「戻ってきてもいいぞ?」という傲慢――許せませんわ。

ちゅんりー

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「……はしたないですよ、お二人とも。そんなに急いで食べたら、喉に詰まってしまいますわ」

私は、呆れを通り越して感心しながら、工房のテーブルを囲む二人の美男子を眺めていた。

右には、隣国の最高権力者でありながら、パンを千切る手つきがもはや野獣に近いアールグレイ公爵。
左には、世界を股にかける豪商でありながら、口の周りにマーマレードをつけたまま恍惚としているダージリン様。

「……ふん。ダージリン、君は先ほど『行き倒れていた』身だろう。胃が弱っているはずだ。そのパンをこちらに寄こせ。これは君の健康を案じての提案だ」

公爵が、真顔でダージリン様の皿にある最後の一切れを指差した。

「何を仰るんですか、公爵閣下。飢餓状態の僕にとって、このパンは聖母の慈悲、すなわち薬も同然です。薬を奪うなんて、公爵ともあろうお方が非道ではありませんか?」

「薬なら他にいくらでもある。だが、マーマレード嬢の『オレンジの吐息』は、この世にこれしかないのだ」

「だからこそ、僕が流通網を整備して、世界中に届けるべきなんです! ああ、お嬢さん、もう一切れ! いや、いっそこの塊ごと僕に売ってください!」

二人の視線が、まな板の上に残った食パンの端っこ(山の一番美味しいところ)に集中する。

私は、パン切り包丁を「トントン」と小気味よく叩いて、二人を制した。

「はいはい、喧嘩はやめてくださいな。お代わりなら、今ちょうど第二陣が焼き上がるところですから」

私がオーブンの扉を開けると、先ほどよりもさらに香ばしい、そして微かに『タイム』と『ローズマリー』の清涼感が混ざった香りが工房を満たした。

「……っ! この香りは……先ほどのものと違う!?」

公爵が、椅子を蹴り立てるような勢いで立ち上がった。

「ええ。今度は、森で採れたハーブを生地に練り込んでみましたの。名付けて『森の目覚め・ハーブ&ビターマーマレード・ロール』ですわ!」

天板の上に並んだ、渦巻き状の可愛らしいパンたち。
表面には、煮詰めたマーマレードのシロップが塗られ、結晶化した砂糖がキラキラと光っている。

「……美しい。もはや芸術品だ。ダージリン、君のような守銭奴に、この高潔な香りが理解できるか?」

「失礼な。僕の鼻は、金貨の匂いだけでなく、最高級の嗜好品を見分けるためについているんですよ。……お嬢さん、お願いです。まずは僕に。僕にその『目覚め』を与えてください!」

「公爵閣下からですよ。パトロン様ですからね」

私は、一番大きく膨らんだロールパンを、公爵の皿にコロンと乗せた。

公爵は、まるで壊れ物を扱うように、指先でパンを割った。
中から、熱い蒸気と共に、オレンジとハーブの香りが一気に弾け出す。

「…………ああ…………」

一口食べた公爵の口から、深い、地を這うような吐息が漏れた。

「……この、ハーブの清涼感が、オレンジの苦味をより鮮明に引き立てている。そして、この生地のしなやかさ。……マーマレード嬢、君は、私をどうするつもりだ?」

「どうするも何も、お腹いっぱいにさせるつもりですわ」

「……これでは、王宮の高級料理が、砂を噛むような味に感じられてしまう。責任を取ってもらおう。君は一生、私のためにこれを作り続けるんだ」

公爵の告白とも取れる言葉に、ダージリン様が「異議あり!」と手を挙げた。

「独占禁止法ですよ、閣下! お嬢さん、僕なら君を王都の一等地に招待します。そこで、貴族たちを列に並ばせるんだ。君はただ、ジャムを煮てパンを焼くだけでいい。あとの面倒な交渉はすべて僕が引き受けよう」

「まあ、魅力的。でも私、今はここでの生活が気に入っていますの」

私は、窓の外に広がる「呪いの森」を指差した。
そこでは、私のジャムで元気を取り戻した男たちが、汗を流して開墾を続けている。

「あの方たちがいて、この森の厳しい恵みがあってこその味ですわ。王都の綺麗な厨房では、この『ビター』な情熱は生まれませんもの」

「……情熱、か。ますます気に入ったよ。お嬢さん、君は本当に『悪役令嬢』として追放されたのかい? 信じられないな。王都の連中は、君というダイヤモンドを泥の中に投げ捨てたも同然だ」

ダージリン様が、真剣な瞳で私を見つめる。
私は、オレンジを剥く手を止めずに笑った。

「泥の中から芽を出すのも、案外楽しいものですわよ。……あ、閣下、お代わりですか?」

公爵は、すでに三つ目のロールパンを口に運びながら、無言で頷いた。
彼の皿は、すでにピカピカに磨かれたように綺麗だ。

「……お代わり、だ。止まらんのだ。君の作るものは、魔術か何かがかかっているのか?」

「愛という名のスパイスですわ。……なんて、嘘です。単に糖分と塩分とバターのバランスが完璧なだけですわよ」

「……その可愛げのない回答も、嫌いではない」

公爵は、最後に残ったシロップの滴を指ですくい、名残惜しそうに舐めた。
その姿は、冷徹な公爵というよりは、お気に入りの玩具を見つけた少年のようだった。

「さて、お二人とも。お腹がいっぱいになったら、少しは働いていただきますわよ。ダージリン様、商会の力で、私のジャムを詰める『とびきり可愛い瓶』を、大量に発注していただけますか?」

「喜んで! デザインは僕が監修しましょう。君のジャムにふさわしい、宝石のような瓶を用意します」

「閣下は、あそこの池のクレソンを採ってきてください。今夜はサラダにしましょう」

「……私に、また泥遊びをさせるのか」

公爵は不満そうに眉を寄せたが、その足取りはどこか軽やかだった。

実家からも、婚約者からも見捨てられたはずの私。
しかし、この森には、私のジャムを愛し、私のパンを待っている「最高の味方」たちがいる。

「ふふふ。レモン殿下、今頃何をしておいでかしら。……まあ、どうでもいいですわね。今は、次の新作ジャムのことで頭がいっぱいですもの!」

私は、鼻歌を歌いながら、新しいオレンジの山を抱え上げた。
呪いの森は、今や世界で一番「甘酸っぱい」香りに包まれていた。
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