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宰相府での勤務初日。午後三時。
怒涛の書類整理が一段落し、ドールは優雅にティータイムをとっていた。
もちろん、手は休めていない。
右手で紅茶を飲みつつ、左手で次の書類の決裁印を押すという高等技術を披露している。
「……君、本当に器用だね」
向かいの席で、アークが感嘆の声を漏らした。
「慣れです」
ドールは短く答えた。
(実家で父様の仕事を手伝わされてた時に編み出した『ダブルタスク・ティータイム』や。これなら休憩時間を削らずに仕事ができる)
社畜の鑑のような思考回路である。
その時だった。
コンコン、と扉がノックされ、可愛らしい声が響いた。
「失礼しまぁす。お茶のおかわりをお持ちしましたぁ」
入ってきたのは、フリルのついたエプロン姿のミナだった。
手には銀のトレイを持ち、湯気の立つティーポットとカップが載っている。
(……げっ)
ドールの心の声が低く唸った。
(なんでここにおんねん。しかもその格好、給仕係?)
ミナはドールの方を見ると、ニヤリと口角を上げた。
そして、アークの方に向き直ると、甘ったるい声で媚びを売る。
「アーク様ぁ、お仕事大変そうですねぇ。私が特製のハーブティーを淹れてきましたの。リラックス効果があるんですよぉ」
「……ああ、そこに置いてくれ」
アークは書類から目を離さずに答えた。
冷淡な対応だが、ミナはめげない。
彼女の狙いはアークへのアピールではなく、その次にある『劇』だったからだ。
ミナはトレイを持ったまま、ドールのデスクの横を通る。
その瞬間。
「きゃあっ!!」
ミナが大げさな悲鳴を上げ、派手に転倒した。
ガシャーン!!
ティーポットが宙を舞い、熱い紅茶が床にぶちまけられる。
カップが砕け散り、破片が四散した。
執務室が一瞬で静まり返る。
ミナは床にへたり込んだまま、震える手で顔を覆い、嘘泣きを始めた。
「ひ、ひどい……っ! ドール様、なんで足を引っかけるんですかぁ!?」
周囲の文官たちが、ギョッとしてドールを見る。
ドールは無表情のまま、手に持っていたペンを置いた。
(……出たわ。古典的冤罪メソッドその1、『自爆転倒』)
(あまりにベタすぎて、あくびが出そうやわ)
ミナは涙目でアークを見上げた。
「アーク様ぁ、見てくださいぃ! ドール様が、私が通るタイミングで足を……っ! 熱い紅茶がかかって、火傷しちゃったかもしれませんぅ……」
「……ほう」
アークが手を止め、ゆっくりと立ち上がった。
その目は、冷ややかな光を宿している。
「それは大変だ」
「はいぃ、痛くて……。ドール様、私にカイル様を取られたのが悔しいからって、こんなこと……」
ミナは勝ち誇った目でドールをチラリと見た。
(これでアーク様の評価もガタ落ちね! 職場いじめをするような女、即刻クビよ!)
しかし。
ドールは静かに椅子を引いて立ち上がると、無表情のままミナを見下ろした。
「……ミナ様」
「な、なんですかぁ? 謝っても許しませんからねっ!」
「現場検証を行います」
「は?」
ドールは懐からメジャー(常に携帯している)を取り出した。
シュルシュルと音を立てて伸ばし、自分のデスクと、ミナが転倒している位置の距離を測る。
「……測定結果。私の椅子の脚から、あなたが転倒を開始したと思われる地点までの距離、約一・五メートル」
ドールは淡々と数値を読み上げた。
「私の脚の長さは、股下〇〇センチです。座った状態で足を伸ばしても、物理的に一・五メートル先のあなたに届くことはあり得ません」
「えっ……?」
ミナの顔が引きつる。
ドールはさらに続ける。
「次に、あなたの転倒姿勢。……足を引っかけられた場合、重心は前方に崩れるのが自然です。しかし、あなたは綺麗な尻餅をついている。これは『足を滑らせた』か『自ら後ろに倒れ込んだ』時の姿勢です」
「そ、それは……とっさにバランスを取ろうとして……」
「さらに、紅茶の飛散方向」
ドールは床のシミを指差した。
「ポットが手から離れた位置と、シミの広がり方を見れば、あなたが『意図的にドール側に投げた』ことは明白です。自然落下なら、もっと円形に広がるはずですが、これは放射状に……」
「も、もういいです!!」
ミナが顔を真っ赤にして叫んだ。
論理的すぎて反論できない。
ドールの理詰め攻撃は、感情論で戦おうとするミナにとって天敵だった。
「と、とにかく! ドール様が私を睨んだんです! すごい怖い顔で! だから私、びっくりして転んじゃって……! これは精神的な暴力ですぅ!」
作戦変更。
物理的証拠がダメなら、主観的な印象操作だ。
ミナは再びアークにすがりつく。
