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結婚式を三日後に控えた夜。
宰相府の執務室は、いつになく張り詰めた空気に包まれていた。
「……アーク様」
ドールが重々しく口を開く。
「なんだい? 愛の告白かな?」
アークはワイングラスを片手に、余裕の笑みを浮かべている。
ドールは無表情のまま、デスクの上に「ドン!」と分厚い書類の束を叩きつけた。
「『婚姻契約書(兼・資産管理およびリスク回避に関する覚書)』です」
「……随分と、色気のないタイトルだね」
「結婚は生活であり、共同経営です。……曖昧な『愛』という言葉で煙に巻くのではなく、互いの権利と義務を明文化しておく必要があります」
ドールはペンを差し出した。
「サインをお願いします。……法務局の公証人も待機させてありますので」
「公証人まで!?」
アークは呆れつつも、書類を手に取った。
「どれどれ……。君が夜なべして作った『愛のルールブック』を拝見しようか」
アークはパラパラとページをめくる。
そして、第一条で吹き出した。
「『第一条。甲(アーク)が乙(ドール)に対し、不貞行為(浮気)を働いた場合』……」
アークは読み上げた。
「『甲は乙に対し、全財産を譲渡し、かつ身一つで国外退去するものとする。なお、退去時の服装はパンツ一枚とする』」
「……ふむ」
アークはドールを見た。
「パンツは許してくれるんだ?」
「慈悲です」
ドールは真顔で答えた。
「本来なら、生まれたままの姿で放り出したいところですが、公然わいせつ罪で私が迷惑を被るのは避けたいので」
「なるほど、合理的だ。……でも、国外退去か。厳しいね」
「当然です。私の『信頼』という資産を毀損した罪は重いですよ」
「分かった。……まあ、浮気など天地がひっくり返ってもあり得ないから、この条項は問題ない」
アークはサラサラと署名しようとして、次のページで手を止めた。
「……『第五条。甲(アーク)の容姿に関する保全義務』?」
「重要項目です」
ドールは身を乗り出した。
「アーク様の『顔面』は、国宝級の価値を持つ我が家の『重要資産』です。……よって、暴飲暴食、睡眠不足、スキンケアの怠慢により、その資産価値(美貌)を低下させることを禁じます」
「私の顔は君の資産なのかい?」
「はい。あなたの顔が良いだけで、外交交渉が円滑に進み、私の目の保養(ストレス軽減)にもなります。……劣化は損失です」
「……君に『顔が好き』と言われると、嬉しいのか悲しいのか複雑だよ」
アークは苦笑したが、ドールは譲らない。
「ニキビ一つにつき、罰金金貨一〇枚です」
「厳しい! チョコも食べられないじゃないか!」
「私が管理します。……次、第一〇条を見てください」
アークはページをめくった。
そこには、意外な項目が記されていた。
『第一〇条。乙(ドール)は甲(アーク)に対し、その身の安全を最優先事項として行動する』
『甲が病気、怪我、または政治的窮地に陥った際、乙は採算を度外視して、全力でこれを救済するものとする』
アークの目が、少し見開かれた。
「……採算を度外視して?」
「はい」
ドールは視線を逸らした。
「あなたが倒れたら、私が困りますので。……どんな高額な薬でも、どんな裏金を使ってでも、あなたを助けます」
「……ドール」
「勘違いしないでください。あくまで『投資の保全』です。……あなたがいないと、私の老後計画が崩れますから」
ドールはツンとした態度(無表情)を崩さない。
しかし、その条文からは、不器用な彼女なりの「覚悟」が滲み出ていた。
アークは優しく微笑んだ。
「……ありがとう。最高の条文だ」
アークはペンを走らせ、全てのページにサインをした。
「これで契約成立だね」
「はい。……あと、最後に『特記事項』がありますが」
ドールは最後のページを開いた。
そこだけ、空白になっている。
「ここには、互いに『一つだけ』、相手への要望を書き込むことができます。……法的拘束力を持つ『絶対命令』です」
「ほう、なんでもいいのかい?」
「はい。ただし、物理的に不可能なこと(空を飛べ等)は除きます」
「分かった」
アークは少し考え、そしてニヤリと笑って書き込んだ。
『甲の要望:乙は、毎日一回、必ず甲に「行ってらっしゃいのキス」をすること。なお、ケンカ中であってもこれを免除しない』
「……なっ!?」
ドールが絶句する。
「恥ずかしいですか?」
「恥ずかしい以前に、非効率です! 朝は一分一秒を争う戦場ですよ!?」
