悪役令嬢ドールは婚約破棄も無表情で承る!

ちゅんりー

文字の大きさ
20 / 24

20

しおりを挟む
結婚式を三日後に控えた夜。

宰相府の執務室は、いつになく張り詰めた空気に包まれていた。

「……アーク様」

ドールが重々しく口を開く。

「なんだい? 愛の告白かな?」

アークはワイングラスを片手に、余裕の笑みを浮かべている。

ドールは無表情のまま、デスクの上に「ドン!」と分厚い書類の束を叩きつけた。

「『婚姻契約書(兼・資産管理およびリスク回避に関する覚書)』です」

「……随分と、色気のないタイトルだね」

「結婚は生活であり、共同経営です。……曖昧な『愛』という言葉で煙に巻くのではなく、互いの権利と義務を明文化しておく必要があります」

ドールはペンを差し出した。

「サインをお願いします。……法務局の公証人も待機させてありますので」

「公証人まで!?」

アークは呆れつつも、書類を手に取った。

「どれどれ……。君が夜なべして作った『愛のルールブック』を拝見しようか」

アークはパラパラとページをめくる。

そして、第一条で吹き出した。

「『第一条。甲(アーク)が乙(ドール)に対し、不貞行為(浮気)を働いた場合』……」

アークは読み上げた。

「『甲は乙に対し、全財産を譲渡し、かつ身一つで国外退去するものとする。なお、退去時の服装はパンツ一枚とする』」

「……ふむ」

アークはドールを見た。

「パンツは許してくれるんだ?」

「慈悲です」

ドールは真顔で答えた。

「本来なら、生まれたままの姿で放り出したいところですが、公然わいせつ罪で私が迷惑を被るのは避けたいので」

「なるほど、合理的だ。……でも、国外退去か。厳しいね」

「当然です。私の『信頼』という資産を毀損した罪は重いですよ」

「分かった。……まあ、浮気など天地がひっくり返ってもあり得ないから、この条項は問題ない」

アークはサラサラと署名しようとして、次のページで手を止めた。

「……『第五条。甲(アーク)の容姿に関する保全義務』?」

「重要項目です」

ドールは身を乗り出した。

「アーク様の『顔面』は、国宝級の価値を持つ我が家の『重要資産』です。……よって、暴飲暴食、睡眠不足、スキンケアの怠慢により、その資産価値(美貌)を低下させることを禁じます」

