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父の仕事を手伝うようになってから、アーリヤの日課に新たな項目が追加された。
それは、「気分転換と、脳への糖分補給を目的とした、計画的菓子製造」である。
そして、その活動場所に指定されたクライネルト侯爵家の厨房は、アーリヤの護衛であるアッシュにとって、新たな驚愕の舞台となった。
「料理長、この銅鍋の熱伝導率のデータはありますか?」
「は、はぁ……データ、でございますか?」
「ええ。正確な温度管理のため、素材の特性を数値で把握しておく必要がありますので」
純白のエプロンをつけたアーリヤが、真剣な顔で問いかける。屈強な料理長は、まるで魔法の呪文でも聞かされたかのように、目を白黒させていた。
アッシュは、厨房の隅に直立不動で控えながら、目の前で繰り広げられる光景を信じられない思いで眺めていた。
アーリヤは、まるで精密な科学実験でも行うかのように、お菓子作りに取り組んでいた。
小麦粉、砂糖、卵、バター。並べられた材料は、天秤を使って0.1グラムの狂いもなく正確に計量される。
ボウルで生地を混ぜる手つきは滑らかで無駄がなく、バターを火にかける際には、温度計で温度を細かくチェックしている。
「お嬢様……その、バターが少し焦げすぎでは……」
心配そうに声をかけた料理人に、アーリヤは温度計を一瞥して答えた。
「問題ありません。フィナンシェに最適な風味を引き出す焦がしバターの温度は125℃。現在、124.8℃です。誤差の範囲内と言えるでしょう」
「は、はぁ……」
もはや、厨房の料理人たちは誰一人アーリヤに口を出すことなく、ただただ遠巻きに、畏敬の念のこもった眼差しで彼女の手元を見守るだけだった。
やがて、甘く芳醇な香りが厨房いっぱいに広がり始める。
オーブンから取り出されたのは、美しい黄金色に輝く、小さな金の延べ棒の形をしたお菓子――フィナンシェだった。
「ふむ。焼き色、膨らみ、香り、全て計算通りですね」
アーリヤは一つを手に取ると、完璧な出来栄えに満足げに頷いた。
そして、彼女はこちらで固唾を飲んで見守っていたアッシュの方を振り返った。
「副団長」
「はっ!」
突然名前を呼ばれ、アッシュは思わず背筋を伸ばす。
アーリヤは、焼き立てのフィナンシェが乗った皿を、アッシュの目の前にすっと差し出した。
「試作品です。品質管理のため、第三者による客観的な評価が必要となります。これも護衛の任務の一環として、食後の感想を報告してください」
「えっ……いや、しかし、私は……」
アッシュは戸惑った。彼は甘いものが特別好きなわけではない。どちらかと言えば、苦手な部類に入る。
兵舎で出る乾パンや、たまに配給される砂糖菓子は、ただ空腹を満たすためのものでしかなく、美味しいと感じたことはほとんどなかった。
「何か問題でも? それとも、職務命令に背くと?」
アーリヤの無表情な瞳が、じっとアッシュを射抜く。
その目に逆らうことなどできるはずもなく、アッシュは観念して、恐る恐る皿からフィナンシェを一つ手に取った。
まだ、ほんのりと温かい。
(……仕方ない。任務だ)
意を決して、アッシュはフィナンシェを一口、口に運んだ。
その瞬間、アッシュの世界は変わった。
「――っ!?」
まず、外側のカリッとした食感に驚かされる。そして次の瞬間、内側の驚くほどしっとりとした生地が、舌の上でほろりと解けた。
鼻腔を突き抜けるのは、今まで嗅いだことのないような、深く、香ばしい焦がしバターの芳醇な香り。
噛みしめると、アーモンドの豊かな風味と、上品で嫌味のない甘さが口いっぱいに広がる。
パサパサした、ただ甘いだけの焼き菓子とは全く違う。
一つ一つの素材の味が完璧なバランスで調和し、一つの完成された「美味しさ」となって、味蕾を激しく揺さぶってくる。
アッシュは、衝撃のあまり言葉を失い、ただ目を見開いて固まった。
そんな彼の反応を見て、アーリヤは静かに分析結果を述べ始めた。
「バターの焦がし具合は、メイラード反応を最大限に引き出しつつ、苦味が出ない臨界点を見極めました。アーモンドプードルと小麦粉の比率は6:4が、このしっとりとした食感を生み出す黄金比です」
「…………」
「ご満足いただけた、と解釈してよろしいですね?」
アッシュは、こく、こくと、まるで壊れた人形のように頷くことしかできなかった。
そして、無意識のうちに、残りのフィナンシェを夢中で口の中に放り込んでいた。
「美味しい……」
やっとのことで絞り出したのは、そんなありきたりな一言だった。
だが、その声は感動でわずかに震えていた。
アーリヤは、その反応に少しだけ満足したのか、今度は隣に置いてあった別の皿を差し出した。
「こちらはマドレーヌです。レモンの皮のすりおろし方を0.1ミリ単位で調整し、香りが最も立つように工夫しました。評価をお願いします」
アッシュは、もはや断るという選択肢を失っていた。
彼の胃袋は、完全にアーリヤの作り出す完璧な甘味の虜になってしまったのだ。
マドレーヌも、クッキーも、その全てが驚異的な美味しさだった。
(この人は……魔法使いか何かなのか……?)
