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「……ああ、この不自然なまでの白さ。そして鼻をつくバラの芳香。……セバス、私は天国に召されたのかしら。それとも、ここは地獄の最下層?」
私は、王宮にある「元」自分の部屋の天蓋ベッドの上で、死んだ魚のような目をして天井を仰いでいた。
シーツは最高級のシルク。部屋の隅々まで磨き上げられ、窓からは降り注ぐような日差しと共に、出所不明のキラキラ粒子が舞い込んでいる。
「お嬢様。残念ながら、ここは現実です。そして、ここは天国でも地獄でもなく、お嬢様が十年間『胃もたれ』と戦い続けてきたアステリア公爵令嬢の私室ですよ」
セバスが、冷え切った紅茶を淹れながら事務的に答える。
彼はいつの間にか、下町の定食屋のエプロンを脱ぎ捨て、隙のない完璧な執事服に着替えていた。
「嫌よ、信じたくないわ! 私の鼻は、まだあの『熊の胃袋亭』のラードが焦げる香ばしい匂いを求めているのよ! なのに、何よこの部屋は。清潔すぎて逆にバイ菌が湧きそうだわ!」
「バイ菌は湧きませんが、お嬢様のストレスは爆発寸前のようですね。……はい、いつもの強めの胃薬です。お飲みください」
私は差し出された薬を、水もなしにガリガリと噛み砕いた。
苦味が口の中に広がるが、今の私にはこの刺激こそが唯一の救いだ。
「……ねえ、セバス。あのバカ王子……失礼、シリウス殿下は今どこに?」
「廊下で待機しておられます。お嬢様が『高貴な身に相応しい着替え』を済ませるのを、今か今かと、背景に薔薇を散らしながら待っておいでです。……ちなみに、一分間に三回のペースで扉に向かってウィンクを飛ばしておられますね」
「一分間に三回!? もはや痙攣(けいれん)じゃないの! あんなのをまともに食らったら、私の網膜が焼き切れてしまうわ!」
私はベッドの上でのたうち回った。
無理やり連れ戻されてから数時間。
私は「行方不明だった悲劇の婚約者」として、手厚すぎる保護……という名の監禁を受けていた。
その時、扉がノックもなしに勢いよく開かれた。
「ターニャ! 愛しの我が蝶々よ! 着替えは終わったかな? ああ、君の姿を一秒でも早くこの瞳に焼き付けたくて、僕は……僕は……ッ!」
扉から溢れ出したのは、物理的な「光」だった。
シリウス殿下。彼は今や変装のボロ布を脱ぎ捨て、純白に金の刺繍が施された、正視に耐えないほど豪華な礼装に身を包んでいた。
「ひ……ひぃぃぃぃっ! 目が、目がぁぁぁぁ!」
私は咄嗟に枕で顔を覆った。
しかし、王子の放つ「キラキラオーラ」は布切れ一枚など容易に貫通してくる。
「ふふ、そんなに照れなくてもいいんだよ、ターニャ。……さあ、顔を見せておくれ。君の泥だらけだった肌が、王宮の聖なる水で再び真珠の輝きを取り戻したところを……」
シリウスは優雅な足取りでベッドに近づき、私の枕を優しく引き剥がした。
至近距離。
そこには、神が全精力を注いで作り上げたような、非の打ち所のない「完璧すぎる美顔」があった。
「……っ。……う、うぷっ」
「ああ、なんてことだ! 感動のあまり、言葉も出ないのかい?」
シリウスは私の頬をそっとなぞり、自慢の青い瞳を細めて……パチリとウィンクをした。
(……一回。)
「君を失っていた数日間、僕の世界はモノクロームだった。だが、今こうして君の香りを嗅ぐだけで、僕の心には虹がかかる……」
(パチリ。……二回。)
「二度と離さないよ。たとえ君が、また泥遊び(皿洗い)をしたくなっても、僕がその泥をすべて金粉に変えてあげよう」
(パチリ。……三回。……一秒間に三回って、セバスの予言通りじゃない!!)