「アーク様ぁ、ドール様のあの能面みたいな顔、怖くないですかぁ? あんな顔で見られたら、誰だって足がすくみますぅ……」
アークが静かに口を開いた。
「……確かに、彼女の顔は無表情だ」
「でしょう!? やっぱりアーク様もそう思いますよね!」
ミナが勢いづく。
アークはドールの方を見た。
ドールは相変わらず、何を考えているか読めない顔で立っている。
「だが」
アークは言葉を続けた。
「私はずっと彼女を見ていたが、君が入室してから転ぶまで、彼女は一度も顔を上げていなかったぞ」
「えっ」
「彼女は左手でハンコを押す作業に集中していた。君の方など一瞥もしていない。……見ていない相手を、どうやって睨むんだ?」
「そ、それは……」
「それに」
アークは愉快そうに笑った。
「彼女が無表情なのは『仕様』だ。私はその顔を気に入って雇った。……私の人事判断に、ケチをつけるつもりか?」
アークの声色が、急激に温度を下げた。
『微笑む氷河』の本領発揮である。
室内の空気が凍りついたように重くなる。
ミナはヒッと息を呑み、震え上がった。
「め、滅相もございません……! そ、そんなつもりじゃ……」
「なら、いい。……仕事の邪魔だ。片付けて出て行け」
「は、はいぃ……っ!」
ミナは涙目で散らばった破片を拾い集め、逃げるように部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まる。
静寂が戻った部屋で、ドールは小さくため息をついた。
(やれやれ。……それにしても)
ドールは床の紅茶のシミを見つめた。
「……あの絨毯、ペルシャ製の高級品ですよね?」
「ああ。たぶん金貨一〇〇枚くらいかな」
「クリーニング代、誰持ちですか? 経費ですか? それともミナ様の給与天引きですか?」
「ふっ、君は本当にぶれないな」
アークは肩を震わせて笑い出した。
「心配しなくても、ミナ嬢に請求しておくよ。……君への『精神的暴力』の慰謝料も上乗せしてね」
「ありがとうございます。では、仕事に戻ります」
ドールは何事もなかったかのように席に着き、再び高速でハンコを押し始めた。
アークはその様子を、愛おしそうに見つめていた。
(……カイルには勿体ない女だ。本当に)
そして、心の中でこう付け加えた。
(さて、次はどんな『面白いこと』を見せてくれるのかな?)
*
その日の夕方。
ドールは定時きっかりに仕事を終え、帰路につこうとしていた。
「お疲れ様でした」
「ああ、お疲れ様。……送っていこうか?」
「いえ、馬車がありますので」
ドールはアークの申し出(という名のデートの誘い)を秒で断り、宰相府を出た。
夕日が沈みかける王城の中庭を歩いていると、前方から見覚えのある人影が現れた。
カイル王太子だ。
彼はドールを見つけると、鬼の首を取ったような顔で駆け寄ってきた。
「ドール! やっと見つけたぞ!」
「……何か? 私はもう勤務時間外ですが」
「うるさい! 貴様、アーク叔父上の秘書になったそうだな!?」
「はい。再就職いたしました」
「ふざけるな! 僕への当てつけか!? よりによって叔父上のところに行くなんて……」
カイルは悔しそうに歯噛みした。
アークはカイルにとって、目の上のたんこぶのような存在だ。
優秀すぎて比較されるし、説教は怖いし、逆らえない。
その叔父の懐に、元婚約者が逃げ込んだのだ。面白くないに決まっている。
「叔父上に何を吹き込んだ! 僕の悪口か!? あることないこと言いつけたんだろう!」
「事実しか申し上げておりません」
「それが悪口だと言っているんだ!」
(自覚あるんかい)
ドールは心の中でツッコミを入れた。
「それで? 用件はそれだけですか?」
「違う! ……金だ!」
カイルが声を潜めた。
「あの請求書……叔父上に見せたのか?」
「いいえ。まだ」
「『まだ』ということは、見せるつもりがあるということか!?」
「支払いが滞れば、法的手段の一環としてご相談するかもしれません」
「くそっ……! 分かった、払えばいいんだろう、払えば!」
カイルは懐から、小切手帳を取り出した。
「だが、二万枚なんて大金、すぐには無理だ! 分割にしろ!」
「金利がつきますが」
「ぐぬぬ……っ。……分かった、飲む!」
カイルは屈辱に震えながら言った。
「その代わり、条件がある」
「条件?」
「来週の建国記念パーティだ」
カイルはニヤリと笑った。
「そこで、僕とミナの婚約を正式発表する。……貴様も参加しろ」
「……私が、ですか?」
「そうだ。僕たちが幸せに結ばれる姿を、特等席で見届けるんだ。それが、僕からのせめてもの罰だと思え!」
ドールは首を傾げた。
(罰? どっちかというと、ご褒美ちゃうか?)
