悪役令嬢ドールは婚約破棄も無表情で承る!

ちゅんりー

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湯上がり。

ドールは旅館の浴衣(地味な色を選んだ)に身を包み、部屋に戻ってきた。

「……ふぅ」

温泉は最高だった。

肌はスベスベ、血行も促進され、心身ともにリフレッシュ完了である。

(さて、あとは寝るだけや。……あの『猛獣』と同じ檻の中でな)

ドールは部屋の襖を少し開け、中の様子を伺った。

アークは、窓際の広縁で月見酒を楽しんでいた。

浴衣姿だ。

しかも、なぜか胸元が大きく開いている。

風呂上がりの濡れた髪をかき上げ、アンニュイに日本酒を傾ける姿は、完全に『歩くフェロモン発生装置』だった。

(……あざとい。絶対計算してやっとる)

ドールは無表情で観察した。

あのはだけ方は、計算された角度だ。鎖骨の見せ方、喉仏の動き、全てが「俺を見ろ」と言っている。

(だが甘いな。私は色気より食い気、食い気より金気の女や)

ドールはスタスタと部屋に入った。

「お戻りですね、閣下」

「やあ、お帰り。……うん、湯上がり美人だ」

アークが振り向き、目を細める。

「君のその、上気した頬と無防備なうなじ……。酒の肴としては最高だよ」

「肴にしないでください。……寝ますよ」

ドールはさっさとベッドに向かった。

そこには、ドールが宣言通りに築き上げた『国境線』――枕と予備の布団で作ったバリケード――が鎮座している。

「……本当に壁を作ったのかい?」

「当然です。領空侵犯は撃墜しますので」

ドールは壁の向こう側(窓側)に潜り込んだ。

「電気、消しますよ。おやすみなさいませ」

「……つれないなぁ」

アークが苦笑しながら、明かりを落とす。

部屋が闇に包まれると、意識するのは『音』と『気配』だ。

隣からは、アークの寝息……ではなく、寝返りを打つ衣擦れの音が聞こえる。

(……近い)

壁があるとはいえ、同じ布団の上だ。

アークの体温や、かすかに漂う酒と石鹸の香りが、壁を越えて漂ってくる。

(あかん。意識したら負けや。……寝ろ、寝るんやドール!)

ドールは羊を数える代わりに、金貨の枚数を数え始めた。

(金貨が一枚、金貨が二枚……金貨が二万枚……利子がついて二万五千枚……)