「たった三秒だよ。……これが私の『やる気スイッチ』だ。生産性が上がるよ?」
「……くっ」
ドールは反論できない。確かに、アークの機嫌が良いと仕事が早いのは事実だ。
「……分かりました。飲みましょう」
「よし。……で、君の要望は?」
ドールはペンを握りしめた。
書きたいことは山ほどある。「無駄遣いをするな」「急に抱きつくな」「人前でイチャつくな」。
しかし、ペン先が紙に触れた瞬間、書いたのは別の言葉だった。
『乙の要望:甲は、乙よりも一日でも長く生きること』
「……え?」
アークが文字を覗き込む。
ドールは耳まで真っ赤にして、顔を背けた。
「……資産管理人の私が先に死んだら、あなたは一日で破産しそうですから」
「……それだけ?」
「それだけです。……あなたが長生きしてくれれば、私は一生、贅沢に暮らせますので」
それは、嘘だった。
本音は、『あなたがいなくなった世界で、生きていく自信がないから』だ。
数字と合理性で武装したドールにとって、アークという存在は、いつの間にか『計算外のバグ』ではなく、『システムの根幹(OS)』になってしまっていたのだ。
アークはしばらく沈黙し、そして立ち上がった。
机を回り込み、ドールを強く抱きしめる。
「……契約違反だぞ、ドール」
「な、何がですか?」
「こんな可愛い要望を書かれたら……愛さずにはいられないだろう」
アークの声が震えている。
「約束する。……私は絶対に君より先には死なない。君がお婆ちゃんになって、ボケて私の顔を忘れても、隣で君の資産(へそくり)を守り続けてやる」
「……ボケませんよ。私の脳トレは完璧です」
ドールはアークの背中に腕を回した。
「……契約、成立ですね」
「ああ。永久契約だ」
二人は誓いのキスを交わした。
明日はいよいよ結婚式。
どんなトラブルが起きようとも、この『契約書』がある限り、二人の絆(と資産)は揺るがない。
……はずだった。
「おっと、ドール君。一つ言い忘れていた」
「なんです?」
「明日の式に、招かれざる客が来るかもしれない」
「……は?」
「カイルの更生施設から、『脱走者』が出たらしい」
「…………」
ドールの脳内電卓が、高速で『迎撃費用』と『セキュリティ強化費』を弾き出し始めた。
「……追加予算、承認します」
「頼もしいね、マイ・ワイフ」
最後の波乱の予感を孕みつつ、運命の夜は更けていった。
宰相府の執務室は、いつになく張り詰めた空気に包まれていた。
「……アーク様」
ドールが重々しく口を開く。
「なんだい? 愛の告白かな?」
アークはワイングラスを片手に、余裕の笑みを浮かべている。
ドールは無表情のまま、デスクの上に「ドン!」と分厚い書類の束を叩きつけた。
「『婚姻契約書(兼・資産管理およびリスク回避に関する覚書)』です」
「……随分と、色気のないタイトルだね」
「結婚は生活であり、共同経営です。……曖昧な『愛』という言葉で煙に巻くのではなく、互いの権利と義務を明文化しておく必要があります」
ドールはペンを差し出した。
「サインをお願いします。……法務局の公証人も待機させてありますので」
「公証人まで!?」
アークは呆れつつも、書類を手に取った。
「どれどれ……。君が夜なべして作った『愛のルールブック』を拝見しようか」
アークはパラパラとページをめくる。
そして、第一条で吹き出した。
「『第一条。甲(アーク)が乙(ドール)に対し、不貞行為(浮気)を働いた場合』……」
アークは読み上げた。
「『甲は乙に対し、全財産を譲渡し、かつ身一つで国外退去するものとする。なお、退去時の服装はパンツ一枚とする』」
「……ふむ」
アークはドールを見た。
「パンツは許してくれるんだ?」
「慈悲です」
ドールは真顔で答えた。
「本来なら、生まれたままの姿で放り出したいところですが、公然わいせつ罪で私が迷惑を被るのは避けたいので」
「なるほど、合理的だ。……でも、国外退去か。厳しいね」
「当然です。私の『信頼』という資産を毀損した罪は重いですよ」
「分かった。……まあ、浮気など天地がひっくり返ってもあり得ないから、この条項は問題ない」
アークはサラサラと署名しようとして、次のページで手を止めた。
「……『第五条。甲(アーク)の容姿に関する保全義務』?」
「重要項目です」
ドールは身を乗り出した。
「アーク様の『顔面』は、国宝級の価値を持つ我が家の『重要資産』です。……よって、暴飲暴食、睡眠不足、スキンケアの怠慢により、その資産価値(美貌)を低下させることを禁じます」
「私の顔は君の資産なのかい?」