(元婚約者が別の女とイチャついてるのを見るだけで、金貨二万枚回収できるなら、ポップコーン片手に見物したるわ)
しかし、カイルの狙いはそれだけではないようだった。
「ただ見ているだけじゃないぞ。……惨めな元婚約者として、僕たちを祝福のスピーチで称えるんだ。『お二人が結ばれて本当によかったです』とな!」
ドールへの公開処刑。
それがカイルの目論見だった。
多くの貴族の前で、自分を捨てた男を祝福させる。
プライドの高い令嬢なら、耐え難い屈辱だろう。
だが、ドールは無表情のまま頷いた。
「分かりました。それで残金の支払い確約をいただけるなら、喜んで」
「は……? よ、喜んで?」
「はい。スピーチ原稿は一文字いくらで計算すればよろしいですか?」
「き、貴様ぁぁぁ……!!」
ドールの守銭奴ぶりに、カイルが発狂しかけた時だった。
「……おや、楽しそうだね」
背後から、絶対零度の声が降ってきた。
ドールとカイルが同時に振り返ると、そこには笑顔のアークが立っていた。
ただ、その目は全く笑っていない。
「お、叔父上……!」
「私の大事な部下を、随分と熱心に口説いているようだが。……勤務時間外手当は払うつもりかい?」
アークはドールの肩に手を置き、カイルを冷ややかに見下ろした。
「そ、そんなんじゃありません! ただ、パーティの招待を……」
「パーティ? ああ、来週の」
アークは何かを思いついたように、ポンと手を打った。
「ちょうどいい。ドール君」
「はい」
「そのパーティ、私のパートナーとして参加してくれないか?」
「……はい?」
ドールとカイルの声が、再び重なった。
怒涛の書類整理が一段落し、ドールは優雅にティータイムをとっていた。
もちろん、手は休めていない。
右手で紅茶を飲みつつ、左手で次の書類の決裁印を押すという高等技術を披露している。
「……君、本当に器用だね」
向かいの席で、アークが感嘆の声を漏らした。
「慣れです」
ドールは短く答えた。
(実家で父様の仕事を手伝わされてた時に編み出した『ダブルタスク・ティータイム』や。これなら休憩時間を削らずに仕事ができる)
社畜の鑑のような思考回路である。
その時だった。
コンコン、と扉がノックされ、可愛らしい声が響いた。
「失礼しまぁす。お茶のおかわりをお持ちしましたぁ」
入ってきたのは、フリルのついたエプロン姿のミナだった。
手には銀のトレイを持ち、湯気の立つティーポットとカップが載っている。
(……げっ)
ドールの心の声が低く唸った。
(なんでここにおんねん。しかもその格好、給仕係?)
ミナはドールの方を見ると、ニヤリと口角を上げた。
そして、アークの方に向き直ると、甘ったるい声で媚びを売る。
「アーク様ぁ、お仕事大変そうですねぇ。私が特製のハーブティーを淹れてきましたの。リラックス効果があるんですよぉ」
「……ああ、そこに置いてくれ」
アークは書類から目を離さずに答えた。
冷淡な対応だが、ミナはめげない。
彼女の狙いはアークへのアピールではなく、その次にある『劇』だったからだ。
ミナはトレイを持ったまま、ドールのデスクの横を通る。
その瞬間。
「きゃあっ!!」
ミナが大げさな悲鳴を上げ、派手に転倒した。
ガシャーン!!
