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アッシュ・ウォーカーの護衛任務が始まって、五日が経過した。
彼の日常は、驚くほど平和で、そして甘い香りに満ちていた。
朝、アーリヤは自室の書斎で分厚い専門書を読みふける。アッシュが扉の外で控えていると、中からは時折、侍女が運ぶ紅茶の香りが漂ってくる。
昼になると、アーリヤは「副団長、行きますよ」とだけ告げ、お忍びの格好に着替えて街へ繰り出す。もちろん、目的地はケーキ屋かパティスリーだ。
アッシュは、彼女が真剣な顔でケーキを吟味し、無表情のまま至福の時間を過ごすのを、少し離れた場所から見守る。
そして夕方、屋敷に戻ると、彼女はまた書斎にこもり、今日食べたお菓子に関する詳細なレポートを作成するのだ。
(……これが、本当にあのクライネルト侯爵令嬢の日常なのか?)
アッシュは、日に日に深まる謎に、頭を抱えたくなっていた。
婚約破棄された令嬢が悲しみに暮れている様子は微塵もない。あるのは、菓子への情熱と、極めて合理的な(しかし、どこかズレている)日課だけだ。
今日もまた、平和な一日が過ぎていくのだろう。アッシュがそう思い始めた、その日の午後だった。
アーリヤは珍しく、レポート作成の手を止めると、父ヴィクトル侯爵の執務室へと向かった。
アッシュも、護衛としてその後ろに続く。
扉をノックして中に入ると、そこには凄惨な光景が広がっていた。
部屋の主であるヴィクトル侯爵が、まるで城壁のように積み上げられた羊皮紙の山に埋もれ、げっそりとした顔で頭を抱えていたのだ。
「お父様。生産性が著しく低下しているようにお見受けしますが」
アーリヤは、荒れ果てた執務室を一瞥して、淡々と告げた。
「……アーリヤか。見ての通りだ。仕事が、仕事がお父様を殺しにかかってきている……」
ヴィクトルが、うめくように言う。
例の婚約破棄の一件以来、王家との交渉や、それを聞きつけた領地からの陳情、商会からの問い合わせなどが殺到し、侯爵家の業務は完全にパンク状態に陥っていたのだ。
アーリヤは、書類の山に近づき、一番上にあった羊皮紙を一枚手に取って目を通した。
「なるほど。王家への慰謝料請求リストですね。項目が冗長で、論理的整合性が取れていません。これでは、相手の財務官僚に反論の隙を与えてしまいます」
「うっ……。わかっておるわ! だが、時間がないのだ!」
次に、別の山から一枚。
「こちらは、西の領地からの水路補修に関する陳情書。予算要求額が、過去の同規模工事の事例と比較して20%も高い。水増し請求の可能性がありますね。再調査を命じるべきです」
「な、なんだと!?」
ヴィクトルが、がばりと顔を上げる。
アーリヤは、そんな父を気にも留めず、静かに提案した。
「お父様。このままでは過労で倒れてしまいます。そうなれば、クライネルト家全体の損失です」
「……」
「私が、手伝いましょうか?」
その言葉に、ヴィクトルは疲れ切った目で娘を見た。
「お前に……? お前に、この複雑な領地経営の書類仕事がわかると言うのか」
「断言はできません。ですが、試算してみる価値はあります」
アーリヤは執務室全体を見渡し、驚くべきことを言った。
「王妃教育課程において、国家予算レベルの書類管理術、情報分析、高速処理技術を習得しています。この執務室にある業務量を視覚的に分析した結果、全体の約35%は、私であれば三時間以内に処理可能です」
「……さんじかん……?」
ヴィクトルも、そして部屋の隅で控えていたアッシュも、唖然としてアーリヤを見た。
ヴィクトルが数日かかっても終わりそうにない仕事量を、たった三時間で?
