6 / 28
6
しおりを挟む
「イザベル。昨夜、君が提出した『公爵領主要道路の物流最適化案』だが……」
翌朝。アリストテレス公爵は、朝食の席で手元の書類を凝視していた。
彼の前には、完璧な黄金色に焼き上がったトーストと、一ミリの狂いもなく配置されたカトラリー、そして優雅に紅茶を啜るイザベルの姿がある。
「はい。何か不明な点でも? コスト計算については三度検算しておりますわ」
「いや、内容は完璧だ。完璧すぎて、我が領の技師たちが『自分たちの存在意義が疑われる』と泣きついてきた。……それから、この朝食も君の指示か?」
イザベルはカップを置き、事務的な微笑みを浮かべた。
「ええ。シェフの動線を分析したところ、冷蔵庫からコンロまでの移動距離に三メートルの無駄がありました。配置を九十度変更させた結果、調理時間は十五パーセント短縮、パンの温度も理想的な状態を維持できています」
「……トーストの焼き加減までマネジメントする令嬢が、この世に君以外にいるだろうか」
アリストテレスは呆れ半分、感嘆半分でパンを口に運んだ。
確かに美味い。驚くほどに。
これまで「食事は栄養を摂取するための作業」と考えていた彼ですら、その効率的な美味しさに舌を巻いた。
「ところで公爵様。先ほどから視線が書類と私の間を往復していますが、目の筋肉の無駄遣いです。質問があるなら、箇条書きで三点以内にまとめていただけますか?」
「……相変わらず容赦ないな。では一点目だ。君は昨夜、いつ寝たんだ?」
「睡眠は一日のパフォーマンスを維持するための必要経費(コスト)です。午前二時から六時までの四時間、集中的に質の高い睡眠(コアスリープ)を確保しました。進捗に遅れはありません」
「二点目。……君は、私とこうして食事をすることを、どう思っている」
アリストテレスが少しだけ声を低くし、真剣な眼差しを向けた。
普通の令嬢なら、氷の公爵と呼ばれる彼の端正な顔立ちを間近に見て、顔を赤らめる場面である。
「どう、とは? 公爵様と情報共有を行いながら栄養を摂取するのは、非常に合理的な時間の使い方だと思いますが。……あ、もしかして、私がサラダを食べる音がうるさかったでしょうか?」
「……いや、そうではない。……いい、三点目だ。君が国境で直した、あの私の馬車だが」
アリストテレスは少し言い淀んだ。
彼はあの日、イザベルが鮮やかな手際で馬車を修理した際、彼女の瞳が宝石のように輝いていたのを鮮明に覚えている。
それは、彼がこれまで見てきたどの令嬢の瞳とも違う、知性と情熱の光だった。
「あれは臨時の処置でしたわね。本格的なオーバーホールをお勧めします。部品リストは既に作成済みです」
「そうではない。……あの時、君は『三分で解決する』と言ったな。なぜ、見ず知らずの私にあれほどの助力をしたんだ。君ほどの効率主義者が、見返りも不明な相手に」
イザベルは少し意外そうに目を瞬かせた。
そして、当然のことを言うように口を開く。
「決まっておりますわ。あのような美しい馬車が、あのようなつまらない故障で放置されている。その『機会損失』に、私の脳内にある合理性が耐えられなかっただけです。……それに」
「それに?」
「公爵様が、あまりにも困った顔をして馬車を睨んでいたものですから。……その表情が、非常に『非効率的な時間』を過ごしているように見えて、ついお節介を焼きたくなったのですわ」
イザベルはふふ、と小さく笑った。
その微笑みは、いつもの事務的なものではなく、春の陽光のような柔らかさを持っていた。
アリストテレスは、心臓がいつもより一拍早く脈打つのを感じた。
「効率」という言葉でコーティングされてはいるが、彼女の根底にあるのは、困っている事象を放っておけない、強烈なまでの善意と責任感なのだ。
「……なるほど。やはり君は、私が考えていた以上に危険な女性だ」
「あら、褒め言葉として受け取っておきますわ。……さて、公爵様。朝食の時間は終了です。五分後には、領内銀山から届いた報告書の精査を開始します。……遅れないでくださいね?」
イザベルは優雅に立ち上がると、風のように食堂を去っていった。
残されたアリストテレスは、冷めかけた紅茶を飲み干し、口元を拭った。
「……事務員として雇ったつもりだったが。……どうやら、私はもっととんでもないものを、この領地に招き入れてしまったらしいな」
