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「おい、見ろよ。あれが噂の……」
「『氷の閣下』と『強欲の悪女』だ……」
王都の大通り。
私とラシード公爵が並んで歩くと、まるで海が割れるように人垣が左右に開いていく。
聞こえてくるのは、怯えと好奇心が入り混じった囁き声ばかりだ。
今日の公爵は、お忍び用のマントを着ていない。
堂々とした軍服姿だ。
対する私は、仕事用のシンプルなドレスに、片手には分厚いバインダー。
傍から見ればデートには程遠い。
どう見ても「借金の取り立て」か「公開処刑の連行」である。
「……目立ちますね、閣下。視線が痛いのですが」
私が小声で言うと、隣の公爵は眉一つ動かさずに前を見据えていた。
「気にするな。凡人には、高尚な議論の内容など理解できん」
「高尚な議論? さっきから話しているのは『下水道の配管工事費』についてですが」
「国の根幹に関わる重要な議題だ」
公爵は大真面目だ。
今日は現場視察という名目で、私が彼を連れ回している。
実際に現場を見ないと、工事費の水増しは見抜けないからだ。
だが、世間の認識は違うらしい。
「聞いたか? あの悪役令嬢、王子を捨てて公爵様に乗り換えたらしいぜ」
「なんという尻軽……いや、商魂たくましいというか」
「公爵様も、あんな女に騙されて……きっと弱みを握られているに違いない」
ヒソヒソ話が耳に刺さる。
「弱みを握られている」というのは、あながち間違いではない(王子の恥ずかしい写真などは大量に保管している)が、人聞きが悪い。
「……訂正して回りたいですね。『騙しているのではなく、正当なビジネスパートナーです』と」
「放っておけ。噂など、風のようなものだ」
公爵は泰然としている。
だが、その風向きが変わる出来事が起きた。
通りの向こうから、数人の貴族の若者たちが歩いてきたのだ。
派手な服を着た彼らは、ジェラルド王子の取り巻きたちだった。
「おや? あれはコンシュ嬢ではありませんか」
先頭にいた男が、わざとらしい大声で私を呼んだ。
「王子を無慈悲に切り捨てた冷酷な女が、今度は公爵様に媚びを売っているとは。節操がありませんな」
周囲の野次馬がどっと沸く。
男たちはニヤニヤと笑いながら、私と公爵の前に立ち塞がった。
「公爵閣下、騙されてはいけませんよ。この女は金のことしか頭にない、卑しい毒婦です。貴方の名誉に傷がつきますぞ」
「そうそう。早々に縁を切られるのが賢明かと」
彼らは公爵に取り入ろうと、私を貶めることでご機嫌伺いをしているつもりらしい。
浅はかだ。
ラシード公爵が一番嫌うのは「無駄な時間」と「無根拠な中傷」だというのに。
私は公爵の顔色を窺った。
……ああ、温度が下がっている。
周囲の気温が体感で五度くらい下がった気がする。
「……退け」
公爵が低い声で言った。
「え? い、いえ、私たちは閣下のために忠告を……」
「私の選んだ相手に、口を出すなと言っている」
ピシャリと言い放たれた言葉に、若者たちが凍りついた。
周囲の雑踏も水を打ったように静まり返る。
公爵は氷のような瞳で彼らを射抜いた。
「彼女が卑しい毒婦だと? ……笑わせるな」
公爵が一歩前に出る。
その威圧感に、若者たちが後ずさる。
「彼女は、お前たちが遊んでいる間に、この国の税制の穴を見つけ出し、無駄な予算を三割削減した」
「は、はあ……?」
「お前たちが夜会で着飾っている間に、彼女はドブ川に入って水質調査を行い、疫病の発生を未然に防ぐ策を立案した」
公爵の口から次々と飛び出す私の「功績(というか労働記録)」。
周囲の人々がポカンとしている。
「彼女ほど有能で、誠実で、そして……」
そこで公爵は言葉を切り、チラリと私を見た。
その瞳から、険しい冷気が消え、代わりに熱っぽい光が宿る。
「……そして、見ていて飽きない人間を、私は他に知らない」
「……っ!?」
私はバインダーを取り落としそうになった。
「飽きない」?