その単調かつ幸福なリズムにより、ドールはわずか三分で夢の世界へと旅立った。

「スー……スー……」

規則正しい寝息が聞こえ始める。

それを闇の中で聞いていたのは、アークだった。

「……嘘だろう?」

アークは枕の壁越しに、爆睡しているドールを見つめた。

「この状況で、三分で寝るか? 普通」

アークは溜め息をついた。

彼は寝られない。

好きな女が、すぐ隣で無防備に寝ているのだ。

湯上がりの甘い匂いが鼻をくすぐる。少し手を伸ばせば触れられる距離。

理性と本能が大戦争を起こしている。

「……『領空侵犯は撃墜』か」

アークはドールの寝顔を覗き込んだ。

月の光に照らされたその顔は、起きている時の能面とは違い、幼くて愛らしい。

「……襲わないとは言ったが、キスくらいはいいだろう?」

アークがそっと顔を近づける。

唇が触れそうになった、その時。

「……んぅ……」

ドールが寝言を漏らした。

「……かね……かね……」

「……」

「……せいきゅうしょ……だして……」

アークは動きを止めた。

そして、肩を震わせて笑い出した。

「くくっ……。夢の中でまで請求書を作っているのか」

あまりのブレなさに、情欲が吹き飛び、愛おしさだけが残った。

「……勝てないな、君には」

アークはドールの額に軽くキスをすると、大人しく自分の陣地に戻った。

「おやすみ。……私の守銭奴プリンセス」

その夜、アークはドールの寝言(金額の計算)をBGMに、朝まで悶々と過ごすことになった。

          *

翌朝。

チュンチュン、と小鳥のさえずりが聞こえる爽やかな朝。

ドールはパチリと目を覚ました。

「……よく寝た」

久しぶりの快眠だった。やはり高級ベッドは違う。

ドールは伸びをして、隣を見た。

そこには、死にそうな顔をしたアークがいた。

目の下にクマを作り、肌はやつれ、魂が抜けたように天井を見つめている。

「……閣下? どうされました?」

「……おはよう、ドール君」

アークの声は枯れていた。

「……君の寝相の悪さと、寝言の金額計算のせいで、一睡もできなかったよ」

「私の寝相? 私は直立不動で寝るタイプですが」

「君の足が、壁を突破して私の腹に乗っかってきたんだ。……重かったよ」

「……それは失礼しました。追加料金(マッサージ代)をお支払いします」

ドールは素っ気なく言ったが、内心では少し反省した。

(まさかバリケードを自ら破壊していたとは……)

(それに、顔色が悪い。……これでは今日の視察に響く)

ドールはベッドを出て、身支度を整えると、鞄をごそごそと探った。

取り出したのは、実家から持参した『秘伝の茶葉』だ。

「……閣下。少しお待ちください」

ドールは部屋の茶器を使い、手際よくお茶を淹れた。

色はドス黒い緑色。

匂いは、薬草と土を煮詰めたような独特の香りがする。

「……なんだい、それは? 毒薬かな?」

アークが警戒する。

「失礼な。『ヴァレンタイン家特製・疲労回復茶』です」

ドールは湯呑みを差し出した。

「実家で父様が激務で倒れそうな時に、母様が飲ませていた秘薬です。……味は保証しませんが、効果は絶大です」

「……君が淹れてくれたのか?」

「はい。私の不始末(寝相)で睡眠不足にさせてしまったお詫びです」

アークの表情が、パッと明るくなった。

「君の手作り(淹れただけ)か! それは頂かないと」

アークは嬉々として湯呑みを受け取り、一気に煽った。

ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……。

「……っ!!?」

アークの動きが止まった。

顔色が青から白へ、そして赤へと変化する。

「…………!!」

声にならない悲鳴。

味覚中枢を破壊する苦味と、脳天を突き抜ける酸味。

まさに『飲む暴力』。

「いかがですか?」

ドールが無表情で尋ねる。

アークは震える手で湯呑みを置き、涙目で……しかし、満面の笑みを浮かべた。

「……あ、ああ。最高だ」

「本当ですか?」

「君の愛の味がするよ。……強烈なね」

アークは無理やり親指を立てた。

「目が……覚めたよ。一発で」

「それは何よりです」

ドールは満足げに頷いた。

「まだポットに残っていますので、おかわりもどうぞ」

「……い、いや、一杯で十分だ! 効果てきめんだからね!」

アークは全力で拒否した。

これ以上飲んだら、疲労回復どころか昇天してしまう。

しかし、その効果は本物だったらしく、数分後にはアークの顔色からクマが消え、いつもの精悍な顔つきに戻っていた。

「……すごいな、その茶。カフェインの塊か?」

「企業秘密です。……ただ、材料に『マムシの粉末』が入っているとは聞いていますが」

「……聞かなかったことにするよ」

アークは苦笑しつつ、ドールの頭を撫でた。

「ありがとう。気遣ってくれて」

「……業務効率のためです」

ドールは照れ隠しにそっぽを向いたが、アークにはその耳が赤いのが見えていた。

「さて、元気も出たことだし……朝食の前にもう一仕事(・・・・)しようか」

「仕事? まだ視察の時間ではありませんが」

「いや、私の個人的な仕事だ」

アークはいきなりドールを抱き寄せ、ベッドに押し倒した。

「……っ!? か、閣下!?」

「昨夜は我慢したんだ。……朝の挨拶(キス)くらい、『遅延損害金』として貰ってもいいだろう?」

アークの顔が近づく。

逃げ場はない。

ドールは観念して目を閉じた。

(……まあ、マムシ茶飲ませた責任もあるし、これくらいは経費で落とすか)

重なる唇。

朝の光の中で交わされたキスは、お茶の苦味を消し飛ばすほど甘かった。
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