23 / 24
23
しおりを挟む
宰相府、公爵執務室。
そこには、異様な光景が広がっていた。
「ドール! 走るな! 歩くな! いや、息をするのも慎重に!」
「……閣下。息をしないと酸素欠乏で胎児に悪影響です」
臨月を迎えたドールは、大きなお腹を抱えながら、いつものように書類整理をしていた。
対するアークは、オロオロと周囲を旋回している。
「頼むから休んでくれ! 仕事なんて私がやるから!」
「閣下に任せると計算ミスが増えます。修正コストが無駄です」
ドールは無表情でバッサリ。
「それに、適度な運動は安産に繋がります。……書類運びは良いスクワット代わりになりますので」
「スクワット!? 妊婦が!?」
アークが白目を剥く。
妊娠が発覚して以来、アークの過保護スキルはカンストしていた。
廊下には全面カーペット(転倒防止)を敷き詰め、執務室の角という角にクッション材(衝突防止)を貼り付け、ドールの食事は王室専属の栄養士に管理させる徹底ぶりだ。
おかげで宰相府は『巨大なベビーサークル』と化していた。
「……はぁ。閣下、落ち着いてください」
ドールは呆れつつ、お腹をさすった。
「予定日はまだ一週間先です。……今のうちに決算を終わらせないと、産休中に気になって安眠できません」
「決算なんてどうでもいい! 君と子供の命より大事なものなんてないんだ!」
「あります。……養育費です」
ドールはキッパリと言った。
「子供一人を成人まで育てるのに掛かる費用、ざっと金貨三〇〇〇枚。……さらに大学進学、留学、結婚資金を含めれば倍です」
ドールは電卓を叩いた。
「今ここで私が稼ぐ金貨一枚が、将来のこの子の教科書代になるのです。……邪魔しないでください」
「ううっ……。君の母性愛は、なぜこうも現金なんだ……」
アークが項垂れた、その時だった。
ズキッ。
ドールの動きが止まった。
「……ん」
「ドール? どうした?」
「……来ましたね」
「え? 何が? 請求書?」
「陣痛です」
「じっ……!?」
アークが飛び上がった。
「じ、陣痛!? 今!? ここで!?」
「はい。……間隔は約一〇分。規則的です」
ドールは冷静に懐中時計を確認した。
「慌てる必要はありません。初産ですので、生まれるまであと一〇時間は掛かる計算です。……とりあえず、この書類のサインだけ終わらせますね」
「サインしてる場合かぁぁぁ!!」
アークはパニックになった。
「い、医者だ! 産婆だ! いや、神官長を呼べ! 近衛兵、担架を持ってこい! 馬車は!? クッション五〇個詰め込め!」
「うるさいです」
ドールはアークの口に書き損じの書類を突っ込んだ。
「騒ぐとアドレナリンが出て産道が収縮します。……静かにエスコートしてください」
「むぐっ!?」
ドールは立ち上がり、悠然と(しかし冷や汗をかきながら)歩き出した。
「さあ、行きますよ。……人生最大の『大仕事』です」
*
公爵邸の寝室。
そこは戦場だった。
「ひぃぃっ! ドール! 死ぬな! 頑張れ!」
アークがベッドの脇でドールの手を握りしめ、ボロボロ泣いている。
「……閣下。泣く暇があったら水をください」
ドールはベッドの上で、痛みに耐えながら指示を出した。
「汗を拭いて。……そこじゃない、首筋。……もっと優しく」
「は、はいっ! 仰せのままに!」
国の宰相が、ただの下働きと化している。
陣痛は激しさを増していた。
(……くっ、痛いな)
ドールは無表情を保とうとしていたが、さすがに眉間に皺が寄る。
(この痛み……例えるなら、予算委員会で全案件を否決された時の胃痛の百倍か……?)
(いや、物理的ダメージやから、タンスの角に小指をぶつけた痛みの持続型か……)
痛みを分析することで気を紛らわせるドール。
「奥様! もうすぐですよ! 頭が見えてます!」
産婆の声が響く。
「ドール! ドールぅぅぅ!」
アークが叫ぶ。
「うるさい! ……黙って手を握っててください!」
ドールがついにキレた(無表情で)。
「効率的に産みます! ……呼吸法、ラマーズ法、いきみ逃がし……すべて予習済みです!」
ドールは深呼吸をした。
(よし、次の波で決める!)
