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管理小屋の扉を開けた瞬間、大量の埃と、何かが朽ちたような匂いが鼻を突いた。
普通ならここで鼻をつまんで後ずさりするところだが、私はむしろ目を輝かせて小屋の中へと踏み込んだ。
「見てください、閣下! この素晴らしい梁(はり)を! これなら、大きな銅鍋を吊るしてもびくともしませんわ!」
「……ポジティブにも程があるぞ、マーマレード嬢。私の目には、ただの崩れかけのボロ屋にしか見えんが」
アールグレイ公爵が、ハンカチで口元を抑えながら、恐る恐る中に入ってくる。
彼の磨き上げられた革靴が、埃まみれの床を踏むたびにパキパキと乾いた音を立てた。
「何を仰いますか。磨けば光る原石ですわ。ほら、そこの窓際の棚なんて、瓶を並べるのに完璧なサイズではありませんか!」
「それより先に、その床を這い回っている大きな蜘蛛をどうにかしろ。私を睨んでいるぞ」
「あら、ご機嫌よう、スパイダー氏。今日からここをジャム工場にしますから、お引越しをお願いしますね。あ、そこの隅の茂みまでなら、家賃無料でいいですわよ」
私が箒代わりに持ってきた枝で蜘蛛を優しく追い払うと、公爵は深いため息をついた。
「君と話していると、常識という言葉がゲシュタルト崩壊を起こしそうだ。……おい、そこの者たち! 小屋の周りの雑草をすべて刈り取れ。不潔でかなわん」
公爵が外で待機していた男たちに命じると、彼らは「合点承知!」とばかりに鎌を振り上げた。
しかし、その刃が地面に振り下ろされる直前、私は叫びながら外へ飛び出した。
「待って! ストップ! 止まってください!」
「うおっ!? なんだ、お嬢さん、急に飛び出してきて危ねえな!」
男たちが驚いて手を止める。私は彼らの足元にある、もっさりと生い茂った「雑草」の前に跪いた。
「これ、これを刈り取るなんて、神をも恐れぬ所業ですわ! これを見てください!」
「これって……ただの草だろう? 足に絡まって邪魔なだけの」
「いいえ! これはローズマリー、そっちはワイルドミント、そしてこの地を這うように生えているのはタイムですわ! それも、この森の厳しい環境で育ったせいか、香りが驚くほど濃い……!」
私はタイムの葉を一枝ちぎり、男たちの鼻先に突き出した。
「嗅いでみてください。この、鼻にツンと抜けるような力強いアロマを。これこそ、甘いオレンジジャムに一さじの魔法を加える、最高のスパイスですわ!」
「……本当だ。なんだ、いい匂いがするな」
「だ、だろ? ただの草だと思ってたが、意外とやるじゃねえか」
男たちがクンクンと鼻を鳴らしていると、公爵が不思議そうな顔で近づいてきた。
「雑草……ではなく、ハーブというわけか。しかし、なぜこんな呪われた地に、そんなものが自生している?」
「呪われているからこそですわ、閣下。普通の土地では他の植物に負けてしまうハーブたちも、この酸性の強い、険しい土地では独壇場だったのでしょう。まさに、『逆境こそが最高のスパイス』というわけですわね!」
私は立ち上がり、男たちに新たな指示を出した。
「皆さん! 刈り取るのはこの種類以外の、本当の雑草だけにしてください。ハーブたちは根こそぎにせず、丁寧に剪定して。後でこれをたっぷり使った、『お疲れ様ランチ』を作りますから!」
「お、お疲れ様ランチ!? またあのジャムが食えるのか!?」
「いいえ。今度はこのハーブと、皆さんが収穫してくれたビターオレンジを使った、特製チキンソテーをご用意しますわ!」
「「「うおおおおおおお!!」」」
男たちのやる気が最高潮に達し、草刈りのスピードが三倍に跳ね上がった。
彼らが一心不乱に地面を掃除する中、私は公爵を振り返り、ニッコリと微笑んだ。
「閣下、お腹が空きましたでしょう? そこの石を積んで、即席のコンロを作っていただけませんか?」
「……私がか? 一国の公爵に、石運びをさせるつもりか?」
