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王城、王太子執務室。
重厚な扉が開かれると、ドール・ヴァレンタインは静かに入室した。
その手には、革製の大きな鞄が握られている。
部屋の中央には、ふんぞり返ったカイル王太子。
その脇には、なぜか当然のようにミナも控えていた。
「遅いぞ、ドール」
カイルが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「呼び出しから一時間も待たせるとは。……まあいい。どうせ泣き腫らした顔を化粧で隠すのに手間取っていたのだろう?」
カイルは勝手に納得し、ニヤニヤとドールの顔を覗き込んだ。
ドールは、いつもの能面フェイスで直立不動の姿勢をとる。
「お待たせいたしました、殿下。……準備に少々、手間取りまして」
「ふん。まあ、その鞄を見れば分かる」
カイルの視線が、ドールの手にある鞄に注がれた。
パンパンに膨れ上がり、留め具が悲鳴をあげているそれを見て、カイルはあざ笑う。
「なんだそれは? 僕への謝罪文か? それとも、僕との思い出の品を返そうとでもいうのか?」
「……似たようなものでございます」
「はっ! いじらしいことだ。その重さこそが、貴様の未練の重さというわけだな」
(ちゃうわ。金貨の重さや)
ドールは心の中で即答した。
(この鞄の中身は、昨晩徹夜で仕上げた『請求書一式(証拠書類付き)』。紙の重さは物理的な重さやけど、その価値はあんたの愛(笑)よりよっぽど重いで!)
ドールは内心で鼻息を荒くしたが、顔はスンッとしたままだ。
ミナがカイルの袖を引く。
「カイル様ぁ、ドール様、きっと反省文を書いてきたんですよぉ。読んであげましょうよぉ」
「そうだな。せっかくの労作だ。ここで読み上げて、貴様の愚かさを再確認してやろう」
カイルは尊大な態度で、デスクの上を指差した。
「さあ、そこに置け。そして、涙ながらに読み上げるがいい!」
「……よろしいので?」
「構わん。僕の慈悲深さをミナに見せる良い機会だ」
ドールは一瞬、間を置いた。
(ええんか? ほんまにええんか? ここであんたの恥部を晒すことになるけど、知らんで?)
しかし、相手が望むなら断る理由はない。
ドールは無言で鞄を開けた。
中から取り出したのは、厚さ一〇センチはあろうかという羊皮紙の束。
それを両手で抱え、恭しくデスクの上に置く。
ズシンッ……。
部屋の中に、鈍く重い音が響いた。
書類というより、鈍器を置いたような音だった。
「……随分と大作だな」
カイルが少しだけ顔を引きつらせる。
「ど、どれだけ僕への愛を綴れば気が済むんだ。……まあいい、冒頭を読んでみろ」
「かしこまりました」
ドールは一番上の一枚を手に取り、抑揚のない声で読み上げ始めた。
「請求書。……請求先、カイル・ロイヤル王太子殿下。請求元、ドール・ヴァレンタイン」
「……は?」
「件名、婚約破棄に伴う慰謝料、および過去三年間の立替経費、ならびに業務委託費の精算について」
「…………は?」
カイルとミナの声がハモった。
ドールは気にせず続ける。
「一、婚約期間中に購入した衣装代、金貨三二〇〇枚。……内訳、夜会用ドレス一二着、宝石類一式。これらは王家指定のデザインであり、今後私用での転用が不可能であるため、全額を請求いたします」
「ちょ、ちょっと待て! なんだそれは!?」
カイルが慌てて立ち上がる。
ドールは冷ややかな瞳で彼を見据えた。
「何と申されましても、経費の請求ですが」
「け、経費だと!? あれは僕のために着飾ったのだろう!?」
「左様でございます。殿下の『隣に立つ者として恥ずかしくない格好をしろ』とのご命令に従い、最高級の素材と職人を用意いたしました。……ですが、婚約破棄となった今、あのドレスはただの布屑です」
ドールは淡々と言い放つ。
「ドール家の家紋ではなく王家の紋章が入ったドレスなど、雑巾にもなりません。殿下の見栄のためにドブに捨てた金ですので、お返しいただきたく」
「ぞ、雑巾……!?」
「次です」
ドールは次のページをめくった。
「二、遊興費および交際費の立替分、金貨八五〇枚。……内訳、お茶会での菓子代(有名店『ラ・レーヌ』の特注ケーキ等)、観劇のチケット代、ミナ様へのプレゼント代」
「なっ!?」
今度はミナが叫んだ。
「わ、私のプレゼント!?」
「はい。先日、殿下がミナ様に贈られた『虹色真珠のネックレス』。……あれ、手持ちがないからと私のツケで購入されましたよね?」
ドールは懐から領収書を取り出し、ピラリと見せた。
「領収書の宛名は『ドール・ヴァレンタイン』になっております。殿下が『後で払う』と仰ってから三ヶ月が経過しましたが、未だ入金が確認されておりません」
「うぐっ……!」
カイルが言葉に詰まる。
確かに、かっこつけてプレゼントしたものの、予算オーバーでドールに立て替えさせた記憶があった。
(まさか、こんな時に蒸し返されるとは……!)
