悪役令嬢ドールは婚約破棄も無表情で承る!

ちゅんりー

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早朝。レイブン公爵邸の前には、王族が使うような豪華な馬車が停まっていた。

「おはよう、ドール君。……旅行日和だね」

アークが爽やかな笑顔で手を差し出す。

彼はいつもの堅苦しい執務服ではなく、ラフなシャツにベストという姿だ。

(……無駄に似合っとるな)

ドールは無表情のまま、その手を取らずに一礼した。

「おはようございます、閣下。……本日は『視察業務』ですので、気を引き締めて参りましょう」

ドールの格好は、動きやすいパンツスーツ。

手には旅行鞄ではなく、分厚いバインダー(視察資料)が握られている。

「君、本当に真面目だね。せっかくの旅行なんだから、もっとリラックスしたらどうだい?」

「業務命令に従い、視察後の自由時間までは『秘書官』モードで稼働します。……給料分は働きますので」

ドールはスタスタと馬車に乗り込んだ。

車内は広々としており、クッションの効いたふかふかの対面座席だ。

(おおっ、サスペンション効いてる! これなら揺れても書類が読めるわ!)

ドールは感動(無表情)しつつ、早速資料を広げた。

「では、現地の財政状況の確認から始めます。……昨年度の観光収入が微減しているようですが、原因は?」

「……ドール君」

「はい」

「私は君と、車窓を眺めながら『あのお花綺麗だね』とか『君のほうが綺麗だよ』とか、そういう会話がしたいんだが」

アークが頬杖をついて不満げに言う。

ドールは顔を上げずに即答した。

「そのような会話は、生産性がありません」

「生産性……」

「花は季節が過ぎれば散ります。私の顔も加齢とともに劣化します。ですが、数字は嘘をつきませんし、裏切りません」

「君のその、ロマンの欠片もないところ……嫌いじゃないよ」

アークは苦笑しながら、隣の席へと移動してきた。

「! 閣下、席は対面のはずですが」

「揺れると危ないからね。……支えてあげよう」

アークは自然な動作でドールの肩に腕を回し、引き寄せた。

密着する体温。

上等なコロンの香りが鼻をくすぐる。

(……近いっ!)

(なんなんこの人、パーソナルスペースという概念を知らんのか?)

ドールは身じろぎしたが、アークの腕は鋼鉄のように固く、びくともしない。

「……業務の妨げになります」

「君が資料を読んでいる間、私は君を読むから問題ない」

「意味が分かりません」

「君の横顔、睫毛の長さ、書類をめくる指先の動き。……全てが芸術的だ」

アークはうっとりとドールの耳元で囁いた。

「特に、その『予算案のミスを見つけた時の、0.5ミリ眉をひそめる顔』がたまらない」

(……観察やめてもらってええですか?)

ドールは諦めて、アークをソファ代わりにして仕事を進めることにした。

(まあええわ。この筋肉質な腕、意外とクッション性ええし。……背もたれとしては一級品や)

ドールはアークの胸板に背中を預け、淡々とページをめくった。

アークは満足そうに、ドールの黒髪に指を通していた。

奇妙な利害の一致(?)を見た車内だった。

          *

数時間後。

馬車は目的地の領地、温泉街『ユグドラシル』に到着した。

湯煙が立ち上る風情ある町並み。

出迎えの領官たちが整列している。

「ようこそおいでくださいました、領主様!」

「ご苦労。……状況はどうだ?」

馬車を降りた瞬間、アークは『氷の公爵』の顔に戻っていた。

鋭い視線で町を見回し、的確な指示を飛ばす。

「道路の舗装工事が遅れているようだが?」

「はっ、資材の到着が遅れておりまして……」

「言い訳はいらない。代替ルートの確保と、工期の短縮案を明日までに提出しろ」

「は、はいっ!」

(……さっきまでのデレデレ男と同一人物とは思えんな)

ドールは後ろに控えながら、アークのオン・オフの切り替えに感心していた。

「ドール秘書官」

「はい」

「帳簿の監査を頼む。不正の洗い出しだ」

「承知いたしました」

ドールもまた、戦闘モード(無表情)に入る。

領官たちがビクリとする中、ドールは事務室へと乗り込んだ。

それから二時間。

「……ここ、計算が合いませんね。使途不明金、金貨五〇枚」

「ひぃっ! そ、それは……!」

「こちらの接待費、水増しされていますね。……領収書の筆跡が同じです」

「な、なぜそれを一瞬で……!?」

ドールは『人間スキャナー』と化していた。

長年、実家の領地経営を手伝わされていたドールにとって、この程度の不正を見抜くのは朝飯前だ。

(甘い! 甘すぎる! 隠蔽工作が雑や!)

(カイル殿下の無駄遣いに比べれば、かわいいもんやけどな!)