「あら、閣下こそ、この『呪われた森の食材』を最初に味わう栄誉に預かるべきお方ですわ。そのための労働は、最高の調味料になりますわよ?」
「……君の言い分は、いつも強引だが、妙に納得させられてしまうな」
公爵は観念したように上着を脱ぎ捨て、ワイシャツの袖を捲り上げた。
白く細い、しかし意外にもしっかりとした筋肉のついた腕が露わになる。
「いいだろう。世界一の美食のためだ。石の一つや二つ、運んでやろうではないか」
「まあ、頼もしい! では私は、その間にハーブを洗ってきますわね!」
一時間後。
管理小屋の前には、即席の石窯と、ハーブの香ばしい匂いが漂う食卓が整っていた。
男たちが収穫したオレンジの果汁に、先ほどのハーブと塩胡椒を揉み込んだ鶏肉が、じゅうじゅうと良い音を立てて焼けていく。
「さあ、召し上がれ! 『呪いの森のハーブチキン・オレンジソース仕立て』です!」
男たちが肉を頬張る。
「う、美味すぎる……! このオレンジの酸味と、草……いや、ハーブの香りが、肉の脂をさっぱりさせて、いくらでも食えるぞ!」
「ああ、力がみなぎる……。これで午後も、大岩の一つや二つ動かせるぜ!」
そして、公爵も一口。
彼は咀嚼するごとに目を閉じ、その味を深く噛み締めているようだった。
「……信じられない。この地を呪いと呼び、放置していた王族たちは、皆盲目だったのか。この複雑で奥行きのある味わい……王都のどのレストランでも、これほどのものは出せないだろう」
「ふふん、当然ですわ。食材は正直ですもの。愛した分だけ、味で返してくれますわ」
私は満足げに頷き、まだ手付かずの荒れ地を見つめた。
雑草だと思っていたものがお宝に変わり、ボロ屋が工房に変わっていく。
私の新しい人生は、今、最高に「美味しく」なり始めていた。
「閣下、明日はあそこの池を掃除しましょう。そこにはきっと、クレソンが自生しているはずですわ!」
「……わかった、わかった。だが、その前にデザートのジャムを出すのを忘れるなよ」
「もちろんですわ! おかわり、たっぷりありますからね!」
笑い声が、かつての「呪われた森」に響き渡る。
それは、どんな魔法よりも強力に、この地を浄化していくようだった。
普通ならここで鼻をつまんで後ずさりするところだが、私はむしろ目を輝かせて小屋の中へと踏み込んだ。
「見てください、閣下! この素晴らしい梁(はり)を! これなら、大きな銅鍋を吊るしてもびくともしませんわ!」
「……ポジティブにも程があるぞ、マーマレード嬢。私の目には、ただの崩れかけのボロ屋にしか見えんが」
アールグレイ公爵が、ハンカチで口元を抑えながら、恐る恐る中に入ってくる。
彼の磨き上げられた革靴が、埃まみれの床を踏むたびにパキパキと乾いた音を立てた。
「何を仰いますか。磨けば光る原石ですわ。ほら、そこの窓際の棚なんて、瓶を並べるのに完璧なサイズではありませんか!」
「それより先に、その床を這い回っている大きな蜘蛛をどうにかしろ。私を睨んでいるぞ」
「あら、ご機嫌よう、スパイダー氏。今日からここをジャム工場にしますから、お引越しをお願いしますね。あ、そこの隅の茂みまでなら、家賃無料でいいですわよ」
私が箒代わりに持ってきた枝で蜘蛛を優しく追い払うと、公爵は深いため息をついた。
「君と話していると、常識という言葉がゲシュタルト崩壊を起こしそうだ。……おい、そこの者たち! 小屋の周りの雑草をすべて刈り取れ。不潔でかなわん」
公爵が外で待機していた男たちに命じると、彼らは「合点承知!」とばかりに鎌を振り上げた。
しかし、その刃が地面に振り下ろされる直前、私は叫びながら外へ飛び出した。
「待って! ストップ! 止まってください!」
「うおっ!? なんだ、お嬢さん、急に飛び出してきて危ねえな!」
男たちが驚いて手を止める。私は彼らの足元にある、もっさりと生い茂った「雑草」の前に跪いた。
「これ、これを刈り取るなんて、神をも恐れぬ所業ですわ! これを見てください!」
「これって……ただの草だろう? 足に絡まって邪魔なだけの」