「あ、あれは、愛する者同士の助け合いだろう!」
「婚約破棄されましたので、他人です」
バッサリ。
ドールの切り捨て御免スキルが炸裂する。
「他人である以上、金の貸し借りは明確にせねばなりません。……利子をつけていないだけ、感謝していただきたいものです」
「き、貴様……っ! 金か! 結局は金なのか!?」
「金です」
即答。
「愛がないなら、残るのは金と契約だけですので」
あまりの清々しさに、カイルは開いた口が塞がらない。
だが、ドールの攻撃はここで終わらない。
ここからが本番である。
ドールは最も分厚い束を手に取った。
「そして三、これが最大項目になります。……労働対価請求、金貨一万五〇〇〇枚」
「い、いちまん……!?」
桁外れの金額に、カイルが目を剥く。
「ふざけるな! なんだその暴利は!」
「暴利ではございません。適正価格です」
ドールは書類をパラパラとめくった。
そこには、日時と業務内容がびっしりと記されている。
「X年X月X日、王太子執務室にて書類整理、四時間。同日、財務報告書の誤字訂正および再計算、三時間。……Y年Y月Y日、地方視察の随行およびスピーチ原稿の執筆、一二時間……」
ドールは顔を上げた。
「これらは本来、殿下もしくは側近が行うべき公務です。それを『勉強になるだろう』と私に丸投げ……いえ、委任された業務の対価を、専門職の時給換算で算出いたしました」
「そ、それは……花嫁修業の一環として……」
「修業であれば、指導者がつくはずです。ですが、実際には私が一人で処理し、殿下はお茶を飲んでおられましたね? これは労働です」
(タダ働きは終わったんや! これからはブラック企業相手でもきっちり残業代請求するで!)
ドールの瞳の奥に、労働組合長のような炎が宿る。
「さらに、精神的苦痛への慰謝料、および私の『貴重な青春時代を無駄にした時間』への損害賠償を含め……合計、金貨二万枚。一括払いでお願いいたします」
金貨二万枚。
それは、小国の国家予算並みの金額だった。
カイルは顔面蒼白になり、デスクに手をついた。
「は、払えるわけがないだろう! そんな大金!」
「おや、おかしいですね。殿下は次期国王。その程度の蓄えもおありでないと?」
「王族の予算だって無限じゃないんだ! ふざけるな、こんな紙切れ!」
カイルは請求書を掴み、破り捨てようとした。
しかし。
「原本は公証人役場に保管してあります」
ドールの冷たい声が、その手を止めた。
「これは写しです。もし支払いが滞るようであれば、この請求書を持って国王陛下に直訴……あるいは、国内の新聞社に『王太子の金銭感覚』としてリークすることも検討しておりますが」
「きょ、脅迫か!?」
「督促です」
ドールは一歩も引かない。
カイルは震える手で書類を握りしめたまま、わなわなと震えている。
言い返したい。
罵倒してやりたい。
だが、ドールの提示した書類はあまりにも論理的で、事実に基づいており、反論の余地がなかった。
(な、なんだこの女は……。今まで僕の後ろで、ただニコニコしているだけの置物だと思っていたのに……)
カイルは初めて、ドールという人間に恐怖を覚えた。
無表情の奥にある、底知れない合理的思考。
まるで精密機械に追い詰められているような圧迫感。
「……検討、する」
カイルは絞り出すように言った。
「すぐには払えない。……内容を精査してからだ」
「承知いたしました」
ドールはあっさりと引き下がった。
最初から今日払ってもらえるとは思っていない。
相手に『逃げられない』という事実を突きつけるのが目的だったのだから。
「では、支払期限は一週間後とさせていただきます。……それまでは、金利はサービスしておきますので」
ドールは優雅に一礼した。
「失礼いたします」
踵を返し、颯爽と部屋を出て行こうとする。
「あ、あのっ!」
ミナが震える声で呼び止めた。
ドールが足を止める。
「……私のネックレス、返さなきゃダメですか……?」
ドールは振り返らず、背中越しに答えた。
「ご安心を。その代金は殿下に請求しております。……殿下が支払えれば、あなたのものです」
「ひっ……」
「まあ、殿下が『君のために』借金まみれになる覚悟があればの話ですが」
捨て台詞を残し、ドールは退室した。
扉が閉まる音と共に、部屋には重苦しい沈黙が落ちる。
(っしゃあああ! 言うたった! 言うたったで!!)