「役に立つ」ではなく?
「彼女は私の……そう、最高のアドバイザーだ。金以外の欲がなく、媚びず、常に正論で殴ってくる。……その在り方が、私には心地いい」
公爵は言い切った後、少しだけ顔を背けた。
耳のあたりが赤い。
「……だから、彼女を侮辱することは、私の判断力を侮辱することと同義だと思え。二度はないぞ」
「ひ、ひいいっ! 申し訳ありませんでしたぁーっ!」
若者たちは脱兎のごとく逃げ出した。
残されたのは、静まり返った群衆と、赤面をごまかすように咳払いをする公爵、そして。
(……今の、公開告白と取られても仕方ないのでは?)
呆然とする私だけだった。
「……行くぞ、コンシュ。時間が押している」
公爵が私の手を取り、強引に歩き出す。
その手は大きく、そして意外なほど熱かった。
「……閣下。あのような発言をされると、誤解を招きますよ」
私が追いつきながら言うと、公爵は前を向いたまま答えた。
「誤解ではない。事実だ」
「……は?」
「お前は最高のアドバイザーだ。……それに、噂になれば好都合だ」
「どういう意味ですか?」
「『悪役令嬢が公爵の寵愛を受けている』となれば、お前の店に下らない男が寄り付かなくなる。……虫除けだ」
「虫除け……」
なんて不器用な言い訳だろう。
でも、その不器用さが、今の私には少しだけくすぐったかった。
握られた手は離されない。
周囲の視線は、もはや「軽蔑」ではなく、「畏敬」と、そして「羨望」へと変わっていた。
『氷の閣下』を溶かすのは、聖女のような優しさではなく、悪役令嬢の劇薬だったらしい。
こうして、私たちの奇妙な関係は、公然の事実となった。
「金と契約で結ばれたパートナー」。
そう嘯きながら、私たちは手を繋いで歩く。
その先に待つのが、さらなるトラブルと、そして計算外の「感情」だということを、この時の私はまだ知らなかった。
(……まあ、いいわ。虫除け代として、別途請求させてもらうから!)
私は赤くなった顔を隠すように、バインダーで仰ぎながら、公爵の隣を歩き続けた。
「『氷の閣下』と『強欲の悪女』だ……」
王都の大通り。
私とラシード公爵が並んで歩くと、まるで海が割れるように人垣が左右に開いていく。
聞こえてくるのは、怯えと好奇心が入り混じった囁き声ばかりだ。
今日の公爵は、お忍び用のマントを着ていない。
堂々とした軍服姿だ。
対する私は、仕事用のシンプルなドレスに、片手には分厚いバインダー。
傍から見ればデートには程遠い。
どう見ても「借金の取り立て」か「公開処刑の連行」である。
「……目立ちますね、閣下。視線が痛いのですが」
私が小声で言うと、隣の公爵は眉一つ動かさずに前を見据えていた。
「気にするな。凡人には、高尚な議論の内容など理解できん」
「高尚な議論? さっきから話しているのは『下水道の配管工事費』についてですが」
「国の根幹に関わる重要な議題だ」
公爵は大真面目だ。
今日は現場視察という名目で、私が彼を連れ回している。
実際に現場を見ないと、工事費の水増しは見抜けないからだ。
だが、世間の認識は違うらしい。
「聞いたか? あの悪役令嬢、王子を捨てて公爵様に乗り換えたらしいぜ」
「なんという尻軽……いや、商魂たくましいというか」
「公爵様も、あんな女に騙されて……きっと弱みを握られているに違いない」
ヒソヒソ話が耳に刺さる。
「弱みを握られている」というのは、あながち間違いではない(王子の恥ずかしい写真などは大量に保管している)が、人聞きが悪い。
「……訂正して回りたいですね。『騙しているのではなく、正当なビジネスパートナーです』と」
「放っておけ。噂など、風のようなものだ」
公爵は泰然としている。
だが、その風向きが変わる出来事が起きた。
通りの向こうから、数人の貴族の若者たちが歩いてきたのだ。
派手な服を着た彼らは、ジェラルド王子の取り巻きたちだった。
「おや? あれはコンシュ嬢ではありませんか」
