悪役令嬢ドールは婚約破棄も無表情で承る!

ちゅんりー

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宰相府、公爵執務室。

そこには、異様な光景が広がっていた。

「ドール! 走るな! 歩くな! いや、息をするのも慎重に!」

「……閣下。息をしないと酸素欠乏で胎児に悪影響です」

臨月を迎えたドールは、大きなお腹を抱えながら、いつものように書類整理をしていた。

対するアークは、オロオロと周囲を旋回している。

「頼むから休んでくれ! 仕事なんて私がやるから!」

「閣下に任せると計算ミスが増えます。修正コストが無駄です」

ドールは無表情でバッサリ。

「それに、適度な運動は安産に繋がります。……書類運びは良いスクワット代わりになりますので」

「スクワット!? 妊婦が!?」

アークが白目を剥く。

妊娠が発覚して以来、アークの過保護スキルはカンストしていた。

廊下には全面カーペット(転倒防止)を敷き詰め、執務室の角という角にクッション材(衝突防止)を貼り付け、ドールの食事は王室専属の栄養士に管理させる徹底ぶりだ。

おかげで宰相府は『巨大なベビーサークル』と化していた。

「……はぁ。閣下、落ち着いてください」

ドールは呆れつつ、お腹をさすった。

「予定日はまだ一週間先です。……今のうちに決算を終わらせないと、産休中に気になって安眠できません」

「決算なんてどうでもいい! 君と子供の命より大事なものなんてないんだ!」

「あります。……養育費です」

ドールはキッパリと言った。

「子供一人を成人まで育てるのに掛かる費用、ざっと金貨三〇〇〇枚。……さらに大学進学、留学、結婚資金を含めれば倍です」

ドールは電卓を叩いた。

「今ここで私が稼ぐ金貨一枚が、将来のこの子の教科書代になるのです。……邪魔しないでください」

「ううっ……。君の母性愛は、なぜこうも現金なんだ……」

アークが項垂れた、その時だった。

ズキッ。

ドールの動きが止まった。

「……ん」

「ドール? どうした?」

「……来ましたね」

「え? 何が? 請求書?」

「陣痛です」

「じっ……!?」

アークが飛び上がった。

「じ、陣痛!? 今!? ここで!?」

「はい。……間隔は約一〇分。規則的です」

ドールは冷静に懐中時計を確認した。

「慌てる必要はありません。初産ですので、生まれるまであと一〇時間は掛かる計算です。……とりあえず、この書類のサインだけ終わらせますね」

「サインしてる場合かぁぁぁ!!」

アークはパニックになった。

「い、医者だ! 産婆だ! いや、神官長を呼べ! 近衛兵、担架を持ってこい! 馬車は!? クッション五〇個詰め込め!」

「うるさいです」

ドールはアークの口に書き損じの書類を突っ込んだ。

「騒ぐとアドレナリンが出て産道が収縮します。……静かにエスコートしてください」

「むぐっ!?」

ドールは立ち上がり、悠然と(しかし冷や汗をかきながら)歩き出した。

「さあ、行きますよ。……人生最大の『大仕事』です」

          *

公爵邸の寝室。

そこは戦場だった。

「ひぃぃっ! ドール! 死ぬな! 頑張れ!」

アークがベッドの脇でドールの手を握りしめ、ボロボロ泣いている。

「……閣下。泣く暇があったら水をください」

ドールはベッドの上で、痛みに耐えながら指示を出した。

「汗を拭いて。……そこじゃない、首筋。……もっと優しく」

「は、はいっ! 仰せのままに!」

国の宰相が、ただの下働きと化している。

陣痛は激しさを増していた。

(……くっ、痛いな)

ドールは無表情を保とうとしていたが、さすがに眉間に皺が寄る。

(この痛み……例えるなら、予算委員会で全案件を否決された時の胃痛の百倍か……?)

(いや、物理的ダメージやから、タンスの角に小指をぶつけた痛みの持続型か……)

痛みを分析することで気を紛らわせるドール。

「奥様! もうすぐですよ! 頭が見えてます!」

産婆の声が響く。

「ドール! ドールぅぅぅ!」

アークが叫ぶ。

「うるさい! ……黙って手を握っててください!」

ドールがついにキレた(無表情で)。

「効率的に産みます! ……呼吸法、ラマーズ法、いきみ逃がし……すべて予習済みです!」

ドールは深呼吸をした。

(よし、次の波で決める!)

(長引けば体力の消耗、産後の復帰遅れに繋がる。……短期決戦や!)

「……ふんっ!!」

ドールが渾身の力を込める。

アークの手の骨が砕けるのではないかという強さで握りしめる。

「おぎゃあぁぁぁぁぁ!!」

元気な産声が、部屋中に響き渡った。

「う、生まれた……!」

アークが腰を抜かしてへたり込む。

「元気な男の子ですよ!」

産婆が赤子を抱き上げ、湯を使わせる。

ドールは荒い息を整えながら、その小さな塊を見た。

「……見せてください」

産婆が赤子をドールの胸に抱かせる。

まだ猿のようにしわくちゃで、真っ赤な顔。

しかし、その指は五本ずつあり、力強く空を掴んでいる。

「……指の本数、異常なし。呼吸音、正常。皮膚の色、良好」

ドールは素早く検品(チェック)を行った。

「……五体満足です。完璧な仕上がり(プロダクト)ですね」

「君ねぇ……」

アークが涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で覗き込む。

「可愛い……。なんて可愛いんだ……。私と君の子供だ……」

アークが恐る恐る赤子の頬に触れる。

すると、赤子がピタリと泣き止んだ。

そして、ゆっくりと目を開けた。

その瞳は、アーク譲りの美しい氷青色。

だが、その表情は……。

「……ん?」

アークとドールが顔を見合わせる。

赤子は泣きもせず、笑いもせず、ただジッと虚空を見つめていた。

スンッ……とした真顔である。

「……ドール似だ」

アークが呟いた。

「間違いありません。……この『無』の表情、将来有望なポーカーフェイスです」

ドールは確信した。

この子は伸びる。

感情に流されず、冷静に物事を見極める大物になる。

「名前はどうしようか?」

アークが尋ねる。

ドールは少し考え、そして答えた。

「……『レオン』で」

「レオン? 獅子か。強そうでいいね」

「はい。……あと、金貨の単位(レオン金貨)と同じ響きですので、お金に困らないように」

「結局そこ!?」

アークは苦笑したが、すぐにレオンを抱き上げた。

「ようこそ、レオン。……パパだよ。この国の宰相で、ママの財布係だ」

レオンはアークの顔をジッと見て、そして……。

ふいっ、と顔を背けた。

「……えっ? 無視?」

「……さすが私の子です。無駄な愛想は振りまかない主義のようですね」

ドールは満足げに頷いた。

「閣下。……これから忙しくなりますよ」

「ああ、そうだね。育児に、仕事に……」

「いいえ」

ドールは枕の下から、一枚の紙を取り出した。

「『出生届』と『児童手当申請書』、そして『学資保険の加入手続き』です。……期限がありますので、明日中に提出してください」

「産んだ直後に!?」

「時間は金です。……さあ、レオンのためにも、稼ぎますよ!」

ドールはニヤリと笑った。

アークは天を仰ぎ、そして最高に幸せそうに笑った。

「……イエス、マイ・ボス。一生ついていくよ」

こうして、レイブン公爵家に新たな「無表情な天使」が加わった。

親子三人の、賑やかで現金な毎日は、まだまだ続いていくのである。
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