「冗談だろう……」
「私は、非効率的な冗談は言いません」
アーリヤは、父の返事を待たずに、近くの書類の山から数枚を抜き取ると、空いているテーブルに広げた。
そして、インク壺と羽ペンを引き寄せると、椅子に腰掛けた。
「まずは、緊急性の高いものから片付けましょう。優先順位は、対王家、対領地、対商会の順でよろしいですね?」
「あ、ああ……」
ヴィクトルが呆然と頷くと、アーリヤは驚異的な集中力で仕事に取り掛かった。
その瞬間から、アッシュは信じられない光景を目の当たりにすることになる。
サラサラと、羽ペンが羊皮紙の上を滑る音だけが、部屋に響く。
アーリヤの目は、恐るべき速さで書類の文字を追い、その内容は瞬時に頭の中で整理され、的確な指示や修正が書き込まれていく。
「お父様、三年前の商会との契約書の控えはどこに?」
「これについて、関連法案の第7条第2項を参照してください」
「この陳情書、感情的な訴えが多くて要点が不明瞭です。フォーマットを統一して再提出させましょう。テンプレートは今、作成します」
無駄な動きが一切ない。その姿は、まるで精密機械のようだった。
今までアッシュが見てきた、ケーキを前にして微かに頬を緩ませる姿とは、まるで別人だ。
ヴィクトル侯爵も、最初は半信半疑で見ていたが、娘が仕上げていく完璧な書類の数々に、次第に驚き、感嘆し、そして最後には誇らしげな表情を浮かべていた。
本当に、三時間後。
執務室の書類の山は、見るからにその高さを減らしていた。
アーリヤは、最後に書き上げた書類をきれいに整えると、ふぅ、と小さな息をついて立ち上がった。
「本日の処理はここまでです。残りのタスクについては、優先順位と処理方法をまとめたリストを作成しておきましたので、ご参照ください」
「……おお……」
ヴィクトルは、リストを受け取り、ただただ感嘆の声を漏らすばかりだった。
アッシュは、衝撃でその場に立ち尽くしていた。
(この人は……一体、何者なんだ……?)
甘いものが好きな、少し変わっただけの令嬢ではなかった。
その頭脳には、一つの国を動かせるほどの知識と能力が秘められている。
そんな規格外の才能を持ちながら、彼女は普段、それを隠して(あるいは、使う必要がないから使わずに)、ひたすらお菓子を追い求めているのだ。
その計り知れないギャップに、アッシュはめまいすら覚えた。
そんなアッシュの心中を知らないアーリヤは、いつも通りの無表情で彼の方を振り返った。
「お待たせしました、副団長」
「はっ……!」
我に返ったアッシュが、慌てて背筋を伸ばす。
「それでは、本日の市場調査に出かけましょう。目的地は、中央広場に新しくできた店の、窯出しシュークリームです。クリームの鮮度が落ちる前に、急ぎますよ」
さっきまで国家レベルの書類仕事を片付けていた人間と、同一人物のセリフとは到底思えない。
そのあまりにも華麗な切り替えに、アッシュはもう、ただ頷くことしかできなかった。
「は、はい……!」
アーリヤの持つ、いくつもの意外な顔。
アッシュは、この謎めいた令嬢から、ますます目が離せなくなっている自分に気づいていた。
彼の日常は、驚くほど平和で、そして甘い香りに満ちていた。
朝、アーリヤは自室の書斎で分厚い専門書を読みふける。アッシュが扉の外で控えていると、中からは時折、侍女が運ぶ紅茶の香りが漂ってくる。
昼になると、アーリヤは「副団長、行きますよ」とだけ告げ、お忍びの格好に着替えて街へ繰り出す。もちろん、目的地はケーキ屋かパティスリーだ。
アッシュは、彼女が真剣な顔でケーキを吟味し、無表情のまま至福の時間を過ごすのを、少し離れた場所から見守る。
そして夕方、屋敷に戻ると、彼女はまた書斎にこもり、今日食べたお菓子に関する詳細なレポートを作成するのだ。
(……これが、本当にあのクライネルト侯爵令嬢の日常なのか?)
アッシュは、日に日に深まる謎に、頭を抱えたくなっていた。
婚約破棄された令嬢が悲しみに暮れている様子は微塵もない。あるのは、菓子への情熱と、極めて合理的な(しかし、どこかズレている)日課だけだ。
今日もまた、平和な一日が過ぎていくのだろう。アッシュがそう思い始めた、その日の午後だった。
アーリヤは珍しく、レポート作成の手を止めると、父ヴィクトル侯爵の執務室へと向かった。
アッシュも、護衛としてその後ろに続く。
扉をノックして中に入ると、そこには凄惨な光景が広がっていた。
部屋の主であるヴィクトル侯爵が、まるで城壁のように積み上げられた羊皮紙の山に埋もれ、げっそりとした顔で頭を抱えていたのだ。
「お父様。生産性が著しく低下しているようにお見受けしますが」
アーリヤは、荒れ果てた執務室を一瞥して、淡々と告げた。
「……アーリヤか。見ての通りだ。仕事が、仕事がお父様を殺しにかかってきている……」
ヴィクトルが、うめくように言う。
例の婚約破棄の一件以来、王家との交渉や、それを聞きつけた領地からの陳情、商会からの問い合わせなどが殺到し、侯爵家の業務は完全にパンク状態に陥っていたのだ。