ティーポットが宙を舞い、熱い紅茶が床にぶちまけられる。
カップが砕け散り、破片が四散した。
執務室が一瞬で静まり返る。
ミナは床にへたり込んだまま、震える手で顔を覆い、嘘泣きを始めた。
「ひ、ひどい……っ! ドール様、なんで足を引っかけるんですかぁ!?」
周囲の文官たちが、ギョッとしてドールを見る。
ドールは無表情のまま、手に持っていたペンを置いた。
(……出たわ。古典的冤罪メソッドその1、『自爆転倒』)
(あまりにベタすぎて、あくびが出そうやわ)
ミナは涙目でアークを見上げた。
「アーク様ぁ、見てくださいぃ! ドール様が、私が通るタイミングで足を……っ! 熱い紅茶がかかって、火傷しちゃったかもしれませんぅ……」
「……ほう」
アークが手を止め、ゆっくりと立ち上がった。
その目は、冷ややかな光を宿している。
「それは大変だ」
「はいぃ、痛くて……。ドール様、私にカイル様を取られたのが悔しいからって、こんなこと……」
ミナは勝ち誇った目でドールをチラリと見た。
(これでアーク様の評価もガタ落ちね! 職場いじめをするような女、即刻クビよ!)
しかし。
ドールは静かに椅子を引いて立ち上がると、無表情のままミナを見下ろした。
「……ミナ様」
「な、なんですかぁ? 謝っても許しませんからねっ!」
「現場検証を行います」
「は?」
ドールは懐からメジャー(常に携帯している)を取り出した。
シュルシュルと音を立てて伸ばし、自分のデスクと、ミナが転倒している位置の距離を測る。
「……測定結果。私の椅子の脚から、あなたが転倒を開始したと思われる地点までの距離、約一・五メートル」
ドールは淡々と数値を読み上げた。
「私の脚の長さは、股下〇〇センチです。座った状態で足を伸ばしても、物理的に一・五メートル先のあなたに届くことはあり得ません」
「えっ……?」
ミナの顔が引きつる。
ドールはさらに続ける。
「次に、あなたの転倒姿勢。……足を引っかけられた場合、重心は前方に崩れるのが自然です。しかし、あなたは綺麗な尻餅をついている。これは『足を滑らせた』か『自ら後ろに倒れ込んだ』時の姿勢です」
「そ、それは……とっさにバランスを取ろうとして……」
「さらに、紅茶の飛散方向」
ドールは床のシミを指差した。
「ポットが手から離れた位置と、シミの広がり方を見れば、あなたが『意図的にドール側に投げた』ことは明白です。自然落下なら、もっと円形に広がるはずですが、これは放射状に……」
「も、もういいです!!」
ミナが顔を真っ赤にして叫んだ。
論理的すぎて反論できない。
ドールの理詰め攻撃は、感情論で戦おうとするミナにとって天敵だった。
「と、とにかく! ドール様が私を睨んだんです! すごい怖い顔で! だから私、びっくりして転んじゃって……! これは精神的な暴力ですぅ!」
作戦変更。
物理的証拠がダメなら、主観的な印象操作だ。
ミナは再びアークにすがりつく。
「アーク様ぁ、ドール様のあの能面みたいな顔、怖くないですかぁ? あんな顔で見られたら、誰だって足がすくみますぅ……」
アークが静かに口を開いた。
「……確かに、彼女の顔は無表情だ」
「でしょう!? やっぱりアーク様もそう思いますよね!」
ミナが勢いづく。
アークはドールの方を見た。
ドールは相変わらず、何を考えているか読めない顔で立っている。
「だが」
アークは言葉を続けた。
「私はずっと彼女を見ていたが、君が入室してから転ぶまで、彼女は一度も顔を上げていなかったぞ」
「えっ」
「彼女は左手でハンコを押す作業に集中していた。君の方など一瞥もしていない。……見ていない相手を、どうやって睨むんだ?」
「そ、それは……」
「それに」
アークは愉快そうに笑った。
「彼女が無表情なのは『仕様』だ。私はその顔を気に入って雇った。……私の人事判断に、ケチをつけるつもりか?」
アークの声色が、急激に温度を下げた。
『微笑む氷河』の本領発揮である。
室内の空気が凍りついたように重くなる。
ミナはヒッと息を呑み、震え上がった。
「め、滅相もございません……! そ、そんなつもりじゃ……」
「なら、いい。……仕事の邪魔だ。片付けて出て行け」
「は、はいぃ……っ!」
ミナは涙目で散らばった破片を拾い集め、逃げるように部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まる。
静寂が戻った部屋で、ドールは小さくため息をついた。
(やれやれ。……それにしても)
ドールは床の紅茶のシミを見つめた。
「……あの絨毯、ペルシャ製の高級品ですよね?」
「ああ。たぶん金貨一〇〇枚くらいかな」
「クリーニング代、誰持ちですか? 経費ですか? それともミナ様の給与天引きですか?」
「ふっ、君は本当にぶれないな」
アークは肩を震わせて笑い出した。
「心配しなくても、ミナ嬢に請求しておくよ。……君への『精神的暴力』の慰謝料も上乗せしてね」
「ありがとうございます。では、仕事に戻ります」
ドールは何事もなかったかのように席に着き、再び高速でハンコを押し始めた。
アークはその様子を、愛おしそうに見つめていた。
(……カイルには勿体ない女だ。本当に)
そして、心の中でこう付け加えた。
(さて、次はどんな『面白いこと』を見せてくれるのかな?)
*
その日の夕方。
ドールは定時きっかりに仕事を終え、帰路につこうとしていた。
「お疲れ様でした」
「ああ、お疲れ様。……送っていこうか?」
「いえ、馬車がありますので」
ドールはアークの申し出(という名のデートの誘い)を秒で断り、宰相府を出た。
夕日が沈みかける王城の中庭を歩いていると、前方から見覚えのある人影が現れた。
カイル王太子だ。
彼はドールを見つけると、鬼の首を取ったような顔で駆け寄ってきた。
「ドール! やっと見つけたぞ!」
「……何か? 私はもう勤務時間外ですが」
「うるさい! 貴様、アーク叔父上の秘書になったそうだな!?」
「はい。再就職いたしました」
「ふざけるな! 僕への当てつけか!? よりによって叔父上のところに行くなんて……」
カイルは悔しそうに歯噛みした。
アークはカイルにとって、目の上のたんこぶのような存在だ。
優秀すぎて比較されるし、説教は怖いし、逆らえない。
その叔父の懐に、元婚約者が逃げ込んだのだ。面白くないに決まっている。
「叔父上に何を吹き込んだ! 僕の悪口か!? あることないこと言いつけたんだろう!」
「事実しか申し上げておりません」
「それが悪口だと言っているんだ!」
(自覚あるんかい)
ドールは心の中でツッコミを入れた。
「それで? 用件はそれだけですか?」
「違う! ……金だ!」
カイルが声を潜めた。
「あの請求書……叔父上に見せたのか?」
「いいえ。まだ」
「『まだ』ということは、見せるつもりがあるということか!?」
「支払いが滞れば、法的手段の一環としてご相談するかもしれません」
「くそっ……! 分かった、払えばいいんだろう、払えば!」
カイルは懐から、小切手帳を取り出した。
「だが、二万枚なんて大金、すぐには無理だ! 分割にしろ!」
「金利がつきますが」
「ぐぬぬ……っ。……分かった、飲む!」
カイルは屈辱に震えながら言った。
「その代わり、条件がある」
「条件?」
「来週の建国記念パーティだ」
カイルはニヤリと笑った。
「そこで、僕とミナの婚約を正式発表する。……貴様も参加しろ」
「……私が、ですか?」
「そうだ。僕たちが幸せに結ばれる姿を、特等席で見届けるんだ。それが、僕からのせめてもの罰だと思え!」
ドールは首を傾げた。
(罰? どっちかというと、ご褒美ちゃうか?)
(元婚約者が別の女とイチャついてるのを見るだけで、金貨二万枚回収できるなら、ポップコーン片手に見物したるわ)
しかし、カイルの狙いはそれだけではないようだった。
「ただ見ているだけじゃないぞ。……惨めな元婚約者として、僕たちを祝福のスピーチで称えるんだ。『お二人が結ばれて本当によかったです』とな!」
ドールへの公開処刑。
それがカイルの目論見だった。
多くの貴族の前で、自分を捨てた男を祝福させる。
プライドの高い令嬢なら、耐え難い屈辱だろう。
だが、ドールは無表情のまま頷いた。
「分かりました。それで残金の支払い確約をいただけるなら、喜んで」
「は……? よ、喜んで?」
「はい。スピーチ原稿は一文字いくらで計算すればよろしいですか?」
「き、貴様ぁぁぁ……!!」
ドールの守銭奴ぶりに、カイルが発狂しかけた時だった。
「……おや、楽しそうだね」
背後から、絶対零度の声が降ってきた。
ドールとカイルが同時に振り返ると、そこには笑顔のアークが立っていた。
ただ、その目は全く笑っていない。
「お、叔父上……!」
「私の大事な部下を、随分と熱心に口説いているようだが。……勤務時間外手当は払うつもりかい?」
アークはドールの肩に手を置き、カイルを冷ややかに見下ろした。
「そ、そんなんじゃありません! ただ、パーティの招待を……」
「パーティ? ああ、来週の」
アークは何かを思いついたように、ポンと手を打った。
「ちょうどいい。ドール君」
「はい」
「そのパーティ、私のパートナーとして参加してくれないか?」
「……はい?」
ドールとカイルの声が、再び重なった。
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