廊下に出た瞬間、ドールは心の中でガッツポーズをした。
(見たかあの顔! 青ざめてパクパクして、金魚みたいやったわ!)
長年の鬱憤を晴らし、足取りも軽く廊下を歩く。
勝利の余韻に浸りながら角を曲がった、その時だった。
「……ぷっ」
不意に、笑い声が聞こえた。
ドールが顔を上げると、そこには壁に寄りかかり、肩を震わせている男がいた。
黒髪に、青い瞳。
先日会ったばかりの、『氷の公爵』アーク・レイブンだった。
「く、くくっ……。すごいな、君は」
アークは堪えきれない様子で、ドールを見た。
「『愛がないなら金と契約』か……。ははっ、名言だね」
「……聞いておられたのですか?」
「ああ。執務室の声はよく通るからね。……いや、感動したよ。あそこまで清々しい取り立ては初めて見た」
アークは涙を拭う仕草をしながら、ドールに近づいてきた。
その顔は、普段の冷徹な表情とは違い、少年のように楽しげだ。
「ドール嬢。君、やっぱり最高だよ」
(……げっ。またこの人や)
ドールは内心で警戒警報を鳴らしたが、逃げる間もなく、アークに捕まってしまった。
「君、仕事を探していると言っていたね?」
「……言っておりませんが」
「金貨二万枚は魅力的だが、継続的な収入も必要だろう?」
アークはニヤリと笑った。
悪魔の契約書を取り出すように、懐から一枚の紙を取り出す。
「どうかな。私の元で働かないか? ……その計算能力、我が宰相府で存分に活かしてほしいんだが」
これが、ドールにとっての新たな(そしてカイル以上に厄介な)日々の始まりだった。
重厚な扉が開かれると、ドール・ヴァレンタインは静かに入室した。
その手には、革製の大きな鞄が握られている。
部屋の中央には、ふんぞり返ったカイル王太子。
その脇には、なぜか当然のようにミナも控えていた。
「遅いぞ、ドール」
カイルが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「呼び出しから一時間も待たせるとは。……まあいい。どうせ泣き腫らした顔を化粧で隠すのに手間取っていたのだろう?」
カイルは勝手に納得し、ニヤニヤとドールの顔を覗き込んだ。
ドールは、いつもの能面フェイスで直立不動の姿勢をとる。
「お待たせいたしました、殿下。……準備に少々、手間取りまして」
「ふん。まあ、その鞄を見れば分かる」
カイルの視線が、ドールの手にある鞄に注がれた。
パンパンに膨れ上がり、留め具が悲鳴をあげているそれを見て、カイルはあざ笑う。
「なんだそれは? 僕への謝罪文か? それとも、僕との思い出の品を返そうとでもいうのか?」
「……似たようなものでございます」
「はっ! いじらしいことだ。その重さこそが、貴様の未練の重さというわけだな」
(ちゃうわ。金貨の重さや)
ドールは心の中で即答した。
(この鞄の中身は、昨晩徹夜で仕上げた『請求書一式(証拠書類付き)』。紙の重さは物理的な重さやけど、その価値はあんたの愛(笑)よりよっぽど重いで!)
ドールは内心で鼻息を荒くしたが、顔はスンッとしたままだ。
ミナがカイルの袖を引く。
「カイル様ぁ、ドール様、きっと反省文を書いてきたんですよぉ。読んであげましょうよぉ」
「そうだな。せっかくの労作だ。ここで読み上げて、貴様の愚かさを再確認してやろう」
カイルは尊大な態度で、デスクの上を指差した。
「さあ、そこに置け。そして、涙ながらに読み上げるがいい!」
「……よろしいので?」
「構わん。僕の慈悲深さをミナに見せる良い機会だ」
ドールは一瞬、間を置いた。
(ええんか? ほんまにええんか? ここであんたの恥部を晒すことになるけど、知らんで?)