私は胃のあたりを突き上げる、かつてないほど激しい「もたれ感」に襲われた。
この男の顔面は、もはや兵器だ。
脂っこいものを食べ過ぎて気持ち悪くなるのとは次元が違う。
「美」という名の純粋な暴力が、私の内臓を雑巾絞りにしている。
「……殿下……。お願いですから……その、背景のバラを……閉まってください……。……あと、まぶたの運動も……控えて……」
「ふふ、シャイな僕の天使。……体調が悪いのかい? ああ、そうか! 急に僕という強すぎる光を浴びたから、体が驚いているんだね。……愛の好転反応だ、喜ばしいよ!」
「(喜ばしいわけあるかぁぁぁぁ!!)」
私は心の中で絶叫し、再びベッドに沈み込んだ。
「セバス……。セバス、どこ……。助けて……」
「お嬢様、私はここですよ。……殿下、あまりお嬢様を追い詰めないでいただけますか。彼女は現在、重度の『美形酔い』を起こしております」
セバスが絶妙なタイミングでシリウスの肩に手を置いた。
「美形酔い? ……なるほど。僕が美しすぎる罪だね。……わかった、今日はこれくらいにしておこう。……ターニャ、今夜の晩餐は君の大好きなものを最高級のシェフに用意させたよ。楽しみにしていておくれ」
シリウスは最後にもう一度、核爆発級のスマイルを置き残して、軽やかに部屋を去っていった。
彼が通った後の廊下には、物理的な金粉がうっすらと積もっていたという。
「……セバス。……大好きなものって、何かしら」
「……おそらく、お嬢様が定食屋で食べていたものを『王宮流』にアレンジしたものでしょう。……嫌な予感しかいたしませんね」
「……私もよ。……ねえセバス、今のうちにこの窓から逃げられないかしら」
「窓の下には、殿下が配置した『ターニャ様を見守る騎士団』が、隙間なく整列しております。……残念ながら、お嬢様の自由は、このキラキラした牢獄の中に閉じ込められてしまったようです」
私は、再び胃の痛みを感じながら、窓の外に広がる「眩しすぎる庭園」を呪うように見つめた。
皿洗いの日々が、遠い昔の夢のように感じられた。
私は、王宮にある「元」自分の部屋の天蓋ベッドの上で、死んだ魚のような目をして天井を仰いでいた。
シーツは最高級のシルク。部屋の隅々まで磨き上げられ、窓からは降り注ぐような日差しと共に、出所不明のキラキラ粒子が舞い込んでいる。
「お嬢様。残念ながら、ここは現実です。そして、ここは天国でも地獄でもなく、お嬢様が十年間『胃もたれ』と戦い続けてきたアステリア公爵令嬢の私室ですよ」
セバスが、冷え切った紅茶を淹れながら事務的に答える。
彼はいつの間にか、下町の定食屋のエプロンを脱ぎ捨て、隙のない完璧な執事服に着替えていた。
「嫌よ、信じたくないわ! 私の鼻は、まだあの『熊の胃袋亭』のラードが焦げる香ばしい匂いを求めているのよ! なのに、何よこの部屋は。清潔すぎて逆にバイ菌が湧きそうだわ!」
「バイ菌は湧きませんが、お嬢様のストレスは爆発寸前のようですね。……はい、いつもの強めの胃薬です。お飲みください」
私は差し出された薬を、水もなしにガリガリと噛み砕いた。
苦味が口の中に広がるが、今の私にはこの刺激こそが唯一の救いだ。
「……ねえ、セバス。あのバカ王子……失礼、シリウス殿下は今どこに?」
「廊下で待機しておられます。お嬢様が『高貴な身に相応しい着替え』を済ませるのを、今か今かと、背景に薔薇を散らしながら待っておいでです。……ちなみに、一分間に三回のペースで扉に向かってウィンクを飛ばしておられますね」
「一分間に三回!? もはや痙攣(けいれん)じゃないの! あんなのをまともに食らったら、私の網膜が焼き切れてしまうわ!」
私はベッドの上でのたうち回った。
無理やり連れ戻されてから数時間。
私は「行方不明だった悲劇の婚約者」として、手厚すぎる保護……という名の監禁を受けていた。