アーリヤは、書類の山に近づき、一番上にあった羊皮紙を一枚手に取って目を通した。
「なるほど。王家への慰謝料請求リストですね。項目が冗長で、論理的整合性が取れていません。これでは、相手の財務官僚に反論の隙を与えてしまいます」
「うっ……。わかっておるわ! だが、時間がないのだ!」
次に、別の山から一枚。
「こちらは、西の領地からの水路補修に関する陳情書。予算要求額が、過去の同規模工事の事例と比較して20%も高い。水増し請求の可能性がありますね。再調査を命じるべきです」
「な、なんだと!?」
ヴィクトルが、がばりと顔を上げる。
アーリヤは、そんな父を気にも留めず、静かに提案した。
「お父様。このままでは過労で倒れてしまいます。そうなれば、クライネルト家全体の損失です」
「……」
「私が、手伝いましょうか?」
その言葉に、ヴィクトルは疲れ切った目で娘を見た。
「お前に……? お前に、この複雑な領地経営の書類仕事がわかると言うのか」
「断言はできません。ですが、試算してみる価値はあります」
アーリヤは執務室全体を見渡し、驚くべきことを言った。
「王妃教育課程において、国家予算レベルの書類管理術、情報分析、高速処理技術を習得しています。この執務室にある業務量を視覚的に分析した結果、全体の約35%は、私であれば三時間以内に処理可能です」
「……さんじかん……?」
ヴィクトルも、そして部屋の隅で控えていたアッシュも、唖然としてアーリヤを見た。
ヴィクトルが数日かかっても終わりそうにない仕事量を、たった三時間で?
「冗談だろう……」
「私は、非効率的な冗談は言いません」
アーリヤは、父の返事を待たずに、近くの書類の山から数枚を抜き取ると、空いているテーブルに広げた。
そして、インク壺と羽ペンを引き寄せると、椅子に腰掛けた。
「まずは、緊急性の高いものから片付けましょう。優先順位は、対王家、対領地、対商会の順でよろしいですね?」
「あ、ああ……」
ヴィクトルが呆然と頷くと、アーリヤは驚異的な集中力で仕事に取り掛かった。
その瞬間から、アッシュは信じられない光景を目の当たりにすることになる。
サラサラと、羽ペンが羊皮紙の上を滑る音だけが、部屋に響く。
アーリヤの目は、恐るべき速さで書類の文字を追い、その内容は瞬時に頭の中で整理され、的確な指示や修正が書き込まれていく。
「お父様、三年前の商会との契約書の控えはどこに?」
「これについて、関連法案の第7条第2項を参照してください」
「この陳情書、感情的な訴えが多くて要点が不明瞭です。フォーマットを統一して再提出させましょう。テンプレートは今、作成します」
無駄な動きが一切ない。その姿は、まるで精密機械のようだった。
今までアッシュが見てきた、ケーキを前にして微かに頬を緩ませる姿とは、まるで別人だ。
ヴィクトル侯爵も、最初は半信半疑で見ていたが、娘が仕上げていく完璧な書類の数々に、次第に驚き、感嘆し、そして最後には誇らしげな表情を浮かべていた。
本当に、三時間後。
執務室の書類の山は、見るからにその高さを減らしていた。
アーリヤは、最後に書き上げた書類をきれいに整えると、ふぅ、と小さな息をついて立ち上がった。
「本日の処理はここまでです。残りのタスクについては、優先順位と処理方法をまとめたリストを作成しておきましたので、ご参照ください」
「……おお……」
ヴィクトルは、リストを受け取り、ただただ感嘆の声を漏らすばかりだった。
アッシュは、衝撃でその場に立ち尽くしていた。
(この人は……一体、何者なんだ……?)
甘いものが好きな、少し変わっただけの令嬢ではなかった。
その頭脳には、一つの国を動かせるほどの知識と能力が秘められている。
そんな規格外の才能を持ちながら、彼女は普段、それを隠して(あるいは、使う必要がないから使わずに)、ひたすらお菓子を追い求めているのだ。
その計り知れないギャップに、アッシュはめまいすら覚えた。
そんなアッシュの心中を知らないアーリヤは、いつも通りの無表情で彼の方を振り返った。
「お待たせしました、副団長」
「はっ……!」
我に返ったアッシュが、慌てて背筋を伸ばす。
「それでは、本日の市場調査に出かけましょう。目的地は、中央広場に新しくできた店の、窯出しシュークリームです。クリームの鮮度が落ちる前に、急ぎますよ」
さっきまで国家レベルの書類仕事を片付けていた人間と、同一人物のセリフとは到底思えない。
そのあまりにも華麗な切り替えに、アッシュはもう、ただ頷くことしかできなかった。
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アーリヤの持つ、いくつもの意外な顔。
アッシュは、この謎めいた令嬢から、ますます目が離せなくなっている自分に気づいていた。
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