ドールはバッサバッサと不正を斬り捨て、改善案を作成していく。

夕方になる頃には、領官たちはドールを『女神』ではなく『死神』を見るような目で崇めていた。

「……完了しました、閣下」

ドールが報告書を提出する。

アークは目を通し、ニヤリと笑った。

「完璧だ。……これほどの短時間で片付けるとはね」

「温泉が私を呼んでいましたので」

「ふっ、正直でよろしい。……では、仕事は終わりだ」

アークは立ち上がり、ドールの手を取った。

「行こうか。……予約してある旅館へ」

          *

高級旅館『月の雫』。

離れにある特別室へと案内された。

風流な日本庭園(のような庭)が見える、広々とした和洋折衷の部屋だ。

「素敵なお部屋ですね」

ドールは素直に感心した。

(畳や! 久しぶりに靴を脱げる!)

しかし、次の瞬間、ドールはあることに気づいた。

部屋の中央に置かれているベッド。

それが……キングサイズの一つだけなのだ。

(……ん?)

ドールは部屋中を見回した。

他に寝具はない。ソファはあるが、寝るには少し小さい。

「……あの、閣下」

「なんだい?」

「お部屋の予約、手違いがあったのでは?」

「いや? 『特別室』を一室、予約したはずだが」

アークは涼しい顔で答える。

「ベッドが一つしかありませんが」

「ああ、そういえばそうだね」

アークはわざとらしく驚いてみせた。

「しまったな。一番いい部屋を頼んだら、カップル向けのスイートになってしまったようだ」

(……絶対わざとやろ)

ドールのジト目(無表情)が光る。

「では、私は別の部屋を取ります」

「残念ながら、今日は満室だそうだ。観光シーズンだからね」

「では、私は使用人部屋で……」

「私の『婚約者』を使用人部屋に泊めるわけにはいかないだろう? 外聞が悪い」

アークは逃げ道を一つずつ塞いでくる。

「仕方ない。……ベッドは広いし、二人で寝ようか」

アークが極上の笑顔で提案した。

「何も心配はいらないよ。……ただ『添い寝』するだけさ」

(男の言う『ただの添い寝』ほど信用できない言葉はないわ!)

ドールは警戒レベルを最大に引き上げた。

しかし、ここで動揺しては相手の思う壺だ。

ドールは冷静に切り返した。

「……閣下。就業規則および出張旅費規程を確認させてください」

「うん?」

「規程第○条。『出張時の宿泊は、原則として個室とする』。……また、ハラスメント防止規定により、上司と部下の同衾は禁止事項に抵触する恐れがあります」

ドールはスラスラと(即興で考えた)規程を並べ立てた。

「したがって、同じベッドでの就寝はコンプライアンス違反です」

「……君、本当に夢がないね」

アークが肩をすくめる。

「じゃあ、どうするんだい? 床で寝るのか?」

「いいえ」

ドールは鞄から、分厚い書類の束を取り出した。

「私は今夜、徹夜で『領地改革案・詳細版』を作成します」

「……は?」

「ベッドは閣下が独占してください。私はそこの文机で仕事をしますので」

ドールはニッコリ(無表情で)と宣言した。

「温泉には入らせていただきますが、その後は朝まで仕事です。……これならコンプライアンス的にも、生産性的にも問題ありませんね?」

(どや! これなら手出しできんやろ!)

(徹夜は慣れっこやし、明日の移動中に寝ればええ!)

アークは呆気にとられ、そして……爆笑した。

「はははっ! まさか『徹夜で仕事をする』という対抗策を出してくるとは!」

アークは腹を抱えて笑った後、優しくドールの頭を撫でた。

「……参ったよ。私の負けだ」

「では、別の部屋を?」

「いや、満室なのは本当なんだ。……だから、君はベッドで寝たまえ」

「閣下は?」

「私はソファで寝るよ。……大事な部下に徹夜なんてさせたら、それこそブラック上司になってしまうからね」

アークは苦笑しながら、ソファにクッションを並べ始めた。

その背中は、少しだけ寂しそうだ。

(……うっ)

ドールは少しだけ良心が痛んだ。

せっかくの好意(下心込みだが)を、頑なに拒否しすぎただろうか。

それに、公爵である彼にソファで寝かせるのは、さすがに申し訳ない。

ドールは数秒間の葛藤の末、妥協案を提示した。

「……閣下」

「ん?」

「ベッドはキングサイズです。……中央に『境界線』として枕を置けば、物理的な接触は回避可能かと」

「……お?」

「背中合わせで寝る分には、ただの『同室人』です。……ソファでお体を痛められては、明日の業務に支障が出ますので」

それは、ドールなりの精一杯の譲歩だった。

アークの顔が、パァアアッと輝いた。

「君は……本当に優しいな!」

「勘違いしないでください。業務効率のためです」

「はいはい、分かっているよ」

アークは嬉しそうにドールに近づき、そのおでこにチュッと口づけをした。

「ありがとう。……では、まずは温泉に行っておいで。君の好きな『入り放題』だ」

ドールは額を押さえ、カッと熱くなる顔を隠すように背を向けた。

(……不意打ちは反則や)

(早よ温泉入って、頭冷やそ……)

ドールは逃げるように大浴場へと向かった。

その背中を見送りながら、アークは呟いた。

「……まあ、同じベッドに潜り込めれば、あとはどうとでもなるさ」

策士の夜は、まだ始まったばかりである。
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