「君は悪役令嬢だ!」と言われましたが、興味ありません。

パリパリかぷちーの

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翌朝、クライネルト侯爵家の朝食は、昨日までの重苦しい雰囲気が嘘のように、穏やかな空気に包まれていた。

その理由はひとえに、食卓の主役であるアーリヤにあった。

彼女の前には、黄金色に焼かれたパンケーキが三段に重ねられ、その上からは琥珀色のメープルシロップがとろりと惜しげもなくかけられている。

「……素晴らしい」

誰にも聞こえないほどの小さな声で呟き、アーリヤは銀のナイフとフォークを手にした。

その所作は完璧に洗練されているが、目だけは子供のようにキラキラと輝いている、ように見えなくもない。

向かいに座る父ヴィクトルは、コーヒーカップを片手に苦笑した。

「アーリヤ、お前は本当に幸せそうだな。昨夜、婚約破棄された令嬢とは到底思えんぞ」

「お父様、事象と感情を安易に結びつけるのは論理的ではありません。そして、このパンケーキが幸福感をもたらす物質であることは、科学的にも証明されています」

すらすらと答える娘に、ヴィクトルは「はいはい」と肩をすくめる。

母エレオノーラは、優雅に紅茶を飲みながら微笑んだ。

「それで、今日はどうするのですか? 少しはゆっくり……」

「いいえ、お母様」

アーリヤはパンケーキを一口頬張り、至福の表情で咀嚼してから答えた。

「本日は午後から、かねてより計画していた市場調査へと赴く予定です」

「市場調査?」

「はい。王都東地区における、菓子市場の動向調査および、新作スイーツのテイスティングです。これは、私の今後の人生設計における極めて重要な情報収集活動となります」

真顔で言う娘に、両親はもはや何も言うまい、と顔を見合わせて微笑むだけだった。



昼過ぎ、アーリヤは侍女の手を借りて、お忍び用の簡素なドレスに着替えていた。

派手な装飾のない、落ち着いた青色のワンピースに、髪は三つ編みにしてまとめる。これなら、誰も彼女がクライネルト侯爵令嬢だとは気づかないだろう。

「お嬢様、本当に、本当にお一人で行かれるのですか? せめて護衛の一人でも……」

心配そうに言う侍女に、アーリヤはきっぱりと告げた。

「不要です。護衛を連れていては、調査対象……いえ、お店の方に警戒心を与えてしまうわ。それに、万が一の事態に備えた護身術も王妃教育で習得済みです。問題ありません」

そう言って、小さなポシェットに必要なだけの銀貨を入れると、アーリヤは誰にも見送られず、裏口からそっと屋敷を抜け出した。

久しぶりに一人で歩く王都の街は、活気に満ち溢れていた。

石畳の道、行き交う人々の喧騒、パン屋から漂う香ばしい匂い。そのすべてが、アーリヤの心を軽くする。

(ああ、なんて素晴らしい……! 誰の目も気にせず、自分の歩きたい速さで歩けるなんて!)

王太子妃候補として歩くときは、常に半歩後ろを、優雅に見える歩幅で、などと面倒な制約が多すぎた。

アーリヤは、まるで籠から放たれた鳥のように、軽やかな足取りで目的地を目指す。

目指すは、東地区の路地裏にひっそりと佇む、小さなケーキ屋「パティスリー・ミモザ」。

ここの店主が作るモンブランこそ、アーリヤが「王都で最も完成された芸術品」と評価する至高の一品だった。

木の扉を開けると、カランコロン、と可愛らしいベルの音が鳴る。

甘く香ばしい匂いに満たされた店内で、アーリヤはショーケースに並んだ美しいケーキたちに目を細めた。

「いらっしゃいませ」

奥から出てきた人の良さそうな店主に、アーリヤは静かに告げる。

「モンブランを一つ。ここでいただいていきます」

「はいよ!」

窓際の小さなテーブル席に腰を下ろし、運ばれてきたモンブランを前にして、アーリヤはごくりと喉を鳴らした。

繊細な栗のクリームが、芸術的に絞られている。土台のメレンゲは、フォークを入れる前からサクサクなのが見て取れる。

(完璧なフォルム。クリームの光沢、メレンゲの焼き色、全てが黄金比に基づいているわ)

アーリヤは、まるで貴重な宝石でも鑑定するかのようにモンブランを観察した後、ゆっくりとフォークを入れた。

一口、口に運ぶ。

途端に、濃厚な栗の風味と上品な甘さが口いっぱいに広がった。クリームは滑らかで、サクサクのメレンゲが心地よい食感のアクセントになっている。

(……美味しい……!)

脳が、幸福という名の電気信号で満たされていくのがわかる。

アーリヤは、誰に見せるでもなく、至福のひとときに没頭していた。

無表情のまま、ただひたすらにモンブランと向き合う。それは、一種の儀式のようでもあった。

彼女が最後の一口を名残惜しそうに食べ終え、満足のため息をつこうとした、その時だった。

カランコロン。

店の扉が開き、一人の長身の男性が入ってきた。

飾り気のないシャツに黒いパンツというラフな格好だったが、その鍛え上げられた身体つきは隠しようもなかった。

(……どこかで見たような)

アーリヤがぼんやりと思っていると、その男性が店の中を見渡し、そして、アーリヤの姿を認めてぴたりと動きを止めた。

男性は驚きに見開かれた目で、数度瞬きをすると、ためらいがちにこちらへ歩いてくる。

そして、アーリヤのテーブルの横で立ち止まり、信じられない、といった声音で呟いた。

「……クライネルト、嬢……?」

アーリヤは、至福の時間を邪魔されたことに少しだけ眉を寄せながら、ゆっくりと顔を上げた。

そこに立っていたのは、昨日、壇上の隅で石像のように控えていた、王宮騎士団副団長のアッシュ・ウォーカーだった。

「…………」

「…………」

気まずい沈黙が、二人の間に流れる。

まさかこんな場所で、昨日婚約破棄されたばかりの侯爵令嬢と鉢合わせするとは。アッシュの顔には、そう書いてあった。

やがて、沈黙を破ったのはアーリヤの方だった。

彼女は、目の前の堅物な騎士をまっすぐに見据え、真剣な声音で言った。

「副団長。何かご用件ですか?」

「あ、いや、用件というか……なぜ、このような場所に……」

戸惑うアッシュに、アーリヤは心外だ、とでも言うように、しかし表情は変えずに続けた。

「私はいま、非常に重要な任務の遂行中なのですが」

「に、任務……?」

アッシュが怪訝な顔をする。

アーリヤは、目の前の空になったモンブランの皿を、細い指でとん、と示した。

「この店の新作ケーキのポテンシャルを分析し、今後の菓子市場における優位性を考察するという、極秘任務です。邪魔をしないでいただけますか」

真顔で言い切ったアーリヤに、アッシュはただ、あんぐりと口を開けて固まることしかできなかった。
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