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冷徹侯爵の婚約者
しおりを挟むエーゼンバッハ侯爵家――王国の中でも長きにわたり絶大な影響力を誇る家門。その当主であるアルトゥール・フォン・エーゼンバッハは、冷徹さで知られていた。幼少の頃から厳格な教育を受け、無駄を嫌い、感情を押し殺すことを美徳と教え込まれた彼は、成人する頃には感情を露わにすることがほとんどない男へと成長していた。
彼のもとには数多くの縁談が持ち込まれてきたが、すべてが家門の利益に基づいたものだった。そしてその中から選ばれたのが、セシリア・ローゼンベルクという女性だった。
セシリアはローゼンベルク伯爵家の次女であり、社交界でも評判の美貌と品位を持つ女性だった。だが彼女はただの美しい貴婦人ではなかった。持ち前の明るさと聡明さで人を引きつける魅力があり、周囲からも愛される存在だった。
アルトゥールがセシリアに初めて会ったのは、二人の婚約が決まった日だった。その日のことを彼はほとんど覚えていない。ただ一つだけ、彼女が柔らかい笑みを浮かべながら「お会いできて光栄です」と頭を下げた光景だけがぼんやりと記憶に残っていた。
婚約者――その言葉が意味するのは、互いの家の繋がりを強化するための駒であるということだった。アルトゥールにとって、セシリアは単なる「役割を果たすべき存在」でしかなかった。
侯爵の冷徹な日常
アルトゥールの日常は規則正しく、そして厳格だった。朝早くに執務を始め、必要な会議をこなし、家門に関する問題を解決する。それ以外の時間は鍛錬や読書に費やし、私的な娯楽に興じることは一切なかった。
その中でセシリアとの交流はほとんど形式的なものであった。週に一度の茶会や家族との会食で顔を合わせる程度であり、二人が長く会話を交わすことはなかった。
だが、セシリアはそんな状況でも笑顔を絶やさなかった。彼女はアルトゥールに対して、いつも穏やかな態度で接した。
「アルトゥール様、今日はお忙しい中お時間をいただきありがとうございます。」
「当然だ。」
彼はいつも短く答えるだけだった。それ以上、彼女に興味を持つことはなかった。セシリアがどんな性格なのか、どんなことを考えているのか――彼にとってそれを知る必要はなかったのだ。
セシリアの愛
しかし、セシリアにとってアルトゥールはただの婚約者ではなかった。彼女は初めて会った日から彼に心を奪われていた。冷静で威厳に満ちた姿、家門を背負う強さ、そして何より、その奥に隠された孤独に気づいていたからだ。
「私はあなたを愛しています、アルトゥール様。」
彼女は何度もその言葉を伝えた。だがアルトゥールはいつも無反応だった。
「そうか。」
「はい、それだけで十分です。」
彼女はいつも微笑みながらそう答えた。彼がその愛を受け入れることはないと知りつつも、諦めることはできなかった。それでも彼に尽くすことで、自分の存在価値を見出そうとしていた。
すれ違う二人
そんな二人の関係は、周囲からは「理想的な婚約者同士」として見られていた。セシリアがどんな場でも優雅に振る舞い、アルトゥールが冷静にそれを支える姿は、他の貴族たちにとって憧れの的だった。
しかし、二人の関係の実態を知る者はほとんどいなかった。アルトゥールは彼女の努力を当然のものとして受け止め、それを称賛することもなければ感謝の言葉を口にすることもなかった。
セシリアはそれに気づいていながら、あえて何も言わなかった。彼女にとって、彼の傍にいること自体が幸せだったからだ。
未来への疑問
だが、セシリアの心の中には次第に小さな疑問が芽生え始めていた。このまま結婚して、果たして自分は幸せになれるのだろうか、と。
ある夜、セシリアは一人で自室の窓から庭園を眺めていた。満月の光が庭を優しく照らしている。彼女は小さな声で呟いた。
「アルトゥール様の心に私はいるのかしら……。」
その問いに答えられる者は誰もいなかった。
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