「いいえ! これはローズマリー、そっちはワイルドミント、そしてこの地を這うように生えているのはタイムですわ! それも、この森の厳しい環境で育ったせいか、香りが驚くほど濃い……!」
私はタイムの葉を一枝ちぎり、男たちの鼻先に突き出した。
「嗅いでみてください。この、鼻にツンと抜けるような力強いアロマを。これこそ、甘いオレンジジャムに一さじの魔法を加える、最高のスパイスですわ!」
「……本当だ。なんだ、いい匂いがするな」
「だ、だろ? ただの草だと思ってたが、意外とやるじゃねえか」
男たちがクンクンと鼻を鳴らしていると、公爵が不思議そうな顔で近づいてきた。
「雑草……ではなく、ハーブというわけか。しかし、なぜこんな呪われた地に、そんなものが自生している?」
「呪われているからこそですわ、閣下。普通の土地では他の植物に負けてしまうハーブたちも、この酸性の強い、険しい土地では独壇場だったのでしょう。まさに、『逆境こそが最高のスパイス』というわけですわね!」
私は立ち上がり、男たちに新たな指示を出した。
「皆さん! 刈り取るのはこの種類以外の、本当の雑草だけにしてください。ハーブたちは根こそぎにせず、丁寧に剪定して。後でこれをたっぷり使った、『お疲れ様ランチ』を作りますから!」
「お、お疲れ様ランチ!? またあのジャムが食えるのか!?」
「いいえ。今度はこのハーブと、皆さんが収穫してくれたビターオレンジを使った、特製チキンソテーをご用意しますわ!」
「「「うおおおおおおお!!」」」
男たちのやる気が最高潮に達し、草刈りのスピードが三倍に跳ね上がった。
彼らが一心不乱に地面を掃除する中、私は公爵を振り返り、ニッコリと微笑んだ。
「閣下、お腹が空きましたでしょう? そこの石を積んで、即席のコンロを作っていただけませんか?」
「……私がか? 一国の公爵に、石運びをさせるつもりか?」
「あら、閣下こそ、この『呪われた森の食材』を最初に味わう栄誉に預かるべきお方ですわ。そのための労働は、最高の調味料になりますわよ?」
「……君の言い分は、いつも強引だが、妙に納得させられてしまうな」
公爵は観念したように上着を脱ぎ捨て、ワイシャツの袖を捲り上げた。
白く細い、しかし意外にもしっかりとした筋肉のついた腕が露わになる。
「いいだろう。世界一の美食のためだ。石の一つや二つ、運んでやろうではないか」
「まあ、頼もしい! では私は、その間にハーブを洗ってきますわね!」
一時間後。
管理小屋の前には、即席の石窯と、ハーブの香ばしい匂いが漂う食卓が整っていた。
男たちが収穫したオレンジの果汁に、先ほどのハーブと塩胡椒を揉み込んだ鶏肉が、じゅうじゅうと良い音を立てて焼けていく。
「さあ、召し上がれ! 『呪いの森のハーブチキン・オレンジソース仕立て』です!」
男たちが肉を頬張る。
「う、美味すぎる……! このオレンジの酸味と、草……いや、ハーブの香りが、肉の脂をさっぱりさせて、いくらでも食えるぞ!」
「ああ、力がみなぎる……。これで午後も、大岩の一つや二つ動かせるぜ!」
そして、公爵も一口。
彼は咀嚼するごとに目を閉じ、その味を深く噛み締めているようだった。
「……信じられない。この地を呪いと呼び、放置していた王族たちは、皆盲目だったのか。この複雑で奥行きのある味わい……王都のどのレストランでも、これほどのものは出せないだろう」
「ふふん、当然ですわ。食材は正直ですもの。愛した分だけ、味で返してくれますわ」
私は満足げに頷き、まだ手付かずの荒れ地を見つめた。
雑草だと思っていたものがお宝に変わり、ボロ屋が工房に変わっていく。
私の新しい人生は、今、最高に「美味しく」なり始めていた。
「閣下、明日はあそこの池を掃除しましょう。そこにはきっと、クレソンが自生しているはずですわ!」
「……わかった、わかった。だが、その前にデザートのジャムを出すのを忘れるなよ」
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