しかし、相手が望むなら断る理由はない。
ドールは無言で鞄を開けた。
中から取り出したのは、厚さ一〇センチはあろうかという羊皮紙の束。
それを両手で抱え、恭しくデスクの上に置く。
ズシンッ……。
部屋の中に、鈍く重い音が響いた。
書類というより、鈍器を置いたような音だった。
「……随分と大作だな」
カイルが少しだけ顔を引きつらせる。
「ど、どれだけ僕への愛を綴れば気が済むんだ。……まあいい、冒頭を読んでみろ」
「かしこまりました」
ドールは一番上の一枚を手に取り、抑揚のない声で読み上げ始めた。
「請求書。……請求先、カイル・ロイヤル王太子殿下。請求元、ドール・ヴァレンタイン」
「……は?」
「件名、婚約破棄に伴う慰謝料、および過去三年間の立替経費、ならびに業務委託費の精算について」
「…………は?」
カイルとミナの声がハモった。
ドールは気にせず続ける。
「一、婚約期間中に購入した衣装代、金貨三二〇〇枚。……内訳、夜会用ドレス一二着、宝石類一式。これらは王家指定のデザインであり、今後私用での転用が不可能であるため、全額を請求いたします」
「ちょ、ちょっと待て! なんだそれは!?」
カイルが慌てて立ち上がる。
ドールは冷ややかな瞳で彼を見据えた。
「何と申されましても、経費の請求ですが」
「け、経費だと!? あれは僕のために着飾ったのだろう!?」
「左様でございます。殿下の『隣に立つ者として恥ずかしくない格好をしろ』とのご命令に従い、最高級の素材と職人を用意いたしました。……ですが、婚約破棄となった今、あのドレスはただの布屑です」
ドールは淡々と言い放つ。
「ドール家の家紋ではなく王家の紋章が入ったドレスなど、雑巾にもなりません。殿下の見栄のためにドブに捨てた金ですので、お返しいただきたく」
「ぞ、雑巾……!?」
「次です」
ドールは次のページをめくった。
「二、遊興費および交際費の立替分、金貨八五〇枚。……内訳、お茶会での菓子代(有名店『ラ・レーヌ』の特注ケーキ等)、観劇のチケット代、ミナ様へのプレゼント代」
「なっ!?」
今度はミナが叫んだ。
「わ、私のプレゼント!?」
「はい。先日、殿下がミナ様に贈られた『虹色真珠のネックレス』。……あれ、手持ちがないからと私のツケで購入されましたよね?」
ドールは懐から領収書を取り出し、ピラリと見せた。
「領収書の宛名は『ドール・ヴァレンタイン』になっております。殿下が『後で払う』と仰ってから三ヶ月が経過しましたが、未だ入金が確認されておりません」
「うぐっ……!」
カイルが言葉に詰まる。
確かに、かっこつけてプレゼントしたものの、予算オーバーでドールに立て替えさせた記憶があった。
(まさか、こんな時に蒸し返されるとは……!)
「あ、あれは、愛する者同士の助け合いだろう!」
「婚約破棄されましたので、他人です」
バッサリ。
ドールの切り捨て御免スキルが炸裂する。
「他人である以上、金の貸し借りは明確にせねばなりません。……利子をつけていないだけ、感謝していただきたいものです」
「き、貴様……っ! 金か! 結局は金なのか!?」
「金です」
即答。
「愛がないなら、残るのは金と契約だけですので」
あまりの清々しさに、カイルは開いた口が塞がらない。
だが、ドールの攻撃はここで終わらない。
ここからが本番である。
ドールは最も分厚い束を手に取った。
「そして三、これが最大項目になります。……労働対価請求、金貨一万五〇〇〇枚」
「い、いちまん……!?」
桁外れの金額に、カイルが目を剥く。
「ふざけるな! なんだその暴利は!」
「暴利ではございません。適正価格です」
ドールは書類をパラパラとめくった。
そこには、日時と業務内容がびっしりと記されている。
「X年X月X日、王太子執務室にて書類整理、四時間。同日、財務報告書の誤字訂正および再計算、三時間。……Y年Y月Y日、地方視察の随行およびスピーチ原稿の執筆、一二時間……」
ドールは顔を上げた。
「これらは本来、殿下もしくは側近が行うべき公務です。それを『勉強になるだろう』と私に丸投げ……いえ、委任された業務の対価を、専門職の時給換算で算出いたしました」
「そ、それは……花嫁修業の一環として……」
「修業であれば、指導者がつくはずです。ですが、実際には私が一人で処理し、殿下はお茶を飲んでおられましたね? これは労働です」
(タダ働きは終わったんや! これからはブラック企業相手でもきっちり残業代請求するで!)
ドールの瞳の奥に、労働組合長のような炎が宿る。
「さらに、精神的苦痛への慰謝料、および私の『貴重な青春時代を無駄にした時間』への損害賠償を含め……合計、金貨二万枚。一括払いでお願いいたします」
金貨二万枚。
それは、小国の国家予算並みの金額だった。
カイルは顔面蒼白になり、デスクに手をついた。
「は、払えるわけがないだろう! そんな大金!」
「おや、おかしいですね。殿下は次期国王。その程度の蓄えもおありでないと?」
「王族の予算だって無限じゃないんだ! ふざけるな、こんな紙切れ!」
カイルは請求書を掴み、破り捨てようとした。
しかし。
「原本は公証人役場に保管してあります」
ドールの冷たい声が、その手を止めた。
「これは写しです。もし支払いが滞るようであれば、この請求書を持って国王陛下に直訴……あるいは、国内の新聞社に『王太子の金銭感覚』としてリークすることも検討しておりますが」
「きょ、脅迫か!?」
「督促です」
ドールは一歩も引かない。
カイルは震える手で書類を握りしめたまま、わなわなと震えている。
言い返したい。
罵倒してやりたい。
だが、ドールの提示した書類はあまりにも論理的で、事実に基づいており、反論の余地がなかった。
(な、なんだこの女は……。今まで僕の後ろで、ただニコニコしているだけの置物だと思っていたのに……)
カイルは初めて、ドールという人間に恐怖を覚えた。
無表情の奥にある、底知れない合理的思考。
まるで精密機械に追い詰められているような圧迫感。
「……検討、する」
カイルは絞り出すように言った。
「すぐには払えない。……内容を精査してからだ」
「承知いたしました」
ドールはあっさりと引き下がった。
最初から今日払ってもらえるとは思っていない。
相手に『逃げられない』という事実を突きつけるのが目的だったのだから。
「では、支払期限は一週間後とさせていただきます。……それまでは、金利はサービスしておきますので」
ドールは優雅に一礼した。
「失礼いたします」
踵を返し、颯爽と部屋を出て行こうとする。
「あ、あのっ!」
ミナが震える声で呼び止めた。
ドールが足を止める。
「……私のネックレス、返さなきゃダメですか……?」
ドールは振り返らず、背中越しに答えた。
「ご安心を。その代金は殿下に請求しております。……殿下が支払えれば、あなたのものです」
「ひっ……」
「まあ、殿下が『君のために』借金まみれになる覚悟があればの話ですが」
捨て台詞を残し、ドールは退室した。
扉が閉まる音と共に、部屋には重苦しい沈黙が落ちる。
(っしゃあああ! 言うたった! 言うたったで!!)
廊下に出た瞬間、ドールは心の中でガッツポーズをした。
(見たかあの顔! 青ざめてパクパクして、金魚みたいやったわ!)
長年の鬱憤を晴らし、足取りも軽く廊下を歩く。
勝利の余韻に浸りながら角を曲がった、その時だった。
「……ぷっ」
不意に、笑い声が聞こえた。
ドールが顔を上げると、そこには壁に寄りかかり、肩を震わせている男がいた。
黒髪に、青い瞳。
先日会ったばかりの、『氷の公爵』アーク・レイブンだった。
「く、くくっ……。すごいな、君は」
アークは堪えきれない様子で、ドールを見た。
「『愛がないなら金と契約』か……。ははっ、名言だね」
「……聞いておられたのですか?」
「ああ。執務室の声はよく通るからね。……いや、感動したよ。あそこまで清々しい取り立ては初めて見た」
アークは涙を拭う仕草をしながら、ドールに近づいてきた。
その顔は、普段の冷徹な表情とは違い、少年のように楽しげだ。
「ドール嬢。君、やっぱり最高だよ」
(……げっ。またこの人や)
ドールは内心で警戒警報を鳴らしたが、逃げる間もなく、アークに捕まってしまった。
「君、仕事を探していると言っていたね?」
「……言っておりませんが」
「金貨二万枚は魅力的だが、継続的な収入も必要だろう?」
アークはニヤリと笑った。
悪魔の契約書を取り出すように、懐から一枚の紙を取り出す。
「どうかな。私の元で働かないか? ……その計算能力、我が宰相府で存分に活かしてほしいんだが」
これが、ドールにとっての新たな(そしてカイル以上に厄介な)日々の始まりだった。
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