私を捨てたのはミスですよ?

パリパリかぷちーの

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「……よし、角度よし、粘度よし。魔力伝導率、誤差0.02パーセント以内! 完璧ですわ!」

私は今、地上三メートルの高さにある足場の上に立っています。

手には特注の幅広刷毛。
頭には埃除けの三角巾を(効率重視で)深く被り、動きやすさを最優先した「公爵令嬢が絶対に着てはいけない作業着」に身を包んで。

目の前の外壁に塗り込んでいるのは、私が三日三晩かけて調合した『魔導断熱・防汚ハイブリッド塗料(試作一号)』。
これさえ塗れば、冬は暖かく夏は涼しい、おまけに雨が降れば汚れが自動で落ちるという、魔法のような……いえ、実際に魔法を科学的に応用した、究極の建材ですわ。

「お嬢様! もう少し右ですわ、右! ああっ、そんな端っこまで身を乗り出さないでくださいまし! 落ちたら私の心臓が止まってしまいます!」

下にいるベティが、ひっくり返りそうな声で叫んでいます。

「大丈夫ですわ、ベティ。私の三半規管は、今のところ完璧な平衡感覚を維持しております。それよりも、この塗料が乾く前に均一な厚みで広げることが、今の私にとっての至上命題なのです!」

私はリズム良く刷毛を動かしました。
シュッ、シュッという一定の音が、私の脳に快感をもたらします。
ああ、なんて美しい。
無駄のない動き。完璧な仕上がり。これこそが芸術、これこそが合理性の勝利ですわ!

「……ふむ。今日は左官職人に弟子入りしたのか?」

不意に、真下から聞き慣れた、そして今一番聞きたくない「低くていい声」が聞こえてきました。

「……ッ!? ひゃあぁっ!」

「お、お嬢様ー!」

突然の闖入者に驚いた拍子に、私の足が滑りました。
空を切る足先。傾く視界。
「しまった、重力加速度を計算に入れても、この高さからの着地はドレス……あ、今はズボンですけれど、とにかく無事では済みませんわ!」と、走馬灯のように計算式が浮かんだその瞬間。

ふわり、と。
硬い石畳ではなく、温かくて、妙にガッシリとした「何か」に受け止められました。

「おっと。計算違いだったかな、セリーナ嬢?」

見上げれば、そこにはレオナード殿下の整った顔が、至近距離にありました。
いわゆる「お姫様抱っこ」という、非常に非効率的で乙女チックな体勢です。

「……殿下。今の物理的な衝撃を吸収してくださったことには感謝いたします。ですが、業務中の私に予告なく声をかけるのは、労働安全衛生上の観点から見て極めて問題がありますわ」

私は心臓のバクバクを「高所からの落下の余波」だと言い聞かせ、必死に平静を装いました。

「ははは! 礼よりも先に説教か。君は本当に期待を裏切らないな。……それにしても、今日の格好はまた……。公爵令嬢が鼻の頭に白いペンキをつけている姿など、我が国の宮廷で見せたら貴婦人たちが失神するぞ」

「失神くらいで済むなら安いものですわ。それよりも殿下、なぜこんなところ……というより、あそこの生け垣の陰に立っていらしたのですか? 観察記録によると、殿下が姿を見せるまで三十分ほどあそこに潜んでいた計算になりますけれど?」

私は殿下の腕からぴょんと飛び降り、鋭い視線を向けました。
そう、私の魔導センサー(防犯用)は、ずっと前から不審な魔力反応を捉えていたのです。

「……気づいていたのか。いや、あまりにも君が楽しそうに、そして一心不乱に壁を塗っていたものだからな。声をかけてその芸術的なリズムを壊すのが、忍びなかったのだよ」

レオナード殿下は、少しだけきまり悪そうに視線を逸らしました。
その耳の先が、心なしか赤くなっているように見えるのは、西日のせいでしょうか。

「観察していただけなら結構ですわ。ですが、私の新技術を盗もうとなさるなら、相応の技術ライセンス料を……」

「盗むつもりはないよ。ただ……君を見ていると、私の国で窮屈そうにしている者たちが、いかに『無駄な常識』に縛られているかを痛感させられる。……壁を塗る君は、王宮で着飾っていた時よりも、ずっと光り輝いて見えるな」

レオナード殿下が、不意に真面目なトーンでそう言いました。
その瞳には、からかいの色も、嘲笑の欠片もありませんでした。
ただ純粋に、私の「生き方」そのものを肯定するような、熱い光が宿っていて。

「な、何を……! 光っているのは、塗料に含まれる魔晶石の微粒子が反射しているからですわ! 物理的な現象を情緒的な言葉で上書きしないでくださいまし!」

「……くく、そうだったな。君はそういう女だった」

レオナード殿下は再びいつものように笑うと、私の鼻の頭に指を伸ばしました。

「あ……」

「ついているぞ。……ふむ、なかなか落ちないな。この塗料、防水性能も相当なもののようだ」

彼の指先が、ほんの一瞬、私の鼻に触れました。
たったそれだけのことなのに、なぜか私の全身に、制御不能な魔力過負荷(オーバーロード)のような熱が駆け巡ります。

「ど、殿下! 私の顔に触れるのは、一回につき金貨三枚の特別追加料金が発生しますわ! 今の指先の接触時間は約0.5秒、端数は切り上げで金貨三枚です!」

「高いな。だが、払おう。君の顔がこれほど赤くなるのが見られるなら、安い買い物だ」

「赤くなっているのは、気温上昇による毛細血管の拡張ですわ!」

私は言い捨てると、刷毛を掴み直して、足場へとなだれ込むように戻りました。

「お嬢様、顔どころか耳まで真っ赤ですわよ?」

「ベティ! あなたはあっちの窓を磨いていなさい! 仕事が遅いですわよ!」

私は背後にレオナード殿下の楽しげな笑い声を聞きながら、狂ったような速さで壁を塗り続けました。
合理性。効率化。論理的思考。
私の武器であるはずのそれらが、あの王子の前では、どうしてこうも簡単に機能不全を起こしてしまうのでしょうか。

「……塗料の配合、間違えましたかしら。それとも、私の制御回路の方が壊れたのかしら……」

トントンと激しく叩くような胸の鼓動を、私は「作業による運動負荷」だと断定することにしました。
そう、そうに決まっていますわ。
決して、あの王子の覗き見……いえ、視線のせいなどではありませんもの!
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