婚約破棄される前に、帰らせていただきます!

パリパリかぷちーの

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王宮の長い廊下を、カツカツと小気味よい足音を立てて進むクロナの前に、それは現れた。

「……クロナ様! お待ちになってくださいまし!」

耳を劈くような高い声。
振り返れば、そこには目に涙をいっぱい溜めたリリィ・ド・男爵令嬢が、まるで可憐な小鹿のように震えながら立っていた。

クロナは、手元に持っていた算盤をパチンと弾き、無表情で彼女を眺めた。

「あら。リリィ様。……そんなに全力で走って、大切なピンクのフリルの裾が泥で汚れておりますわよ? あ、そのドレスのクリーニング代も、我が家の口座からは一銭も出ませんので、ご安心くださいな」

「そ、そんなお話をしに来たのではありませんわ! クロナ様、貴女という方は……なんて恐ろしいことをなさるの!」

リリィはハンカチで目元を抑え、さめざめと泣き真似を始めた。
周囲にいた近衛騎士たちが、その様子を見て困惑したように視線を泳がせる。

「ジュリアン様から伺いましたわ。婚約を解消するだけでなく、多額の……あんなに恐ろしい額の請求書を突きつけるなんて! 愛し合っている私とジュリアン様を、お金で引き裂こうとするなんて、あまりに横暴ですわ!」

「引き裂く? 心外ですわね」

クロナは一歩、リリィに歩み寄った。
その瞬間、リリィはビクッと肩を揺らし、後ずさりした。

「私はただ、貸していたものを返せと言っているだけですの。リリィ様、貴女が今着ているその下着の一枚に至るまで、元を辿れば我が侯爵家の援助金……つまり私の『汗と涙と計算の結晶』でできているのですよ? それをタダで使い続けようとする方が、よほど横暴だと思いませんこと?」

「愛は、お金では買えませんわ! 私たちは、ただ純粋に惹かれ合っただけなのです!」

「ええ、その通りですわね。愛はお金では買えない。……けれど、愛を維持するためのパンや、愛を囁くための美しい部屋、そして貴女が大好きなお化粧品には、バッチリお値段がついておりますのよ」

クロナは、サーシャから受け取った別の書類をリリィの鼻先に突きつけた。

「これは……何ですの?」

「貴女の実家、男爵家の負債状況と、ジュリアン殿下が肩代わりしようとした金額の対比表ですわ。……リリィ様、貴女が『純粋な愛』を叫べば叫ぶほど、その背後でチャリンチャリンと我が家の金庫からお金が漏れ出していたの。これ、犯罪学の用語で何と言うかご存知?」

「わ、分かりませんわ……」

「『横領の教唆』、あるいは『背任の共犯』と呼ぶのが相応しいかしらね。……あ、難しい言葉でしたわね。簡単に言えば、貴女は『泥棒の片棒を担いでいた』ということですわ」

リリィの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
彼女が必死に保っていた「可憐なヒロイン」の仮面が、音を立てて崩れ始めた。

「私は、ただ、殿下がくださるというから……! 私は何も悪くありませんわ!」

「あら、受け取った時点で受益者ですもの。責任は免れませんわよ。……そうそう、リリィ様のご実家には、既に差し押さえの予告通知が届いている頃かしら。今夜あたり、お屋敷の家具に可愛い赤い札がたくさん貼られるはずですわ。リリィ様の趣味に合わせて、ピンクのリボンでも付けて差し上げればよろしかったかしら?」

「そんな……! お父様やお母様はどうなるのですか!?」

「さあ? 借金を返せなければ、あとは労働で埋め合わせるしかありませんわね。……マリス王国の北方には、年中雪が降っている素敵な鉱山があるそうですわ。家族全員で仲良く採掘に励めば、愛の絆もより一層深まるのではないかしら?」

「ひっ……!」

リリィは、あまりの恐怖にその場にへたり込んだ。
クロナは、そんな彼女を見下ろし、冷ややかに微笑んだ。

「リリィ様、貴女の『真実の愛』とやらは、極寒の地での重労働にも耐えられるほど、頑丈なものなのかしら? ……あ、それから。明日、殿下は卒業パーティーで貴女をエスコートするおつもりのようですけれど、残念ながら、貴女が着るはずだった予備のドレスも、全て私が買い取って処分いたしましたわ」

「え……?」

「明日のパーティー、貴女は何を着て出席されるのかしら? ……あ、そうだ。その汚れたピンクのドレスを、裏返して着るというのはどう? 意外と斬新なファッションとして、流行るかもしれませんわよ」

クロナは、もはや涙も出なくなったリリィを放置して、踵を返した。

「さようなら、リリィ様。賞味期限の切れたヒロインほど、見ていて痛々しいものはありませんわ。……あ、そうそう。鉱山での防寒着が必要でしたら、いつでも仰って。もちろん、市価の三倍の利息で貸し付けて差し上げますから」

廊下に、クロナの高笑いが響き渡る。
後に残されたのは、豪華な王宮の廊下で、ただ震えることしかできない「元」ヒロインの哀れな姿だけだった。

「お嬢様、今の論破、金貨千枚分のスッキリ感がありましたわ」

「安すぎるわ、サーシャ。……さあ、いよいよ明日は本番。最高に面白いショーの幕開けよ」

クロナの瞳には、もはやこの小さな王国の諍いなどは映っていなかった。
彼女の視線の先には、数字と論理が支配する、新しい、そして広大な世界が広がっていたのである。
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