彼の呟きは、誰に聞かれることもなく朝の空気の中に消えた。
一方、国境の反対側――。
イザベルが去った後の王国では、ウィルフレッド王子が「イザベルが残した精算書」の支払いを巡って、財務大臣から一時間にわたる説教を受けていた。
「殿下! イザベル様が管理されていた隠し財源をすべて合わせても、この請求額の半分にも届きません! 一体、彼女に何をさせたのですか!」
「知らん! 私はただ、彼女に『適当にうまくやっておけ』と言っていただけで……!」
王子の叫びも虚しく、王国の国力は、イザベルという唯一の「潤滑油」を失ったことで、急速に摩耗し始めていた。
翌朝。アリストテレス公爵は、朝食の席で手元の書類を凝視していた。
彼の前には、完璧な黄金色に焼き上がったトーストと、一ミリの狂いもなく配置されたカトラリー、そして優雅に紅茶を啜るイザベルの姿がある。
「はい。何か不明な点でも? コスト計算については三度検算しておりますわ」
「いや、内容は完璧だ。完璧すぎて、我が領の技師たちが『自分たちの存在意義が疑われる』と泣きついてきた。……それから、この朝食も君の指示か?」
イザベルはカップを置き、事務的な微笑みを浮かべた。
「ええ。シェフの動線を分析したところ、冷蔵庫からコンロまでの移動距離に三メートルの無駄がありました。配置を九十度変更させた結果、調理時間は十五パーセント短縮、パンの温度も理想的な状態を維持できています」
「……トーストの焼き加減までマネジメントする令嬢が、この世に君以外にいるだろうか」
アリストテレスは呆れ半分、感嘆半分でパンを口に運んだ。
確かに美味い。驚くほどに。
これまで「食事は栄養を摂取するための作業」と考えていた彼ですら、その効率的な美味しさに舌を巻いた。
「ところで公爵様。先ほどから視線が書類と私の間を往復していますが、目の筋肉の無駄遣いです。質問があるなら、箇条書きで三点以内にまとめていただけますか?」
「……相変わらず容赦ないな。では一点目だ。君は昨夜、いつ寝たんだ?」
「睡眠は一日のパフォーマンスを維持するための必要経費(コスト)です。午前二時から六時までの四時間、集中的に質の高い睡眠(コアスリープ)を確保しました。進捗に遅れはありません」
「二点目。……君は、私とこうして食事をすることを、どう思っている」
アリストテレスが少しだけ声を低くし、真剣な眼差しを向けた。
普通の令嬢なら、氷の公爵と呼ばれる彼の端正な顔立ちを間近に見て、顔を赤らめる場面である。
「どう、とは? 公爵様と情報共有を行いながら栄養を摂取するのは、非常に合理的な時間の使い方だと思いますが。……あ、もしかして、私がサラダを食べる音がうるさかったでしょうか?」
「……いや、そうではない。……いい、三点目だ。君が国境で直した、あの私の馬車だが」
アリストテレスは少し言い淀んだ。
彼はあの日、イザベルが鮮やかな手際で馬車を修理した際、彼女の瞳が宝石のように輝いていたのを鮮明に覚えている。
それは、彼がこれまで見てきたどの令嬢の瞳とも違う、知性と情熱の光だった。
「あれは臨時の処置でしたわね。本格的なオーバーホールをお勧めします。部品リストは既に作成済みです」
「そうではない。……あの時、君は『三分で解決する』と言ったな。なぜ、見ず知らずの私にあれほどの助力をしたんだ。君ほどの効率主義者が、見返りも不明な相手に」
イザベルは少し意外そうに目を瞬かせた。
そして、当然のことを言うように口を開く。
「決まっておりますわ。あのような美しい馬車が、あのようなつまらない故障で放置されている。その『機会損失』に、私の脳内にある合理性が耐えられなかっただけです。……それに」
「それに?」
「公爵様が、あまりにも困った顔をして馬車を睨んでいたものですから。……その表情が、非常に『非効率的な時間』を過ごしているように見えて、ついお節介を焼きたくなったのですわ」
イザベルはふふ、と小さく笑った。
その微笑みは、いつもの事務的なものではなく、春の陽光のような柔らかさを持っていた。
アリストテレスは、心臓がいつもより一拍早く脈打つのを感じた。
「効率」という言葉でコーティングされてはいるが、彼女の根底にあるのは、困っている事象を放っておけない、強烈なまでの善意と責任感なのだ。
「……なるほど。やはり君は、私が考えていた以上に危険な女性だ」