「はい。あなたの顔が良いだけで、外交交渉が円滑に進み、私の目の保養(ストレス軽減)にもなります。……劣化は損失です」
「……君に『顔が好き』と言われると、嬉しいのか悲しいのか複雑だよ」
アークは苦笑したが、ドールは譲らない。
「ニキビ一つにつき、罰金金貨一〇枚です」
「厳しい! チョコも食べられないじゃないか!」
「私が管理します。……次、第一〇条を見てください」
アークはページをめくった。
そこには、意外な項目が記されていた。
『第一〇条。乙(ドール)は甲(アーク)に対し、その身の安全を最優先事項として行動する』
『甲が病気、怪我、または政治的窮地に陥った際、乙は採算を度外視して、全力でこれを救済するものとする』
アークの目が、少し見開かれた。
「……採算を度外視して?」
「はい」
ドールは視線を逸らした。
「あなたが倒れたら、私が困りますので。……どんな高額な薬でも、どんな裏金を使ってでも、あなたを助けます」
「……ドール」
「勘違いしないでください。あくまで『投資の保全』です。……あなたがいないと、私の老後計画が崩れますから」
ドールはツンとした態度(無表情)を崩さない。
しかし、その条文からは、不器用な彼女なりの「覚悟」が滲み出ていた。
アークは優しく微笑んだ。
「……ありがとう。最高の条文だ」
アークはペンを走らせ、全てのページにサインをした。
「これで契約成立だね」
「はい。……あと、最後に『特記事項』がありますが」
ドールは最後のページを開いた。
そこだけ、空白になっている。
「ここには、互いに『一つだけ』、相手への要望を書き込むことができます。……法的拘束力を持つ『絶対命令』です」
「ほう、なんでもいいのかい?」
「はい。ただし、物理的に不可能なこと(空を飛べ等)は除きます」
「分かった」
アークは少し考え、そしてニヤリと笑って書き込んだ。
『甲の要望:乙は、毎日一回、必ず甲に「行ってらっしゃいのキス」をすること。なお、ケンカ中であってもこれを免除しない』
「……なっ!?」
ドールが絶句する。
「恥ずかしいですか?」
「恥ずかしい以前に、非効率です! 朝は一分一秒を争う戦場ですよ!?」
「たった三秒だよ。……これが私の『やる気スイッチ』だ。生産性が上がるよ?」
「……くっ」
ドールは反論できない。確かに、アークの機嫌が良いと仕事が早いのは事実だ。
「……分かりました。飲みましょう」
「よし。……で、君の要望は?」
ドールはペンを握りしめた。
書きたいことは山ほどある。「無駄遣いをするな」「急に抱きつくな」「人前でイチャつくな」。
しかし、ペン先が紙に触れた瞬間、書いたのは別の言葉だった。
『乙の要望:甲は、乙よりも一日でも長く生きること』
「……え?」
アークが文字を覗き込む。
ドールは耳まで真っ赤にして、顔を背けた。
「……資産管理人の私が先に死んだら、あなたは一日で破産しそうですから」
「……それだけ?」
「それだけです。……あなたが長生きしてくれれば、私は一生、贅沢に暮らせますので」
それは、嘘だった。
本音は、『あなたがいなくなった世界で、生きていく自信がないから』だ。
数字と合理性で武装したドールにとって、アークという存在は、いつの間にか『計算外のバグ』ではなく、『システムの根幹(OS)』になってしまっていたのだ。
アークはしばらく沈黙し、そして立ち上がった。
机を回り込み、ドールを強く抱きしめる。
「……契約違反だぞ、ドール」
「な、何がですか?」
「こんな可愛い要望を書かれたら……愛さずにはいられないだろう」
アークの声が震えている。
「約束する。……私は絶対に君より先には死なない。君がお婆ちゃんになって、ボケて私の顔を忘れても、隣で君の資産(へそくり)を守り続けてやる」
「……ボケませんよ。私の脳トレは完璧です」
ドールはアークの背中に腕を回した。
「……契約、成立ですね」
「ああ。永久契約だ」
二人は誓いのキスを交わした。
明日はいよいよ結婚式。
どんなトラブルが起きようとも、この『契約書』がある限り、二人の絆(と資産)は揺るがない。
……はずだった。
「おっと、ドール君。一つ言い忘れていた」
「なんです?」
「明日の式に、招かれざる客が来るかもしれない」
「……は?」
「カイルの更生施設から、『脱走者』が出たらしい」
「…………」
ドールの脳内電卓が、高速で『迎撃費用』と『セキュリティ強化費』を弾き出し始めた。
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