「私の顔は君の資産なのかい?」

「はい。あなたの顔が良いだけで、外交交渉が円滑に進み、私の目の保養(ストレス軽減)にもなります。……劣化は損失です」

「……君に『顔が好き』と言われると、嬉しいのか悲しいのか複雑だよ」

アークは苦笑したが、ドールは譲らない。

「ニキビ一つにつき、罰金金貨一〇枚です」

「厳しい! チョコも食べられないじゃないか!」

「私が管理します。……次、第一〇条を見てください」

アークはページをめくった。

そこには、意外な項目が記されていた。

『第一〇条。乙(ドール)は甲(アーク)に対し、その身の安全を最優先事項として行動する』

『甲が病気、怪我、または政治的窮地に陥った際、乙は採算を度外視して、全力でこれを救済するものとする』

アークの目が、少し見開かれた。

「……採算を度外視して?」

「はい」

ドールは視線を逸らした。

「あなたが倒れたら、私が困りますので。……どんな高額な薬でも、どんな裏金を使ってでも、あなたを助けます」

「……ドール」

「勘違いしないでください。あくまで『投資の保全』です。……あなたがいないと、私の老後計画が崩れますから」

ドールはツンとした態度(無表情)を崩さない。

しかし、その条文からは、不器用な彼女なりの「覚悟」が滲み出ていた。

アークは優しく微笑んだ。

「……ありがとう。最高の条文だ」

アークはペンを走らせ、全てのページにサインをした。

「これで契約成立だね」

「はい。……あと、最後に『特記事項』がありますが」

ドールは最後のページを開いた。

そこだけ、空白になっている。

「ここには、互いに『一つだけ』、相手への要望を書き込むことができます。……法的拘束力を持つ『絶対命令』です」

「ほう、なんでもいいのかい?」

「はい。ただし、物理的に不可能なこと(空を飛べ等)は除きます」

「分かった」

アークは少し考え、そしてニヤリと笑って書き込んだ。

『甲の要望:乙は、毎日一回、必ず甲に「行ってらっしゃいのキス」をすること。なお、ケンカ中であってもこれを免除しない』

「……なっ!?」

ドールが絶句する。

「恥ずかしいですか?」

「恥ずかしい以前に、非効率です! 朝は一分一秒を争う戦場ですよ!?」

「たった三秒だよ。……これが私の『やる気スイッチ』だ。生産性が上がるよ?」

「……くっ」

ドールは反論できない。確かに、アークの機嫌が良いと仕事が早いのは事実だ。

「……分かりました。飲みましょう」

「よし。……で、君の要望は?」

ドールはペンを握りしめた。

書きたいことは山ほどある。「無駄遣いをするな」「急に抱きつくな」「人前でイチャつくな」。

しかし、ペン先が紙に触れた瞬間、書いたのは別の言葉だった。

『乙の要望:甲は、乙よりも一日でも長く生きること』

「……え?」

アークが文字を覗き込む。

ドールは耳まで真っ赤にして、顔を背けた。

「……資産管理人の私が先に死んだら、あなたは一日で破産しそうですから」

「……それだけ?」

「それだけです。……あなたが長生きしてくれれば、私は一生、贅沢に暮らせますので」

それは、嘘だった。

本音は、『あなたがいなくなった世界で、生きていく自信がないから』だ。

数字と合理性で武装したドールにとって、アークという存在は、いつの間にか『計算外のバグ』ではなく、『システムの根幹(OS)』になってしまっていたのだ。

アークはしばらく沈黙し、そして立ち上がった。

机を回り込み、ドールを強く抱きしめる。

「……契約違反だぞ、ドール」

「な、何がですか?」

「こんな可愛い要望を書かれたら……愛さずにはいられないだろう」

アークの声が震えている。

「約束する。……私は絶対に君より先には死なない。君がお婆ちゃんになって、ボケて私の顔を忘れても、隣で君の資産(へそくり)を守り続けてやる」

「……ボケませんよ。私の脳トレは完璧です」

ドールはアークの背中に腕を回した。

「……契約、成立ですね」

「ああ。永久契約だ」

二人は誓いのキスを交わした。

明日はいよいよ結婚式。

どんなトラブルが起きようとも、この『契約書』がある限り、二人の絆(と資産)は揺るがない。

……はずだった。

「おっと、ドール君。一つ言い忘れていた」

「なんです?」

「明日の式に、招かれざる客が来るかもしれない」

「……は?」

「カイルの更生施設から、『脱走者』が出たらしい」

「…………」

ドールの脳内電卓が、高速で『迎撃費用』と『セキュリティ強化費』を弾き出し始めた。

「……追加予算、承認します」

「頼もしいね、マイ・ワイフ」

最後の波乱の予感を孕みつつ、運命の夜は更けていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ

恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。 王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。 長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。 婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。 ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。 濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。 ※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています

次代の希望 愛されなかった王太子妃の愛

Rj
恋愛
王子様と出会い結婚したグレイス侯爵令嬢はおとぎ話のように「幸せにくらしましたとさ」という結末を迎えられなかった。愛し合っていると思っていたアーサー王太子から結婚式の二日前に愛していないといわれ、表向きは仲睦まじい王太子夫妻だったがアーサーにはグレイス以外に愛する人がいた。次代の希望とよばれた王太子妃の物語。 全十二話。(全十一話で投稿したものに一話加えました。2/6変更)

悪役令嬢の末路

ラプラス
恋愛
政略結婚ではあったけれど、夫を愛していたのは本当。でも、もう疲れてしまった。 だから…いいわよね、あなた?

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

過去に戻った筈の王

基本二度寝
恋愛
王太子は後悔した。 婚約者に婚約破棄を突きつけ、子爵令嬢と結ばれた。 しかし、甘い恋人の時間は終わる。 子爵令嬢は妃という重圧に耐えられなかった。 彼女だったなら、こうはならなかった。 婚約者と結婚し、子爵令嬢を側妃にしていれば。 後悔の日々だった。

悪役令嬢の涙

拓海のり
恋愛
公爵令嬢グレイスは婚約者である王太子エドマンドに卒業パーティで婚約破棄される。王子の側には、癒しの魔法を使え聖女ではないかと噂される子爵家に引き取られたメアリ―がいた。13000字の短編です。他サイトにも投稿します。

【完結】好きでもない私とは婚約解消してください

里音
恋愛
騎士団にいる彼はとても一途で誠実な人物だ。初恋で恋人だった幼なじみが家のために他家へ嫁いで行ってもまだ彼女を思い新たな恋人を作ることをしないと有名だ。私も憧れていた1人だった。 そんな彼との婚約が成立した。それは彼の行動で私が傷を負ったからだ。傷は残らないのに責任感からの婚約ではあるが、彼はプロポーズをしてくれた。その瞬間憧れが好きになっていた。 婚約して6ヶ月、接点のほとんどない2人だが少しずつ距離も縮まり幸せな日々を送っていた。と思っていたのに、彼の元恋人が離婚をして帰ってくる話を聞いて彼が私との婚約を「最悪だ」と後悔しているのを聞いてしまった。

裏切りの先にあるもの

マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。 結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。

処理中です...