うるさい王子もいない。私にとっては、ここは最高に美味しいパラダイスですわよ」
「……そうか。ならば……」
ヴォルグ様が釣り竿を置き、ゆっくりと私の方を向き直した。
月光に照らされた彼の顔は、いつもの威圧感が嘘のように消え、どこか儚げな美しささえ湛えている。
(……あら? なんだか、急に空気が甘くなったような気がするわ。……もしかして、氷の下に砂糖の精霊でも住んでいるのかしら?)
「ミュー。俺は、貴様のような女に出会ったのは初めてだ」
「ふふ、よく言われますわ。規格外とか、胃袋の化身とか」
「茶化すな。……貴様が来てから、俺の……この領地の景色が変わった。凍りついたまま動かなかった時間が、ようやく溶け始めたような気がするんだ」
ヴォルグ様が、私の手の上に、彼自身の大きな手を重ねた。
その手のひらは、外気とは裏腹に、驚くほど熱い。
「俺は口下手だ。気の利いた言葉も、王都の連中のような甘い囁きもできん。だが……」
ヴォルグ様の瞳が、私の目を真っ直ぐに射抜いた。
「……これからも、ずっと、俺の側にいてほしい」
(――っ!?)
心臓が、跳ねるような音を立てた。
(……きたわ。これって、もしかして……!)
私は期待に目を輝かせ、ヴォルグ様の手を握り返した。
「ヴォルグ様、それはつまり……!」
「ああ。貴様のいない生活は、もう考えられん」
ヴォルグ様が、わずかに頬を染め、決意を秘めた表情で頷く。
「分かっていますわ! つまり、私を『終身雇用の最高料理責任者兼、屋敷のトータルアドバイザー』として正式に採用したい、ということですね!?」
「…………は?」
ヴォルグ様が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まった。
「いいですよ! むしろこちらからお願いしたいくらいですわ! 給与は現物支給……つまり、領内の珍味を優先的に食べる権利。それから、新しい調理器具の予算も承認してくださいね。あと、退職金代わりに温泉の永住権をいただければ、私は一生あなたの胃袋の奴隷になりますわ!」
「……。いや、ミュー。俺が言いたいのは、そういう『契約』の話では……」
「あら、照れなくていいんですわよヴォルグ様! 『側にいてほしい』なんて、最高のヘッドハンティングの殺し文句ですもの。私、感動しましたわ!」
私は感極まった様子で、ヴォルグ様の太い腕をバンバンと叩いた。
ヴォルグ様は天を仰ぎ、深いため息をつくと、顔を覆って再び氷の上に座り込んだ。
「……俺が馬鹿だった。貴様の脳内構造を、一瞬でも一般人と同等だと思った俺が……」
「何言ってるんですか、早く釣りをしましょう! ほら、今、竿が引きましたわよ!」
「……。ああ、そうだな。……釣るか。魚を」
ヴォルグ様は、何とも言えない複雑な表情で再び釣り竿を握った。
月夜の湖畔には、私の楽しげな笑い声と、ヴォルグ様の哀愁漂う溜息が、静かに溶けていった。
二人の間の「決定的」な温度差には、まだ当分、誰も気づきそうになかった。
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