(長引けば体力の消耗、産後の復帰遅れに繋がる。……短期決戦や!)
「……ふんっ!!」
ドールが渾身の力を込める。
アークの手の骨が砕けるのではないかという強さで握りしめる。
「おぎゃあぁぁぁぁぁ!!」
元気な産声が、部屋中に響き渡った。
「う、生まれた……!」
アークが腰を抜かしてへたり込む。
「元気な男の子ですよ!」
産婆が赤子を抱き上げ、湯を使わせる。
ドールは荒い息を整えながら、その小さな塊を見た。
「……見せてください」
産婆が赤子をドールの胸に抱かせる。
まだ猿のようにしわくちゃで、真っ赤な顔。
しかし、その指は五本ずつあり、力強く空を掴んでいる。
「……指の本数、異常なし。呼吸音、正常。皮膚の色、良好」
ドールは素早く検品(チェック)を行った。
「……五体満足です。完璧な仕上がり(プロダクト)ですね」
「君ねぇ……」
アークが涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で覗き込む。
「可愛い……。なんて可愛いんだ……。私と君の子供だ……」
アークが恐る恐る赤子の頬に触れる。
すると、赤子がピタリと泣き止んだ。
そして、ゆっくりと目を開けた。
その瞳は、アーク譲りの美しい氷青色。
だが、その表情は……。
「……ん?」
アークとドールが顔を見合わせる。
赤子は泣きもせず、笑いもせず、ただジッと虚空を見つめていた。
スンッ……とした真顔である。
「……ドール似だ」
アークが呟いた。
「間違いありません。……この『無』の表情、将来有望なポーカーフェイスです」
ドールは確信した。
この子は伸びる。
感情に流されず、冷静に物事を見極める大物になる。
「名前はどうしようか?」
アークが尋ねる。
ドールは少し考え、そして答えた。
「……『レオン』で」
「レオン? 獅子か。強そうでいいね」
「はい。……あと、金貨の単位(レオン金貨)と同じ響きですので、お金に困らないように」
「結局そこ!?」
アークは苦笑したが、すぐにレオンを抱き上げた。
「ようこそ、レオン。……パパだよ。この国の宰相で、ママの財布係だ」
レオンはアークの顔をジッと見て、そして……。
ふいっ、と顔を背けた。
「……えっ? 無視?」
「……さすが私の子です。無駄な愛想は振りまかない主義のようですね」
ドールは満足げに頷いた。
「閣下。……これから忙しくなりますよ」
「ああ、そうだね。育児に、仕事に……」
「いいえ」
ドールは枕の下から、一枚の紙を取り出した。
「『出生届』と『児童手当申請書』、そして『学資保険の加入手続き』です。……期限がありますので、明日中に提出してください」
「産んだ直後に!?」
「時間は金です。……さあ、レオンのためにも、稼ぎますよ!」
ドールはニヤリと笑った。
アークは天を仰ぎ、そして最高に幸せそうに笑った。
「……イエス、マイ・ボス。一生ついていくよ」
こうして、レイブン公爵家に新たな「無表情な天使」が加わった。
親子三人の、賑やかで現金な毎日は、まだまだ続いていくのである。
そこには、異様な光景が広がっていた。
「ドール! 走るな! 歩くな! いや、息をするのも慎重に!」
「……閣下。息をしないと酸素欠乏で胎児に悪影響です」
臨月を迎えたドールは、大きなお腹を抱えながら、いつものように書類整理をしていた。
対するアークは、オロオロと周囲を旋回している。
「頼むから休んでくれ! 仕事なんて私がやるから!」
「閣下に任せると計算ミスが増えます。修正コストが無駄です」
ドールは無表情でバッサリ。
