悪役令嬢ドールは婚約破棄も無表情で承る!

ちゅんりー

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大広間の空気は、完全に支配されていた。

主役であるはずのカイル王太子とミナの存在は霞み、すべての視線が、アークとドールの二人に注がれている。

「……素晴らしい眺めだ」

アークがドールの耳元で囁いた。

その声には、計算通りに事が運んだ満足感と、純粋に状況を楽しむ愉悦が混じっている。

「見なさい、あのカイルの顔。……鳩が豆鉄砲を食らったどころか、大砲の直撃を受けたような顔だ」

ドールは、アークの視線を追うことなく、前だけを見据えて答えた。

「閣下。勤務時間中です。私語は慎んでいただけますか?」

「おっと、失礼。……だが、君も少しは楽しんだらどうだ? 元婚約者への最高のリベンジだろう?」

(リベンジ? 興味ないわそんなん)

ドールは心の中で即答した。

彼女の脳内は今、別の計算で忙しいのだ。

(えーっと、今からパーティ終了まで約三時間。時給換算で金貨〇枚。さらに『注目手当』と『魔除け手当』が加算されて……)

チャリンチャリンと脳内レジスターが鳴り響く。

(よし、今日の稼ぎだけで、実家の屋根の修理代が賄えるな)

ドールにとって、この場はただの稼ぎ場に過ぎない。

周囲のヒソヒソ話が、さざ波のように広がっていく。

『おい、あれが本当に「人形姫」か?』

『なんて美しさだ……。氷の公爵とお似合いすぎる』

『それに比べて、王太子の隣の娘は……なんだか、安っぽいな』

『ああ。並ぶと残酷なほど差がわかるな』

その声は、当然カイルの耳にも届いていた。

「くそっ……! くそっ、くそっ!」

カイルはグラスを持つ手が震え、中のワインがこぼれそうになっていた。

自分の晴れ舞台が、台無しだ。

隣にいるミナが、不安そうにカイルの袖を引く。

「カイル様ぁ……。みんな、ドール様のことばっかり見てますぅ。私、悔しい……」

ミナもまた、焦っていた。

自分が一番輝くはずの場所で、引き立て役にされている。

しかも、その相手は、自分が追い出したはずのドールなのだ。

「大丈夫だ、ミナ。あんな女、所詮はメッキだ。すぐにボロが出る」

カイルは強がりを言ったが、その目は血走っていた。

「……許さん。絶対に許さんぞ、ドール!」

カイルはミナの手を引き、アークとドールの方へ大股で歩き出した。

          *

「やあ、叔父上。随分と派手な登場ですね」

カイルが二人の前に立ちはだかった。

その声は、努めて冷静さを装っているが、怒りで微かに震えている。

アークは足を止め、涼しげな笑みを浮かべた。

「おや、カイルじゃないか。本日の主役がわざわざ出迎えとは、恐縮だね」

「皮肉はやめてください! ……どういうつもりですか、その格好は!」

カイルがドールを指差して叫んだ。

「僕が捨てた古着を、わざわざ拾って着飾るなんて! 叔父上の品性を疑いますよ!」

会場がざわついた。

『古着』『拾った』。公爵令嬢に対する言葉としては、あまりに無礼だ。

だが、アークは眉一つ動かさない。

「言葉を慎みたまえ、カイル。彼女は今、私の大事なパートナーだ」

「パートナー? 笑わせないでください! そいつは、感情一つ表せない欠陥品ですよ!? 僕が婚約破棄して正解だった女だ!」

カイルは勝ち誇ったように笑った。

「どうせ、叔父上が同情して連れてきたんでしょう? 可哀想な人形姫に、最後の思い出作りをさせてやろうってね!」

アークの瞳が、スッと細められた。

その温度が絶対零度まで下がりかけた、その時。

「……訂正させていただきます、殿下」

ドールが、静かに口を開いた。

その声は、鈴の音のように美しく、そして氷のように冷徹だった。

カイルが鼻で笑う。

「なんだ? 言い訳か? 今さら泣いて縋っても遅いぞ」

「いいえ。事実誤認の訂正です」

ドールは、カイルの目を真っ直ぐに見据えた。

「第一に、私は『古着』でも『捨てられた』わけでもありません」

「は? 何言ってんだ。僕が婚約破棄を……」

「それは『契約解除』です」

ドールは淡々と言い放った。

「殿下というクライアントが、一方的に契約不履行(浮気)を働いたため、契約が終了した。それだけのことです」

「け、契約……!?」

「第二に、私は『欠陥品』ではありません。感情表現の出力が省エネ仕様なだけです」

(お前らの茶番劇にいちいち反応してたら、カロリーの無駄やからな)

ドールは内心で付け加えた。

「そして第三に。……こちらのほうが重要ですが」

ドールは、そっとアークの腕に手を添え直した。

その仕草は優雅で、計算し尽くされた美しさがあった。

「私は同情でここにいるわけではありません。……アーク閣下が、私の『市場価値』を正当に評価してくださったからです」

「し、市場価値だと……?」

「はい。殿下は私を無価値だと判断し、手放しました。ですが、閣下は私に価値を見出し、高待遇で迎え入れてくださいました」

ドールは、カイルとミナを交互に見た。

「商取引の基本ですね。見る目のない顧客から、優良な顧客へと商品が移動した。……それだけの話です」

会場が静まり返る。

愛だの恋だのという社交界の常識を、ドールは「商取引」という言葉で一刀両断したのだ。

あまりにも身も蓋もない、しかし反論できない論理。

カイルは顔を真っ赤にしてパクパクと口を開閉させた。

「き、貴様……っ! 自分を商品に例えるなど、令嬢としてのプライドはないのか!」

「プライドで飯は食えませんので」

即答。

ドールは無表情のまま続けた。

「それに、実のないプライドにしがみついて破滅するより、自身の価値を現金化するほうが、よほど建設的かと」

グサリ。

カイルの胸に、見えないナイフが突き刺さった。

『実のないプライド』。それが自分を指していることは明白だった。

「ふっ……ふふふっ!」

隣で、アークが耐えきれずに笑い出した。

「ははは! 最高だ、ドール君! その通りだ!」

アークは愉快そうにカイルの肩を叩いた。

「聞いたかい、カイル? 君は『見る目のない顧客』だそうだ。……残念だったね、優良物件を逃してしまって」

「お、叔父上まで……っ!」

カイルは屈辱に震えた。

反論したいが、言葉が出てこない。

ドールの論理武装は完璧で、感情論で突っかかっても跳ね返されるだけだと、本能が悟ってしまったのだ。

そこに、ミナが震える声で割って入った。

「ひ、ひどいですドール様……っ! カイル様をそんな風に言うなんて……!」

ミナは涙目で周囲に訴えかける。

「みなさん、聞いてください! ドール様は、カイル様を『金づる』としか見ていなかったんです! 愛なんてなかったんですよぉ!」

周囲がざわつく。

確かに、ドールの発言は金銭への執着が強すぎるように聞こえる。

だが、ドールは眉一つ動かさない。

「ミナ様。……あなたこそ、殿下に愛があるのですか?」

「と、当然です! 私はカイル様を心から愛して……」

「では、なぜ殿下の借金を肩代わりしないのですか?」

ドールは懐から、例の請求書の写し(縮小版)を取り出した。

「殿下の借金、金貨二万枚。……愛があるなら、あなたが支払って差し上げればよろしいのでは?」

「えっ……」

ミナの動きが止まった。

「まさか、殿下のことは愛しているけれど、殿下の借金は愛せない、と?」

「そ、それは……その……」

ミナが視線を泳がせる。

金貨二万枚。そんな大金、しがない男爵家が払えるわけがない。

それに、ミナがカイルに近づいたのは、将来の王妃という地位と財産が目当てだったのだ。借金を背負い込むなど、論外である。

「……沈黙は肯定と受け取ります」

ドールは冷ややかに言い放った。

「口先だけの愛など、何の担保にもなりません。……信用取引においては、現金こそが全てです」

ドールの「現金至上主義」が炸裂する。

ミナは完全に論破され、カイルの背後に隠れてしまった。

アークが満足げに頷いた。

「見事だ。……さあ、これ以上は時間の無駄だ。行こうか」

アークがドールの手を引いて歩き出す。

カイルたちは、呆然と立ち尽くすしかなかった。

二人が離れた場所に行くと、アークが小声で言った。

「……君、本当に容赦ないな」

「事実を述べたまでです」

「だが、少しやりすぎじゃないか? 『見る目のない顧客』とは」

「事実ですから」

ドールは澄ました顔で答えた。

「それに、閣下が仰ったのですよ? 『私の盾になれ』と。……最高の防語り(ぼうかたり)をご提供したつもりですが」

「くくっ、違いない」

アークは楽しそうに笑った。

「君を雇って、本当によかった。……さて、次はダンスの時間だが」

アークがダンスフロアの方を見る。

「……踊れるかい? その『省エネ仕様』で」

ドールは無表情のまま、スカートの裾をわずかに持ち上げた。

「ご心配なく。ダンスは『必修科目』ですので、完璧にプログラムされています」

「それは楽しみだ」

アークはドールの手を取り、フロアの中央へと進み出た。

音楽が始まる。

カイルとミナが主役のはずのファーストダンスは、いつの間にか、この最強の二人によって奪われようとしていた。
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