「あら、褒め言葉として受け取っておきますわ。……さて、公爵様。朝食の時間は終了です。五分後には、領内銀山から届いた報告書の精査を開始します。……遅れないでくださいね?」
イザベルは優雅に立ち上がると、風のように食堂を去っていった。
残されたアリストテレスは、冷めかけた紅茶を飲み干し、口元を拭った。
「……事務員として雇ったつもりだったが。……どうやら、私はもっととんでもないものを、この領地に招き入れてしまったらしいな」
彼の呟きは、誰に聞かれることもなく朝の空気の中に消えた。
一方、国境の反対側――。
イザベルが去った後の王国では、ウィルフレッド王子が「イザベルが残した精算書」の支払いを巡って、財務大臣から一時間にわたる説教を受けていた。
「殿下! イザベル様が管理されていた隠し財源をすべて合わせても、この請求額の半分にも届きません! 一体、彼女に何をさせたのですか!」
「知らん! 私はただ、彼女に『適当にうまくやっておけ』と言っていただけで……!」
王子の叫びも虚しく、王国の国力は、イザベルという唯一の「潤滑油」を失ったことで、急速に摩耗し始めていた。
12
あなたにおすすめの小説
愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係
紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。
顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。
※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
彼女の離縁とその波紋
豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。
※子どもに関するセンシティブな内容があります。
【完結済】婚約破棄から始まる物語~真実の愛と言う茶番で、私の至福のティータイムを邪魔しないでくださいな
をち。「もう我慢なんて」書籍発売中
恋愛
約束の時間に遅れ、さらには腕に女性を貼り付けて登場したアレックス殿下。
彼は悪びれることすらなく、ドヤ顔でこう仰いました。
「レティシア。君との婚約は破棄させてもらう」
婚約者の義務としての定例のお茶会。まずは遅れたことに謝罪するのが筋なのでは?
1時間も待たせたあげく、開口一番それですか? しかも腕に他の女を張り付けて?
うーん……おバカさんなのかしら?
婚約破棄の正当な理由はあるのですか?
1話完結です。
定番の婚約破棄から始まるザマァを書いてみました。
大好きな旦那様はどうやら聖女様のことがお好きなようです
古堂すいう
恋愛
祖父から溺愛され我儘に育った公爵令嬢セレーネは、婚約者である皇子から衆目の中、突如婚約破棄を言い渡される。
皇子の横にはセレーネが嫌う男爵令嬢の姿があった。
他人から冷たい視線を浴びたことなどないセレーネに戸惑うばかり、そんな彼女に所有財産没収の命が下されようとしたその時。
救いの手を差し伸べたのは神官長──エルゲンだった。
セレーネは、エルゲンと婚姻を結んだ当初「穏やかで誰にでも微笑むつまらない人」だという印象をもっていたけれど、共に生活する内に徐々に彼の人柄に惹かれていく。
だけれど彼には想い人が出来てしまったようで──…。
「今度はわたくしが恩を返すべきなんですわ!」
今まで自分のことばかりだったセレーネは、初めて人のために何かしたいと思い立ち、大好きな旦那様のために奮闘するのだが──…。
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
新婚初夜に『白い結婚にしてほしい』と言われたので論理的に詰めたら夫が泣きました
ささい
恋愛
「愛人がいるから、白い結婚にしてほしい」
政略結婚の初夜にそう告げた夫ルーファス。
妻カレンの反応は——
「それ、契約不履行ですよね?」
「あなたの感情論、論理的に破綻してますよ?」
泣き落としは通じない。
そして初夜の翌朝、夫は泣いていた。
逃げ道は全部塞がれ、気づけば毎日論破されていた。
これは、論破され続けた夫がなぜか幸せになる話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる