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三章 探求
九(side:高橋翼)
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美術室の入り口から一番近い机に長い髪がよく映えた女性の姿があった。下絵みたいなのを描いているみたいだ。
彼女の名前は桜沢澄香。美術担当で一年C組、つまりは悟のクラスの担任でもある。それだけじゃない。桜沢先生は俺を除けば幼女消失事件の唯一の目撃者でもある。
「いらっしゃい」
桜沢先生は作業を中断して俺らに微笑みかけた。桜沢先生はいつも明るくて雰囲気が良くて顔を見るだけで元気になれる。そういう人だ。
「古城君から話は聞いてるわよ。見ての通り今日は美術部の活動は無いの。思う存分話せるわね」
桜沢先生は語尾に音符でも付きそうな口調で喋ってからガッツポーズを決めた。二〇代後半だと言うのに案外子どもっぽい一面を垣間見せる。
「先生も俺らに負けず劣らずのやる気だな。でも先生は絶対空回りするよな。変なことして学校クビにならないようにな」
なんてったって、この人の場合は心強さよりも失敗する不安の方が大きい。
「高橋君に言われると心外ね。私だって一応教師ですから。誰かさんと違って、本業に支障が出るほどは熱中しません。斎藤君を見習って少しは勉強もしてね。それと敬語もね」
「んー。先生は厳しーな。でも心配しなくてもちゃんとコトが済んだら斎藤努先生の勉強会が待ってるからさ」
話を振ると努はわざとらしく深々と桜沢先生の方へ頭を下げた。
「馬鹿は直せないですが僕のできる範囲でマシにするのでご安心下さい」
桜沢先生は嬉しそうに微笑んだ。
「斎藤君が言うなら信じて任せていいわね。ところで岡さんと小西さんも一緒に来たってことは同じ要件?」
岡さんと小西さんって誰かと思ったら鏡子さんと美鈴さんだったな。名字で言われるとわからん。
「そ、あたしもオカルト研究部だし。つーかさぁ、メガネの野郎、のんびり話す時間はないってあたしに言ってたのに何で無駄話してるわけ」
「そうね。あんまり話す時間もないわね。では、私が学校の怪談で知っていることを手短に話すことにしましょうか。岡さんも斎藤君も無駄な言い争いの暇はないでしょ。じゃあ、皆、適当に掛けて。ほらほら、青木さんと小西さんも早く教室に入って」
桜沢先生は生徒の扱いに手慣れていて、状況を読んで場をコントロールするのが上手い。生徒個々の状況を鑑みて的確な指示を出しているように見える。ボケてみえても教師としては優秀なんだろうな。
皆がおもむろに椅子に座り始めると桜沢先生はプリントを配りながら話し始めた。
「では今配ったのを見て。予備も刷ってあったから多分足りてると思うんだけど。うん、大丈夫そうね」
俺はプリントに目を落としてみる。結構文量多いな。本業より一生懸命やってるだろ。こんなにきちんとしたプリントが美術の授業で配られたことはない。
それどころか、どこから持って来たんだかいつもは使わないホワイトボードのキャスターをカラカラと転がして、じゃじゃーんと板書済みの面を表にした。桜沢先生の何事も一生懸命なとこは好感が持てる。桜沢先生らしいや。
「形から入るところも嫌いじゃないぜ」
「ゔ、なんか高橋君にそう言われると、今更ながら恥ずかしくなってきたわね。ま、まぁいいわ。皆、これを見て」
桜沢先生は左手でホワイトボードの面を叩いた。そこには第一の怪談という文字がでかでかと書いてあって、その下には幼女消失事件の大雑把な時系列が書かれていた。凄まじい気合いだ。思わず、おぉーと関心の声が上がった。
桜沢先生はと言えば、胸を張って腰に手を当ててかなり自慢気だ。
「なかなかの出来でしょ? でも全部は書ききれなかったから詳細は後で配布プリントを確認してね。ではでは、まず最初の事件である幼女消失事件について、事件が起きたのは五月十三日、金曜日の八時五〇分、私、桜沢澄香が四階の廊下脇にあるバルコニーから空を眺め己の悩みの小ささにバカバカしくなっていた時のこと」
桜沢先生が話し始めるとひそひそ声が聞こえ始めた。後ろに座る鏡子さんと美鈴さんみたいだ。あの二人、結局のところ仲が良いんだな。少し内容が気になって意識が少しそちらに傾く。
「バルコニーで黄昏てて、しかもあの詩的な表現。あたし思うんだけど、男にでも振られたんじゃなーい?」
鏡子さんは耳元の髪の毛をまたクルクルと弄びながら口にした。
「確かにニーチェも人は恋をすると詩人になるって言ってたよー。これは面白いニュースになりそーだと思わない?」
あんまり真面目に話してるもんだから可笑しくて、桜沢先生の話してる内容が入ってこない。オカルトじゃなくてゴシップの調査になってるぜ、完全に。本当は怪談話に集中しなきゃ行けねぇが何となく何話してんだか気になってしまう。俺は前を向きながらも耳だけはそっちに傾けていた。
「それにさ、最近は英語の吉川先生と桜沢先生が夜遅く学校で密会してるってウワサもあるしー。あたし的にはお似合いだと思けど吉川って去年結婚してるしー。修羅場とかなったらマジウケるよねー」
「そうだねぇ。そしたらトップニュースになるねー」
「マジ楽しみだわー」
本当なのか。あの真面目な担任が桜沢先生と不倫か。いや、所詮は噂だから信じないでおこう。有り得ねぇ話じゃねぇが。信用に値するような根拠がない、こともないのか。
この前の授業で吉川先生は最近、残業が多いんだよって笑ってたよな。あの笑いは桜沢先生との密会を楽しみにしているってことか。そう言えば桜沢先生もこんな何の行事も無い時期に目の下にクマ作ってたような。
いや、そんなもんじゃない。去年、三年生の修学旅行の下見に行ったのは、桜沢先生と吉川先生の二人だ。遊びじゃないとはいえ定時を過ぎれば自由時間だ。だとすると疑惑が深まるな。
って何考えてんだ。噂に流されるのは良くないな。全部状況証拠だし、しかもウワサしてるのはオカルト研究会の二人だし、今優先すべきは怪談だ。俺は再び桜沢先生の話の方を意識することにした。
「で、吉川先生とかに話したら、他の個室を見たりしてる一瞬の隙に別の個室から逃げ出したってそういう結論になったのよね。幼女消失事件のあらましは大体こんな感じね。高橋君も追加することないわよね?」
話を聞いていなかった俺が面食らっていると、代わりに努が返事をする。
「翼には事前に話を聞いておきましたが先生の話と概ね一致しています。おかしな点はありません」
いつもなら勝手に返事することを咎めているところだったが、今回ばかりは助けられたな。努が言うのに合わせて適当に頷いておいた。
「OK、ありがとう。皆、質問はないわね?」
「桜沢先生は吉川先生と付き合ってるの?」なんてことはとても聞けないし、女子トイレの方より、もう片方の怪談の話の方が気になるし。
俺らは互いに顔を見合わせるばかりで時間が無いというのもあるからか、誰からも質問は出なかった。
桜沢先生は教室を見渡して質問がないのを確認すると話を次に移した。
「次の第二の事件はここの美術室での話になるわね。最初に異変に気がついたのは四月の終わり頃だったかしらね。美術室の後ろに石膏像か置いてあるじゃない? あの石膏像がまだ美術準備室にあった時に誰も触れていないのに突然ひとりでに落下したのよ」
「落ちた原因は分かっているんですか?」
彩和ちゃんが首を傾げた。
桜沢先生は教室の入り口の方に移動して美術準備室の前に立った。
「それがわからないのよ。これが美術準備室のドアだから美術室の教室入ってすぐ右のところじゃない? だから授業前は美術準備室の近くに人が溜まっていることもあるの。でも、落ちたのは授業中でドアは開いてたけど、全員席に着いていたから落とせた人は居ないのよね」
確かに教室を入って右に美術準備室のドアがある。教室のドアは他の教室と同様の2枚の引き戸で、美術準備室のドアはドアノブを回して開ける一般的な開き戸だ。確かにあそこのドアは開きっ放しになっていることが多い。
「じゃあきっと怪談の通りに石膏像が自分で動いて落ちたんじゃねーの?」
鏡子さんが身を乗り出した。オカ研としてはそういう方向に話を進めたいんだろうな。でも、この話は怪奇というにはお粗末過ぎる。雨梁学園に伝わる七不思議に状況が似てるとはいえ、物が落ちたくらいで怪奇認定はかなり強引だ。
「特別不思議がることもない。不安定に置いてあった像がちょっとした振動で落ちただけという可能性が高い。怪奇現象のせいにしようというのは無理がある」
努が俺でも気付く程度のことに突っ込まない筈もなかった。鏡子さんも流石に反論する余地もなく、指に絡んだ毛をくるりくるりと回していた。
「私もこの時は何かの拍子に石膏像が落ちたんだなと思ったの。この時は傷ひとつなく済んだんだけど今度は落ちないようにしなきゃなって思って、机の上じゃなくて下に置くことにしたのね。それからはすっかり石膏像のことなんて忘れてて。ドアを開きっ放しにしておくと石膏像はドアの後ろに隠れて見えなくなるしね」
桜沢先生は話を切って、開け放してあった窓を閉めて回り始めた。総下校時間が迫ってきた。窓を閉めなくても外で部活をしている声はすっかり聞こえてこなくなっていた。
「なんだか陰ってきて少し寒くなっちゃって。じゃあ続きを話しましょうか」
窓が閉められるとガソリンみたいな油の臭いとニスみたいな臭いが少しだけ濃く強くなって、僅かな喧騒も一切なくなった。
時計の短針はもうすぐ真下を指そうとしている。
「そうね。それからさっき話した女子トイレの事件があった次の日にね、準備室の片付けをしてたら石膏像にもだいぶ埃が積もってきてて、それを拭き取ろうとした時におかしいなって思ってね───」
知らず知らずの内に鼓動が早まっていた。次の言葉が気になる。自分の呼吸だけが聞こえて近くに居るはずの努や彩和ちゃん、オカ研の二人の気配すらもないように感じた。孤独感に飲まれてしまいそうだ。
「石膏像がいつも私の立っている教卓の方をじっと見つめていたの。確かに置いた時は通路側を向くように置いてあったはずなのにね」
油とシンナーの淀んだ臭いが鼻を突いた。沈黙を破るのにも相当な力を労する程の空気が溜まっている。息が苦しく感じる。
こんな時に決まって空気を破るのは努以外に居ないのは最早言うまでもないと思う。
「なるほど。実際に動いているところは見ていないが、明らかに置いた時とは違う方向を向いていた。教卓の方を向いていたのは偶然であるとしても回転したことに変わりはない。但し、先生の話を信じるなら、ですが」
なるほど、確かにその通りだ。この怪談だけじゃなくて、全部の怪談を検証する上でどの情報も情報元が一つしかないと言うことは考えておかないといけない。最初はすべて正しい情報と仮定して考えるので良い。でも、辻褄が合わなくなったりおかしな点が出てきたら嘘の情報が混ざっていると仮定し直さなきゃいけない。
今回、美術室の怪談での重要点は、動くところは直接見ていないという点、でも確かに向きや場所が移動していたという点、教卓の方を向いていた点の三つか。
桜沢先生は努の挑発に身を乗り出して一言呟いた。
「私も怪談事件の容疑者になり得るってことね」
いつもより格段に低くてちいさい声だった。まるで別人みたいだ。俺の知ってる桜沢先生ならもっと明るく返していそうなのに。
様子を伺おうと思ったが俺が表情を見るより先に桜沢先生は踵を返してホワイトボードを教室の隅に寄せた。背中越しでは表情も考えも読めない。
「もう六時よ。気をつけて帰りなさいね」
怒っているのか。いや、容疑者扱い程度で怒るような人じゃない。奇妙な感じがする。
現実じゃないような。
夢見てるような。
別世界に迷い込んだような。
桜沢先生の姿をした別人を見ているような。
とにかく今は考えるよりも逃げ帰ってしまいたかった。
俺は音が立たないように椅子を引いて荷物を持った。長くここにいてはいけないと直感した。不安感と焦燥感が募る。
カチャ。
金具が当たる音でも過敏に反応してしまう。
「先生ありがとうございました。翼、彩和、行こう」
「先生さよなら」
喉が張り付いたようで声が出しにくかった。それでも何とか裏返らないように声を絞り出した。
廊下までの数メートルが遠い。人生で一番重い十歩だと思う。
彼女の名前は桜沢澄香。美術担当で一年C組、つまりは悟のクラスの担任でもある。それだけじゃない。桜沢先生は俺を除けば幼女消失事件の唯一の目撃者でもある。
「いらっしゃい」
桜沢先生は作業を中断して俺らに微笑みかけた。桜沢先生はいつも明るくて雰囲気が良くて顔を見るだけで元気になれる。そういう人だ。
「古城君から話は聞いてるわよ。見ての通り今日は美術部の活動は無いの。思う存分話せるわね」
桜沢先生は語尾に音符でも付きそうな口調で喋ってからガッツポーズを決めた。二〇代後半だと言うのに案外子どもっぽい一面を垣間見せる。
「先生も俺らに負けず劣らずのやる気だな。でも先生は絶対空回りするよな。変なことして学校クビにならないようにな」
なんてったって、この人の場合は心強さよりも失敗する不安の方が大きい。
「高橋君に言われると心外ね。私だって一応教師ですから。誰かさんと違って、本業に支障が出るほどは熱中しません。斎藤君を見習って少しは勉強もしてね。それと敬語もね」
「んー。先生は厳しーな。でも心配しなくてもちゃんとコトが済んだら斎藤努先生の勉強会が待ってるからさ」
話を振ると努はわざとらしく深々と桜沢先生の方へ頭を下げた。
「馬鹿は直せないですが僕のできる範囲でマシにするのでご安心下さい」
桜沢先生は嬉しそうに微笑んだ。
「斎藤君が言うなら信じて任せていいわね。ところで岡さんと小西さんも一緒に来たってことは同じ要件?」
岡さんと小西さんって誰かと思ったら鏡子さんと美鈴さんだったな。名字で言われるとわからん。
「そ、あたしもオカルト研究部だし。つーかさぁ、メガネの野郎、のんびり話す時間はないってあたしに言ってたのに何で無駄話してるわけ」
「そうね。あんまり話す時間もないわね。では、私が学校の怪談で知っていることを手短に話すことにしましょうか。岡さんも斎藤君も無駄な言い争いの暇はないでしょ。じゃあ、皆、適当に掛けて。ほらほら、青木さんと小西さんも早く教室に入って」
桜沢先生は生徒の扱いに手慣れていて、状況を読んで場をコントロールするのが上手い。生徒個々の状況を鑑みて的確な指示を出しているように見える。ボケてみえても教師としては優秀なんだろうな。
皆がおもむろに椅子に座り始めると桜沢先生はプリントを配りながら話し始めた。
「では今配ったのを見て。予備も刷ってあったから多分足りてると思うんだけど。うん、大丈夫そうね」
俺はプリントに目を落としてみる。結構文量多いな。本業より一生懸命やってるだろ。こんなにきちんとしたプリントが美術の授業で配られたことはない。
それどころか、どこから持って来たんだかいつもは使わないホワイトボードのキャスターをカラカラと転がして、じゃじゃーんと板書済みの面を表にした。桜沢先生の何事も一生懸命なとこは好感が持てる。桜沢先生らしいや。
「形から入るところも嫌いじゃないぜ」
「ゔ、なんか高橋君にそう言われると、今更ながら恥ずかしくなってきたわね。ま、まぁいいわ。皆、これを見て」
桜沢先生は左手でホワイトボードの面を叩いた。そこには第一の怪談という文字がでかでかと書いてあって、その下には幼女消失事件の大雑把な時系列が書かれていた。凄まじい気合いだ。思わず、おぉーと関心の声が上がった。
桜沢先生はと言えば、胸を張って腰に手を当ててかなり自慢気だ。
「なかなかの出来でしょ? でも全部は書ききれなかったから詳細は後で配布プリントを確認してね。ではでは、まず最初の事件である幼女消失事件について、事件が起きたのは五月十三日、金曜日の八時五〇分、私、桜沢澄香が四階の廊下脇にあるバルコニーから空を眺め己の悩みの小ささにバカバカしくなっていた時のこと」
桜沢先生が話し始めるとひそひそ声が聞こえ始めた。後ろに座る鏡子さんと美鈴さんみたいだ。あの二人、結局のところ仲が良いんだな。少し内容が気になって意識が少しそちらに傾く。
「バルコニーで黄昏てて、しかもあの詩的な表現。あたし思うんだけど、男にでも振られたんじゃなーい?」
鏡子さんは耳元の髪の毛をまたクルクルと弄びながら口にした。
「確かにニーチェも人は恋をすると詩人になるって言ってたよー。これは面白いニュースになりそーだと思わない?」
あんまり真面目に話してるもんだから可笑しくて、桜沢先生の話してる内容が入ってこない。オカルトじゃなくてゴシップの調査になってるぜ、完全に。本当は怪談話に集中しなきゃ行けねぇが何となく何話してんだか気になってしまう。俺は前を向きながらも耳だけはそっちに傾けていた。
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この前の授業で吉川先生は最近、残業が多いんだよって笑ってたよな。あの笑いは桜沢先生との密会を楽しみにしているってことか。そう言えば桜沢先生もこんな何の行事も無い時期に目の下にクマ作ってたような。
いや、そんなもんじゃない。去年、三年生の修学旅行の下見に行ったのは、桜沢先生と吉川先生の二人だ。遊びじゃないとはいえ定時を過ぎれば自由時間だ。だとすると疑惑が深まるな。
って何考えてんだ。噂に流されるのは良くないな。全部状況証拠だし、しかもウワサしてるのはオカルト研究会の二人だし、今優先すべきは怪談だ。俺は再び桜沢先生の話の方を意識することにした。
「で、吉川先生とかに話したら、他の個室を見たりしてる一瞬の隙に別の個室から逃げ出したってそういう結論になったのよね。幼女消失事件のあらましは大体こんな感じね。高橋君も追加することないわよね?」
話を聞いていなかった俺が面食らっていると、代わりに努が返事をする。
「翼には事前に話を聞いておきましたが先生の話と概ね一致しています。おかしな点はありません」
いつもなら勝手に返事することを咎めているところだったが、今回ばかりは助けられたな。努が言うのに合わせて適当に頷いておいた。
「OK、ありがとう。皆、質問はないわね?」
「桜沢先生は吉川先生と付き合ってるの?」なんてことはとても聞けないし、女子トイレの方より、もう片方の怪談の話の方が気になるし。
俺らは互いに顔を見合わせるばかりで時間が無いというのもあるからか、誰からも質問は出なかった。
桜沢先生は教室を見渡して質問がないのを確認すると話を次に移した。
「次の第二の事件はここの美術室での話になるわね。最初に異変に気がついたのは四月の終わり頃だったかしらね。美術室の後ろに石膏像か置いてあるじゃない? あの石膏像がまだ美術準備室にあった時に誰も触れていないのに突然ひとりでに落下したのよ」
「落ちた原因は分かっているんですか?」
彩和ちゃんが首を傾げた。
桜沢先生は教室の入り口の方に移動して美術準備室の前に立った。
「それがわからないのよ。これが美術準備室のドアだから美術室の教室入ってすぐ右のところじゃない? だから授業前は美術準備室の近くに人が溜まっていることもあるの。でも、落ちたのは授業中でドアは開いてたけど、全員席に着いていたから落とせた人は居ないのよね」
確かに教室を入って右に美術準備室のドアがある。教室のドアは他の教室と同様の2枚の引き戸で、美術準備室のドアはドアノブを回して開ける一般的な開き戸だ。確かにあそこのドアは開きっ放しになっていることが多い。
「じゃあきっと怪談の通りに石膏像が自分で動いて落ちたんじゃねーの?」
鏡子さんが身を乗り出した。オカ研としてはそういう方向に話を進めたいんだろうな。でも、この話は怪奇というにはお粗末過ぎる。雨梁学園に伝わる七不思議に状況が似てるとはいえ、物が落ちたくらいで怪奇認定はかなり強引だ。
「特別不思議がることもない。不安定に置いてあった像がちょっとした振動で落ちただけという可能性が高い。怪奇現象のせいにしようというのは無理がある」
努が俺でも気付く程度のことに突っ込まない筈もなかった。鏡子さんも流石に反論する余地もなく、指に絡んだ毛をくるりくるりと回していた。
「私もこの時は何かの拍子に石膏像が落ちたんだなと思ったの。この時は傷ひとつなく済んだんだけど今度は落ちないようにしなきゃなって思って、机の上じゃなくて下に置くことにしたのね。それからはすっかり石膏像のことなんて忘れてて。ドアを開きっ放しにしておくと石膏像はドアの後ろに隠れて見えなくなるしね」
桜沢先生は話を切って、開け放してあった窓を閉めて回り始めた。総下校時間が迫ってきた。窓を閉めなくても外で部活をしている声はすっかり聞こえてこなくなっていた。
「なんだか陰ってきて少し寒くなっちゃって。じゃあ続きを話しましょうか」
窓が閉められるとガソリンみたいな油の臭いとニスみたいな臭いが少しだけ濃く強くなって、僅かな喧騒も一切なくなった。
時計の短針はもうすぐ真下を指そうとしている。
「そうね。それからさっき話した女子トイレの事件があった次の日にね、準備室の片付けをしてたら石膏像にもだいぶ埃が積もってきてて、それを拭き取ろうとした時におかしいなって思ってね───」
知らず知らずの内に鼓動が早まっていた。次の言葉が気になる。自分の呼吸だけが聞こえて近くに居るはずの努や彩和ちゃん、オカ研の二人の気配すらもないように感じた。孤独感に飲まれてしまいそうだ。
「石膏像がいつも私の立っている教卓の方をじっと見つめていたの。確かに置いた時は通路側を向くように置いてあったはずなのにね」
油とシンナーの淀んだ臭いが鼻を突いた。沈黙を破るのにも相当な力を労する程の空気が溜まっている。息が苦しく感じる。
こんな時に決まって空気を破るのは努以外に居ないのは最早言うまでもないと思う。
「なるほど。実際に動いているところは見ていないが、明らかに置いた時とは違う方向を向いていた。教卓の方を向いていたのは偶然であるとしても回転したことに変わりはない。但し、先生の話を信じるなら、ですが」
なるほど、確かにその通りだ。この怪談だけじゃなくて、全部の怪談を検証する上でどの情報も情報元が一つしかないと言うことは考えておかないといけない。最初はすべて正しい情報と仮定して考えるので良い。でも、辻褄が合わなくなったりおかしな点が出てきたら嘘の情報が混ざっていると仮定し直さなきゃいけない。
今回、美術室の怪談での重要点は、動くところは直接見ていないという点、でも確かに向きや場所が移動していたという点、教卓の方を向いていた点の三つか。
桜沢先生は努の挑発に身を乗り出して一言呟いた。
「私も怪談事件の容疑者になり得るってことね」
いつもより格段に低くてちいさい声だった。まるで別人みたいだ。俺の知ってる桜沢先生ならもっと明るく返していそうなのに。
様子を伺おうと思ったが俺が表情を見るより先に桜沢先生は踵を返してホワイトボードを教室の隅に寄せた。背中越しでは表情も考えも読めない。
「もう六時よ。気をつけて帰りなさいね」
怒っているのか。いや、容疑者扱い程度で怒るような人じゃない。奇妙な感じがする。
現実じゃないような。
夢見てるような。
別世界に迷い込んだような。
桜沢先生の姿をした別人を見ているような。
とにかく今は考えるよりも逃げ帰ってしまいたかった。
俺は音が立たないように椅子を引いて荷物を持った。長くここにいてはいけないと直感した。不安感と焦燥感が募る。
カチャ。
金具が当たる音でも過敏に反応してしまう。
「先生ありがとうございました。翼、彩和、行こう」
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