「それに、適度な運動は安産に繋がります。……書類運びは良いスクワット代わりになりますので」
「スクワット!? 妊婦が!?」
アークが白目を剥く。
妊娠が発覚して以来、アークの過保護スキルはカンストしていた。
廊下には全面カーペット(転倒防止)を敷き詰め、執務室の角という角にクッション材(衝突防止)を貼り付け、ドールの食事は王室専属の栄養士に管理させる徹底ぶりだ。
おかげで宰相府は『巨大なベビーサークル』と化していた。
「……はぁ。閣下、落ち着いてください」
ドールは呆れつつ、お腹をさすった。
「予定日はまだ一週間先です。……今のうちに決算を終わらせないと、産休中に気になって安眠できません」
「決算なんてどうでもいい! 君と子供の命より大事なものなんてないんだ!」
「あります。……養育費です」
ドールはキッパリと言った。
「子供一人を成人まで育てるのに掛かる費用、ざっと金貨三〇〇〇枚。……さらに大学進学、留学、結婚資金を含めれば倍です」
ドールは電卓を叩いた。
「今ここで私が稼ぐ金貨一枚が、将来のこの子の教科書代になるのです。……邪魔しないでください」
「ううっ……。君の母性愛は、なぜこうも現金なんだ……」
アークが項垂れた、その時だった。
ズキッ。
ドールの動きが止まった。
「……ん」
「ドール? どうした?」
「……来ましたね」
「え? 何が? 請求書?」
「陣痛です」
「じっ……!?」
アークが飛び上がった。
「じ、陣痛!? 今!? ここで!?」
「はい。……間隔は約一〇分。規則的です」
ドールは冷静に懐中時計を確認した。
「慌てる必要はありません。初産ですので、生まれるまであと一〇時間は掛かる計算です。……とりあえず、この書類のサインだけ終わらせますね」
「サインしてる場合かぁぁぁ!!」
アークはパニックになった。
「い、医者だ! 産婆だ! いや、神官長を呼べ! 近衛兵、担架を持ってこい! 馬車は!? クッション五〇個詰め込め!」
「うるさいです」
ドールはアークの口に書き損じの書類を突っ込んだ。
「騒ぐとアドレナリンが出て産道が収縮します。……静かにエスコートしてください」
「むぐっ!?」
ドールは立ち上がり、悠然と(しかし冷や汗をかきながら)歩き出した。
「さあ、行きますよ。……人生最大の『大仕事』です」
*
公爵邸の寝室。
そこは戦場だった。
「ひぃぃっ! ドール! 死ぬな! 頑張れ!」
アークがベッドの脇でドールの手を握りしめ、ボロボロ泣いている。
「……閣下。泣く暇があったら水をください」
ドールはベッドの上で、痛みに耐えながら指示を出した。
「汗を拭いて。……そこじゃない、首筋。……もっと優しく」
「は、はいっ! 仰せのままに!」
国の宰相が、ただの下働きと化している。
陣痛は激しさを増していた。
(……くっ、痛いな)
ドールは無表情を保とうとしていたが、さすがに眉間に皺が寄る。
(この痛み……例えるなら、予算委員会で全案件を否決された時の胃痛の百倍か……?)
(いや、物理的ダメージやから、タンスの角に小指をぶつけた痛みの持続型か……)
痛みを分析することで気を紛らわせるドール。
「奥様! もうすぐですよ! 頭が見えてます!」
産婆の声が響く。
「ドール! ドールぅぅぅ!」
アークが叫ぶ。
「うるさい! ……黙って手を握っててください!」
ドールがついにキレた(無表情で)。
「効率的に産みます! ……呼吸法、ラマーズ法、いきみ逃がし……すべて予習済みです!」
ドールは深呼吸をした。
(よし、次の波で決める!)
(長引けば体力の消耗、産後の復帰遅れに繋がる。……短期決戦や!)