その時、扉がノックもなしに勢いよく開かれた。
「ターニャ! 愛しの我が蝶々よ! 着替えは終わったかな? ああ、君の姿を一秒でも早くこの瞳に焼き付けたくて、僕は……僕は……ッ!」
扉から溢れ出したのは、物理的な「光」だった。
シリウス殿下。彼は今や変装のボロ布を脱ぎ捨て、純白に金の刺繍が施された、正視に耐えないほど豪華な礼装に身を包んでいた。
「ひ……ひぃぃぃぃっ! 目が、目がぁぁぁぁ!」
私は咄嗟に枕で顔を覆った。
しかし、王子の放つ「キラキラオーラ」は布切れ一枚など容易に貫通してくる。
「ふふ、そんなに照れなくてもいいんだよ、ターニャ。……さあ、顔を見せておくれ。君の泥だらけだった肌が、王宮の聖なる水で再び真珠の輝きを取り戻したところを……」
シリウスは優雅な足取りでベッドに近づき、私の枕を優しく引き剥がした。
至近距離。
そこには、神が全精力を注いで作り上げたような、非の打ち所のない「完璧すぎる美顔」があった。
「……っ。……う、うぷっ」
「ああ、なんてことだ! 感動のあまり、言葉も出ないのかい?」
シリウスは私の頬をそっとなぞり、自慢の青い瞳を細めて……パチリとウィンクをした。
(……一回。)
「君を失っていた数日間、僕の世界はモノクロームだった。だが、今こうして君の香りを嗅ぐだけで、僕の心には虹がかかる……」
(パチリ。……二回。)
「二度と離さないよ。たとえ君が、また泥遊び(皿洗い)をしたくなっても、僕がその泥をすべて金粉に変えてあげよう」
(パチリ。……三回。……一秒間に三回って、セバスの予言通りじゃない!!)
私は胃のあたりを突き上げる、かつてないほど激しい「もたれ感」に襲われた。
この男の顔面は、もはや兵器だ。
脂っこいものを食べ過ぎて気持ち悪くなるのとは次元が違う。
「美」という名の純粋な暴力が、私の内臓を雑巾絞りにしている。
「……殿下……。お願いですから……その、背景のバラを……閉まってください……。……あと、まぶたの運動も……控えて……」
「ふふ、シャイな僕の天使。……体調が悪いのかい? ああ、そうか! 急に僕という強すぎる光を浴びたから、体が驚いているんだね。……愛の好転反応だ、喜ばしいよ!」
「(喜ばしいわけあるかぁぁぁぁ!!)」
私は心の中で絶叫し、再びベッドに沈み込んだ。
「セバス……。セバス、どこ……。助けて……」
「お嬢様、私はここですよ。……殿下、あまりお嬢様を追い詰めないでいただけますか。彼女は現在、重度の『美形酔い』を起こしております」
セバスが絶妙なタイミングでシリウスの肩に手を置いた。
「美形酔い? ……なるほど。僕が美しすぎる罪だね。……わかった、今日はこれくらいにしておこう。……ターニャ、今夜の晩餐は君の大好きなものを最高級のシェフに用意させたよ。楽しみにしていておくれ」
シリウスは最後にもう一度、核爆発級のスマイルを置き残して、軽やかに部屋を去っていった。
彼が通った後の廊下には、物理的な金粉がうっすらと積もっていたという。
「……セバス。……大好きなものって、何かしら」
「……おそらく、お嬢様が定食屋で食べていたものを『王宮流』にアレンジしたものでしょう。……嫌な予感しかいたしませんね」
「……私もよ。……ねえセバス、今のうちにこの窓から逃げられないかしら」
「窓の下には、殿下が配置した『ターニャ様を見守る騎士団』が、隙間なく整列しております。……残念ながら、お嬢様の自由は、このキラキラした牢獄の中に閉じ込められてしまったようです」
私は、再び胃の痛みを感じながら、窓の外に広がる「眩しすぎる庭園」を呪うように見つめた。
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