先頭にいた男が、わざとらしい大声で私を呼んだ。
「王子を無慈悲に切り捨てた冷酷な女が、今度は公爵様に媚びを売っているとは。節操がありませんな」
周囲の野次馬がどっと沸く。
男たちはニヤニヤと笑いながら、私と公爵の前に立ち塞がった。
「公爵閣下、騙されてはいけませんよ。この女は金のことしか頭にない、卑しい毒婦です。貴方の名誉に傷がつきますぞ」
「そうそう。早々に縁を切られるのが賢明かと」
彼らは公爵に取り入ろうと、私を貶めることでご機嫌伺いをしているつもりらしい。
浅はかだ。
ラシード公爵が一番嫌うのは「無駄な時間」と「無根拠な中傷」だというのに。
私は公爵の顔色を窺った。
……ああ、温度が下がっている。
周囲の気温が体感で五度くらい下がった気がする。
「……退け」
公爵が低い声で言った。
「え? い、いえ、私たちは閣下のために忠告を……」
「私の選んだ相手に、口を出すなと言っている」
ピシャリと言い放たれた言葉に、若者たちが凍りついた。
周囲の雑踏も水を打ったように静まり返る。
公爵は氷のような瞳で彼らを射抜いた。
「彼女が卑しい毒婦だと? ……笑わせるな」
公爵が一歩前に出る。
その威圧感に、若者たちが後ずさる。
「彼女は、お前たちが遊んでいる間に、この国の税制の穴を見つけ出し、無駄な予算を三割削減した」
「は、はあ……?」
「お前たちが夜会で着飾っている間に、彼女はドブ川に入って水質調査を行い、疫病の発生を未然に防ぐ策を立案した」
公爵の口から次々と飛び出す私の「功績(というか労働記録)」。
周囲の人々がポカンとしている。
「彼女ほど有能で、誠実で、そして……」
そこで公爵は言葉を切り、チラリと私を見た。
その瞳から、険しい冷気が消え、代わりに熱っぽい光が宿る。
「……そして、見ていて飽きない人間を、私は他に知らない」
「……っ!?」
私はバインダーを取り落としそうになった。
「飽きない」?
「役に立つ」ではなく?
「彼女は私の……そう、最高のアドバイザーだ。金以外の欲がなく、媚びず、常に正論で殴ってくる。……その在り方が、私には心地いい」
公爵は言い切った後、少しだけ顔を背けた。
耳のあたりが赤い。
「……だから、彼女を侮辱することは、私の判断力を侮辱することと同義だと思え。二度はないぞ」
「ひ、ひいいっ! 申し訳ありませんでしたぁーっ!」
若者たちは脱兎のごとく逃げ出した。
残されたのは、静まり返った群衆と、赤面をごまかすように咳払いをする公爵、そして。
(……今の、公開告白と取られても仕方ないのでは?)
呆然とする私だけだった。
「……行くぞ、コンシュ。時間が押している」
公爵が私の手を取り、強引に歩き出す。
その手は大きく、そして意外なほど熱かった。
「……閣下。あのような発言をされると、誤解を招きますよ」
私が追いつきながら言うと、公爵は前を向いたまま答えた。
「誤解ではない。事実だ」
「……は?」
「お前は最高のアドバイザーだ。……それに、噂になれば好都合だ」
「どういう意味ですか?」
「『悪役令嬢が公爵の寵愛を受けている』となれば、お前の店に下らない男が寄り付かなくなる。……虫除けだ」
「虫除け……」
なんて不器用な言い訳だろう。
でも、その不器用さが、今の私には少しだけくすぐったかった。
握られた手は離されない。
周囲の視線は、もはや「軽蔑」ではなく、「畏敬」と、そして「羨望」へと変わっていた。
『氷の閣下』を溶かすのは、聖女のような優しさではなく、悪役令嬢の劇薬だったらしい。
こうして、私たちの奇妙な関係は、公然の事実となった。
「金と契約で結ばれたパートナー」。
そう嘯きながら、私たちは手を繋いで歩く。
その先に待つのが、さらなるトラブルと、そして計算外の「感情」だということを、この時の私はまだ知らなかった。
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