「……ふんっ!!」
ドールが渾身の力を込める。
アークの手の骨が砕けるのではないかという強さで握りしめる。
「おぎゃあぁぁぁぁぁ!!」
元気な産声が、部屋中に響き渡った。
「う、生まれた……!」
アークが腰を抜かしてへたり込む。
「元気な男の子ですよ!」
産婆が赤子を抱き上げ、湯を使わせる。
ドールは荒い息を整えながら、その小さな塊を見た。
「……見せてください」
産婆が赤子をドールの胸に抱かせる。
まだ猿のようにしわくちゃで、真っ赤な顔。
しかし、その指は五本ずつあり、力強く空を掴んでいる。
「……指の本数、異常なし。呼吸音、正常。皮膚の色、良好」
ドールは素早く検品(チェック)を行った。
「……五体満足です。完璧な仕上がり(プロダクト)ですね」
「君ねぇ……」
アークが涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で覗き込む。
「可愛い……。なんて可愛いんだ……。私と君の子供だ……」
アークが恐る恐る赤子の頬に触れる。
すると、赤子がピタリと泣き止んだ。
そして、ゆっくりと目を開けた。
その瞳は、アーク譲りの美しい氷青色。
だが、その表情は……。
「……ん?」
アークとドールが顔を見合わせる。
赤子は泣きもせず、笑いもせず、ただジッと虚空を見つめていた。
スンッ……とした真顔である。
「……ドール似だ」
アークが呟いた。
「間違いありません。……この『無』の表情、将来有望なポーカーフェイスです」
ドールは確信した。
この子は伸びる。
感情に流されず、冷静に物事を見極める大物になる。
「名前はどうしようか?」
アークが尋ねる。
ドールは少し考え、そして答えた。
「……『レオン』で」
「レオン? 獅子か。強そうでいいね」
「はい。……あと、金貨の単位(レオン金貨)と同じ響きですので、お金に困らないように」
「結局そこ!?」
アークは苦笑したが、すぐにレオンを抱き上げた。
「ようこそ、レオン。……パパだよ。この国の宰相で、ママの財布係だ」
レオンはアークの顔をジッと見て、そして……。
ふいっ、と顔を背けた。
「……えっ? 無視?」
「……さすが私の子です。無駄な愛想は振りまかない主義のようですね」
ドールは満足げに頷いた。
「閣下。……これから忙しくなりますよ」
「ああ、そうだね。育児に、仕事に……」
「いいえ」
ドールは枕の下から、一枚の紙を取り出した。
「『出生届』と『児童手当申請書』、そして『学資保険の加入手続き』です。……期限がありますので、明日中に提出してください」
「産んだ直後に!?」
「時間は金です。……さあ、レオンのためにも、稼ぎますよ!」
ドールはニヤリと笑った。
アークは天を仰ぎ、そして最高に幸せそうに笑った。
「……イエス、マイ・ボス。一生ついていくよ」
こうして、レイブン公爵家に新たな「無表情な天使」が加わった。
親子三人の、賑やかで現金な毎日は、まだまだ続いていくのである。
0
あなたにおすすめの小説
恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ
棗
恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。
王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。
長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。
婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。
ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。
濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。
※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています
次代の希望 愛されなかった王太子妃の愛
Rj
恋愛
王子様と出会い結婚したグレイス侯爵令嬢はおとぎ話のように「幸せにくらしましたとさ」という結末を迎えられなかった。愛し合っていると思っていたアーサー王太子から結婚式の二日前に愛していないといわれ、表向きは仲睦まじい王太子夫妻だったがアーサーにはグレイス以外に愛する人がいた。次代の希望とよばれた王太子妃の物語。
全十二話。(全十一話で投稿したものに一話加えました。2/6変更)
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
過去に戻った筈の王
基本二度寝
恋愛
王太子は後悔した。
婚約者に婚約破棄を突きつけ、子爵令嬢と結ばれた。
しかし、甘い恋人の時間は終わる。
子爵令嬢は妃という重圧に耐えられなかった。
彼女だったなら、こうはならなかった。
婚約者と結婚し、子爵令嬢を側妃にしていれば。
後悔の日々だった。
悪役令嬢の涙
拓海のり
恋愛
公爵令嬢グレイスは婚約者である王太子エドマンドに卒業パーティで婚約破棄される。王子の側には、癒しの魔法を使え聖女ではないかと噂される子爵家に引き取られたメアリ―がいた。13000字の短編です。他サイトにも投稿します。
【完結】好きでもない私とは婚約解消してください
里音
恋愛
騎士団にいる彼はとても一途で誠実な人物だ。初恋で恋人だった幼なじみが家のために他家へ嫁いで行ってもまだ彼女を思い新たな恋人を作ることをしないと有名だ。私も憧れていた1人だった。
そんな彼との婚約が成立した。それは彼の行動で私が傷を負ったからだ。傷は残らないのに責任感からの婚約ではあるが、彼はプロポーズをしてくれた。その瞬間憧れが好きになっていた。
婚約して6ヶ月、接点のほとんどない2人だが少しずつ距離も縮まり幸せな日々を送っていた。と思っていたのに、彼の元恋人が離婚をして帰ってくる話を聞いて彼が私との婚約を「最悪だ」と後悔しているのを聞いてしまった。
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる