悪役令嬢ドールは婚約破棄も無表情で承る!

ちゅんりー

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翌朝。宰相府。

ドールはいつものように、定時の一五分前に出勤していた。

ただし、周囲の反応は昨日までとは劇的に変わっていた。

廊下ですれ違う文官たちが、モーゼの海割れのように道を開ける。

そして、最敬礼で頭を下げるのだ。

「おはようございます! ドール様……いえ、公爵夫人(予定)!」

「本日は快晴ですね! お召し物も素敵です!」

(……やりづらっ)

ドールは無表情のまま内心でぼやいた。

昨夜のアークによる「妻にする宣言」は、一夜にして城中を駆け巡っていた。

今やドールは『氷の公爵』を陥落させた女傑として、畏怖と尊敬の対象となっている。

(まあええわ。おべっか使われても給料は増えんけど、仕事の邪魔さえされんかったらそれでいい)

執務室に入ると、すでにアークが優雅にコーヒーを飲んでいた。

「やあ、おはよう。私の可愛いフィアンセ」

「おはようございます、閣下。……その呼び方、業務に支障が出ますので『秘書官』で統一してください」

ドールは鞄を置き、即座にデスクに向かった。

「つれないな。昨夜はあんなに熱く契約を交わした仲じゃないか」

「契約書(全財産譲渡の念書)の作成は、後ほど法務局立ち会いのもと行います。それまでは口約束ですので」

「くくっ、君のそういう『可愛げのないところ』がたまらないよ」

アークは上機嫌だ。

ドールはため息を一つつき、目の前の書類タワーに着手した。

(さて、今日も稼ぐで。……ん?)

ふと、ドールは窓の外を見た。

王城の西棟。そこは王太子カイルの執務室がある場所だ。

ドールには見えた。

西棟の窓から、どす黒いオーラ(と、悲鳴のような気配)が立ち上っているのが。

(……ああ、そろそろ『アレ』に気づく頃か)

ドールは小さく口角を上げかけ、すぐに無表情に戻した。

(ご愁傷様です、殿下。……業務引き継ぎ書を作る時間は、私にはありませんでしたので)

          *

同時刻。王太子執務室。

そこは阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。

「な、なんだこれはぁぁぁぁ!!」

カイルの絶叫が響き渡る。

彼のデスクの上には、未決裁の書類が山のように積まれていた。

「おい! これはどうなっている! 地方からの陳情書だぞ! なぜ回答していない!」

「はっ、申し訳ありません! いつもならドール様が下書きを作成されていたので……」

「予算案の計算が合わないぞ! 誰か検算しろ!」

「い、以前はドール様が一瞬でチェックされていたので、我々では時間が……!」

「来週の式典の挨拶原稿はどこだ!?」

「それもドール様が……」

「ドール、ドール、ドール!! どいつもこいつも!!」

カイルは書類の束を床に叩きつけた。

「あいつがいないと何もできないのか、お前たちは!!」

側近たちは青ざめて俯くしかない。

事実なのだ。

これまで、この執務室の業務の八割は、ドールが一人で回していた。

カイルが「お茶がぬるい」と文句を言っている間に、ドールは陳情書を読み、予算を組み、スピーチを書き、スケジュールの調整まで行っていた。

それも、涼しい顔で、誰にも気づかせずに。

カイルたちは、ドールがいることで業務が円滑に回っていることに気づいていなかった。

彼女がいなくなって初めて、その偉大さ(と、自分たちの無能さ)に直面したのだ。

「カイル様ぁ……。私、暇なんですけどぉ」

ソファで雑誌を読んでいたミナが、甘えた声を出した。

「ねえ、お買い物に行きましょうよぉ。ドレス欲しいなぁ」

「うるさい! 今それどころじゃないんだ!」

カイルが怒鳴った。

ミナがビクリと震える。

「な、なんで怒るんですかぁ……。ドール様がいなくなって、せいせいしたって言ってたじゃないですかぁ」

「せいせいしたのは気分だけだ! 仕事が終わらないんだよ!」

カイルは頭を抱えた。

目の前の書類は、どれも難解で面倒なものばかり。

読んでいて頭が痛くなる。

(……待てよ。こんなの、ドールはどうやって処理していたんだ?)

カイルはふと思い出し、ゴミ箱の中から、かつてドールが作成した書類の控えを拾い上げた。

そこには、簡潔かつ的確な要約と、複数の解決案、そしてメリット・デメリットの比較までが、美しい文字で記されていた。

『殿下は、この中からA案かB案かをお選びいただくだけで結構です』

ドールの淡々とした声が蘇る。

カイルは愕然とした。

(僕は……仕事をしていたんじゃない。あいつが作った選択肢から、選んでいただけだったのか……?)

自分の有能さは、ドールという最強の補助輪があってこそだった。

その補助輪を自ら外してしまった今、カイルはただのバランスの悪い三輪車だ。

「……呼び戻せ」

カイルが呻くように言った。

「え?」

「ドールを呼び戻せ!! 今すぐだ!!」

カイルは立ち上がり、側近に怒鳴り散らした。

「あいつが必要だ! あいつがいないと、僕は過労死する!」

「し、しかし殿下……ドール様は今、宰相閣下の……」

「知るか! 元はと言えば僕の婚約者だぞ! 返してもらって当然だ!」

カイルの論理は破綻していた。

だが、追い詰められた人間は理性を失う。

「僕自ら行く! 叔父上のところへ乗り込んででも、連れ戻してやる!」

カイルは部屋を飛び出した。

          *

宰相府。

ドールが「高速承認印押し」の技を披露していると、扉が荒々しく開かれた。

「ドール!!」

血相を変えたカイルが飛び込んでくる。

後ろから、止める間もなかった衛兵が申し訳なさそうについてきた。

「……殿下。ノックはマナーですよ」

ドールは手を止めずに言った。

「うるさい! そんなことを言っている場合か!」

カイルはドールのデスクに詰め寄った。

「戻ってこい! 今すぐ!」

「……は?」

ドールはハンコを持ったまま、きょとん(無表情)とした。

「戻れとは、どちらへ?」

「僕のところへだ! 執務室が大変なんだ! お前がいないと書類が終わらない!」

カイルは必死だった。

プライドも何もかもかなぐり捨てて叫ぶ。

「陳情書の返事も、予算の計算も、お前が全部やれ! それがお前の仕事だろう!」

「……お断りします」

「なっ!?」

「私はすでに解雇(婚約破棄)通知を受け取りました。現在はアーク・レイブン宰相閣下と雇用契約を結んでおります」

ドールは冷静に事実を陳列した。

「前の職場が人手不足で崩壊しようが、退職した人間には関係ありません。……自業自得では?」

「ぐっ……! だ、だが、王太子の業務が滞れば国益に関わるぞ! それでも貴族か!」

「国益に関わるほど無能なら、王太子の座を降りてはいかがですか?」

ドールの一撃。

カイルが言葉を失って固まる。

そこへ、奥の席からゆっくりとアークが歩み寄ってきた。

「……騒がしいな、カイル」

「お、叔父上……」

「私の大事な『妻』に、随分な口を利くじゃないか」

アークの目が据わっている。

昨夜の「パートナー宣言」以来、アークはドールへの独占欲を隠そうともしなくなっていた。

「か、返してください! ドールは僕に必要な人材なんです!」

「ほう? 『古着』だの『欠陥品』だのと言っていた口が、よく回る」

アークは冷笑した。

「彼女の価値に気づくのが遅すぎたな。……残念だが、彼女はもう私のものだ。業務的にも、私的にもね」

「そ、そんな……!」

アークはドールの肩を抱き、カイルに見せつけるように言った。

「それに、彼女は今、私の資産管理(全財産の計算)で忙しいんだ。君の尻拭いをしている暇はない」

「……ドール、お前も何か言ってくれ! 僕を見捨てるのか!?」

カイルがドールに縋るような目を向ける。

ドールは、作業の手を止めてカイルを見た。

そして、引き出しから一枚の紙を取り出した。

「……では、こちらを」

「な、なんだ? 戻ってくれるのか?」

カイルが期待に顔を輝かせる。

しかし、渡されたのは見覚えのある羊皮紙だった。

「追加請求書です」

「……は?」

「『緊急業務コンサルティング見積書』。……もし私が殿下の業務を手伝う場合、スポット契約として、宰相府での時給の五倍を請求いたします」

「ご、ごばい……!?」

「さらに、精神的苦痛への手当として、一分ごとに金貨一枚のチャージ料が発生します」

ドールは無表情でカイルに突きつけた。

「金がないなら、お引き取りください。……時間は金ですので」

カイルは震える手で請求書を持ったまま、膝から崩れ落ちた。

完敗だった。

愛にも、権力にも、そして経済力にも負けたのだ。

「……衛兵。殿下をお送りしろ」

アークの指示で、廃人のようになったカイルが引きずられていく。

扉が閉まると、ドールはすぐにハンコを押し始めた。

「……君、本当に容赦ないな」

アークが苦笑する。

「ビジネスですので」

「五倍の時給か。……払えるわけないのを知っていて提示したね?」

「当然です。あんな泥船(王太子執務室)に、今さら誰が乗りますか」

ドールは鼻で笑った(心の中で)。

「それに……」

ドールは少しだけ筆を止めた。

「私の雇用主は閣下ですので。……掛け持ちは契約違反でしょう?」

それは、ドールなりの不器用な「義理立て」だった。

アークは目を見開き、そして嬉しそうに破顔した。

「……参ったな。ボーナスを出したくなってしまったよ」

「では、現物支給でお願いします」

「ああ、いくらでも」

アークはドールの頭を、くしゃりと撫でた。

ドールはされるがままになりながら、少しだけ、本当に少しだけ、口元が緩んだ気がした。

(……まあ、この職場、悪くないかもしれん)

ブラック企業からの転職は、どうやら成功だったようである。
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