「戻ってきてもいいぞ?」という傲慢――許せませんわ。

ちゅんりー

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マーマレードが王宮を去ってから、数週間が経過した。
かつて彼女のオレンジの香りが漂っていた廊下には、今や鼻を突くような、あまりにも人工的な甘い香料の匂いが充満している。

その源は、王宮の一等地に用意された、シュガー・シロップ男爵令嬢の私室であった。

「あーん、殿下ぁ。この特製『マシュマロ・トリプル・チョコレート・ケーキ』、食べてくださぁい。シュガーが頑張って、お砂糖をいつもの三倍入れて作ったんですのぉ」

フリルだらけのドレスを揺らしながら、シュガーがフォークを差し出す。
その先には、もはや固形物というよりは「砂糖の塊」にしか見えない、真っ白な物体が鎮座していた。

レモン殿下は、引きつった笑みを浮かべながらそれを見つめる。
彼の顔色は、以前の健康的な小麦色から一転し、どこか青白く、そして胃のあたりをさすりながら震えていた。

「ああ……あ、ありがとう、シュガー。……だが、その、先ほども三段重ねのパンケーキをいただいたばかりなのだが」

「あらぁ、殿下。シュガーの愛が足りないんですのぉ? マーマレード様みたいな、あの酸っぱくて苦い料理がいいっていうんですのぉ?」

「そ、そんなことはない! あんな可愛げのない女の料理など、二度と思い出したくもない! ……うぐっ」

殿下は無理やりケーキを口に放り込み、咀嚼した。
瞬間、脳を突き刺すような強烈な甘みが襲いかかり、彼の奥歯が悲鳴を上げる。

「……あ、甘い。……いや、甘すぎるという次元を超えている。これは、石炭か何かか?」

「もう、殿下ったらぁ。これが最先端の『王妃の味』ですわよぉ。さあ、残さず召し上がれぇ!」

シュガーは満足げに微笑み、窓の外を眺めた。
彼女はすでに、自分が次期王妃としてすべてを手に入れたつもりでいた。
マーマレードさえいなくなれば、この世は甘い夢のように回っていくのだと。

しかし、現実はそう甘くはなかった。
そこへ、王宮の会計官が、真っ青な顔をして転び込むように入ってきた。

「で、殿下! 大変です! 至急、ご確認いただきたい書類が!」

「なんだ、騒々しい。今、シュガーとの甘い時間を楽しんでいる最中なのだぞ」

「そんなことを言っている場合ではありません! これを見てください!」

突き出されたのは、厚さ三センチにも及ぶ、膨大な請求書の束だった。
一番上の紙には、大きな文字でこう記されている。

『婚約維持経費および、特製ジャム三年分未払い代金請求書 差出人:マーマレード・オレンジ』

「……なんだ、これは」

「マーマレード様が王宮に献上していたジャムやパン、そして彼女が個人的に負担していた夜会の備品代。さらには、殿下の健康管理のためのサプリメント代まで、すべてが『市場最高値』で換算されております!」

「な……っ!? あいつ、本当に請求書を送りつけてきやがったのか!」

レモン殿下は椅子から立ち上がろうとしたが、胃もたれのせいで「うっ」と呻いて倒れ込んだ。

「それだけではありません! 彼女がいなくなってから、王宮内の『ビタミン不足』が深刻です。騎士団の連中は口内炎だらけで動けず、侍女たちは肌荒れがひどいとストライキを検討しております。シュガー様の出すお菓子では、カロリーは摂れても栄養が足りないのです!」

「わ、私のせいにするなんて失礼ですわぁ! 騎士なら気合で治せばいいんですのぉ!」

シュガーがキーキーと叫ぶが、会計官は無視して続けた。

「さらに、マーマレード様の実家であるオレンジ伯爵家から、今月分の『最高級オレンジ』の納品停止通知が届きました。これからはすべて隣国の公爵家へ輸出するとのことです」

「なんだと!? 私の朝食のオレンジジュースはどうなるんだ!」

「……今後は、シュガー様がお作りになる『色付き砂糖水』で我慢していただくしかありません」

レモン殿下は、目の前の真っ白なケーキを見つめ、初めて恐怖を感じた。
マーマレードという「苦味」があってこそ、彼の人生はバランスを保っていたのだ。

「殿下ぁ、そんな書類破り捨てちゃえばいいんですのぉ。それより、明日のパーティーではシュガーが考えた『シュガー・ピンク・カレー』を振る舞いましょうよぉ。全部ピンク色で、マシュマロが浮いているんですのぉ」

「カレーに……マシュマロ……?」

殿下の想像力が限界を超えた。
彼の脳裏に、かつてマーマレードが差し出していた、あの爽やかな香りのマーマレードトーストが浮かぶ。

「……マーマレード……。いや、認めん。私は間違っていない。あんな女、今頃野垂れ死んでいるに決まっているんだ」

その時、また別の伝令が駆け込んできた。

「報告します! 隣国の公爵領において、空前の『ジャム・ブーム』が発生している模様です! かつての呪われた森から、神の如き美味さのパンが次々と運び出され、貴族たちがこぞって金を積み上げているとのこと!」

「なんだと……?」

「そのジャムを作っているのは、『黄金の指を持つ聖女』と呼ばれる女性だそうです。特徴は、オレンジ色の髪に、常に鍋を持っている姿だとか……」

レモン殿下の顔から、完全に血の気が引いた。
一方、シュガーは扇子を握りしめ、顔を真っ赤にして叫んだ。

「なんですってぇ!? 呪われた森で泥遊びをしているはずなのに、なんでそんなに目立っているんですのぉ! 許せませんわぁ!」

王宮の豪華な部屋に、シュガーの絶叫が響き渡る。
しかし、その声は以前のような愛らしさは微塵もなく、ただただ周囲を不快にさせるだけだった。

「……胃が、痛い。……誰か、私に……酸っぱいものを……オレンジをくれ……」

レモン殿下は、シュガーが差し出す追加のチョコレートを前に、力なく崩れ落ちた。

甘すぎる夢の終わりは、すぐそこまで迫っていた。
マーマレードがいない王宮は、すでに内側から「腐敗」ではなく「糖化」して崩壊し始めていたのである。
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