アッシュは、アーリヤという人間の底知れなさに、改めて戦慄した。
そして同時に、今まで感じたことのない強い感情が、胸の奥から湧き上がってくるのを感じていた。
この人の作るものを、もっと食べたい。
その純粋で、抗いがたい欲求。
それからというもの、任務の合間にアーリヤが「試作品です」と差し出すお菓子が、アッシュにとって何よりの楽しみになったことを、まだ彼自身は気づいていなかった。
それは、「気分転換と、脳への糖分補給を目的とした、計画的菓子製造」である。
そして、その活動場所に指定されたクライネルト侯爵家の厨房は、アーリヤの護衛であるアッシュにとって、新たな驚愕の舞台となった。
「料理長、この銅鍋の熱伝導率のデータはありますか?」
「は、はぁ……データ、でございますか?」
「ええ。正確な温度管理のため、素材の特性を数値で把握しておく必要がありますので」
純白のエプロンをつけたアーリヤが、真剣な顔で問いかける。屈強な料理長は、まるで魔法の呪文でも聞かされたかのように、目を白黒させていた。
アッシュは、厨房の隅に直立不動で控えながら、目の前で繰り広げられる光景を信じられない思いで眺めていた。
アーリヤは、まるで精密な科学実験でも行うかのように、お菓子作りに取り組んでいた。
小麦粉、砂糖、卵、バター。並べられた材料は、天秤を使って0.1グラムの狂いもなく正確に計量される。
ボウルで生地を混ぜる手つきは滑らかで無駄がなく、バターを火にかける際には、温度計で温度を細かくチェックしている。
「お嬢様……その、バターが少し焦げすぎでは……」
心配そうに声をかけた料理人に、アーリヤは温度計を一瞥して答えた。
「問題ありません。フィナンシェに最適な風味を引き出す焦がしバターの温度は125℃。現在、124.8℃です。誤差の範囲内と言えるでしょう」
「は、はぁ……」
もはや、厨房の料理人たちは誰一人アーリヤに口を出すことなく、ただただ遠巻きに、畏敬の念のこもった眼差しで彼女の手元を見守るだけだった。
やがて、甘く芳醇な香りが厨房いっぱいに広がり始める。
オーブンから取り出されたのは、美しい黄金色に輝く、小さな金の延べ棒の形をしたお菓子――フィナンシェだった。
「ふむ。焼き色、膨らみ、香り、全て計算通りですね」
アーリヤは一つを手に取ると、完璧な出来栄えに満足げに頷いた。
そして、彼女はこちらで固唾を飲んで見守っていたアッシュの方を振り返った。
「副団長」
「はっ!」
突然名前を呼ばれ、アッシュは思わず背筋を伸ばす。
アーリヤは、焼き立てのフィナンシェが乗った皿を、アッシュの目の前にすっと差し出した。
「試作品です。品質管理のため、第三者による客観的な評価が必要となります。これも護衛の任務の一環として、食後の感想を報告してください」
「えっ……いや、しかし、私は……」
アッシュは戸惑った。彼は甘いものが特別好きなわけではない。どちらかと言えば、苦手な部類に入る。
兵舎で出る乾パンや、たまに配給される砂糖菓子は、ただ空腹を満たすためのものでしかなく、美味しいと感じたことはほとんどなかった。
「何か問題でも? それとも、職務命令に背くと?」
アーリヤの無表情な瞳が、じっとアッシュを射抜く。
その目に逆らうことなどできるはずもなく、アッシュは観念して、恐る恐る皿からフィナンシェを一つ手に取った。
まだ、ほんのりと温かい。
(……仕方ない。任務だ)
意を決して、アッシュはフィナンシェを一口、口に運んだ。
その瞬間、アッシュの世界は変わった。
「――っ!?」
まず、外側のカリッとした食感に驚かされる。そして次の瞬間、内側の驚くほどしっとりとした生地が、舌の上でほろりと解けた。
鼻腔を突き抜けるのは、今まで嗅いだことのないような、深く、香ばしい焦がしバターの芳醇な香り。
噛みしめると、アーモンドの豊かな風味と、上品で嫌味のない甘さが口いっぱいに広がる。
パサパサした、ただ甘いだけの焼き菓子とは全く違う。
一つ一つの素材の味が完璧なバランスで調和し、一つの完成された「美味しさ」となって、味蕾を激しく揺さぶってくる。
アッシュは、衝撃のあまり言葉を失い、ただ目を見開いて固まった。
そんな彼の反応を見て、アーリヤは静かに分析結果を述べ始めた。
「バターの焦がし具合は、メイラード反応を最大限に引き出しつつ、苦味が出ない臨界点を見極めました。アーモンドプードルと小麦粉の比率は6:4が、このしっとりとした食感を生み出す黄金比です」
「…………」
「ご満足いただけた、と解釈してよろしいですね?」
アッシュは、こく、こくと、まるで壊れた人形のように頷くことしかできなかった。
そして、無意識のうちに、残りのフィナンシェを夢中で口の中に放り込んでいた。
「美味しい……」
やっとのことで絞り出したのは、そんなありきたりな一言だった。
だが、その声は感動でわずかに震えていた。
アーリヤは、その反応に少しだけ満足したのか、今度は隣に置いてあった別の皿を差し出した。
「こちらはマドレーヌです。レモンの皮のすりおろし方を0.1ミリ単位で調整し、香りが最も立つように工夫しました。評価をお願いします」
アッシュは、もはや断るという選択肢を失っていた。
彼の胃袋は、完全にアーリヤの作り出す完璧な甘味の虜になってしまったのだ。
マドレーヌも、クッキーも、その全てが驚異的な美味しさだった。
(この人は……魔法使いか何かなのか……?)
アッシュは、アーリヤという人間の底知れなさに、改めて戦慄した。
そして同時に、今まで感じたことのない強い感情が、胸の奥から湧き上がってくるのを感じていた。
この人の作るものを、もっと食べたい。
その純粋で、抗いがたい欲求。
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