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嵐のような結婚式から一夜明け。
『ワイズマン万事相談所』は、いつもの静けさを取り戻していた。
私はカウンターで、昨日の売上を集計していた。
名刺を配った効果は絶大で、すでに朝から数件の予約が入っている。
ジェラルド王子の借金返済計画も、上方修正が必要なくらい順調だ。
「……完璧ね」
私は満足げに頷いた。
仕事は順調。資産は増加中。
これ以上ないほど充実した人生だ。
カランコロン。
ドアベルが鳴る。
入ってきたのは、黒い軍服ではなく、仕立ての良い私服を着たラシード公爵だった。
その手には、広辞苑ほどもある分厚い革張りのバインダーが抱えられている。
「……おはようございます、閣下。朝から重装備ですね。国の予算案ですか?」
「いや。……私とお前の、今後の運用計画書だ」
公爵はバインダーをカウンターに置いた。
ズシン、と重い音がする。
「……運用計画?」
「単刀直入に言う。……プロポーズの回答を聞きに来た」
公爵は私の正面に座り、真剣な眼差しを向けた。
「昨日の保留分だ。……検討は済んだか?」
「……ええ、まあ」
私は視線を逸らした。
実は、昨晩一睡もできていない。
損益計算をしようとしても、どうしても「感情」というノイズが入り込み、計算がまとまらなかったのだ。
「正直に申し上げます。……計算不能(エラー)でした」
「ほう?」
「閣下という存在は、リスクとリターンが複雑すぎます。私の手に余る案件です。……ですので、判断を先送りにしようかと」
私が逃げ腰な回答をすると、公爵はニヤリと笑った。
「そう来ると思って、これを用意した」
彼はバインダーを開いた。
そこには、びっしりと文字が書かれた書類が束ねられている。
「『婚姻に伴う特別契約書(ドラフト版)』だ。お前の懸念事項をすべて払拭する条項を盛り込んでおいた」
「……用意周到ですね」
「読め。……特に、第一条から第三条を」
言われて、私は書類に目を落とした。
**【第一条:乙(コンシュ)の事業活動の自由を、甲(ラシード)は生涯にわたり保証する】**
*補足:相談所の経営、および金儲けに関する一切の活動を妨げない。むしろ、公爵家の資産・人脈・権力を、乙は無制限に使用することができる。*
「……無制限?」
「ああ。私の名前を使えば、どの国とも取引できるぞ。物流コストもゼロだ」
心が揺らぐ。
最強のバックアップ体制だ。
**【第二条:甲の全資産の管理・運用権限を、乙に譲渡する】**
*補足:公爵家の領地経営、投資判断、およびラシード個人の財布の紐に至るまで、すべて乙の裁量に委ねる。甲は乙の決定に異議を申し立てない。*
「……正気ですか? 私が全額を『モグラの餌』に投資しても文句は言えませんよ?」
「構わん。お前なら、そのモグラを使って倍稼ぐだろうからな」
公爵は涼しい顔だ。
あまりの信頼(丸投げ)に、眩暈がしそうだ。
そして、第三条。
**【第三条:甲は乙に対し、生涯にわたり独占的な愛と誠意を捧げる】**
*補足:浮気、心変わり、および乙を悲しませる一切の行為を禁止する。万が一違反した場合、甲は全財産を没収された上、乙の命ずるままに(例えばドリル一号の餌として)処分されることに同意する。*
「……」
私は絶句した。
これは契約書ではない。
ラシード・アークライトという男の、魂の譲渡証書だ。
「……重いです。物理的にも、内容的にも」
「足りないか? なら第四条に『毎日「愛してる」と言う』を追加してもいい」
「いりません! 胸焼けします!」
私は書類を閉じた。
心臓が早鐘を打っている。
こんな、馬鹿げた契約書。
普通の貴族が見たら卒倒するだろう。
公爵家にとって不利すぎる。完全に私に有利な条件だ。
「……なぜ、ここまで?」
「言ったはずだ。……お前が欲しいと」
公爵が私の手に、自分の手を重ねた。
「私は商人ではないから、駆け引きは苦手だ。だから、私の持てる全てを提示した。……これでも、お前には釣り合わないか?」
その言葉に、私の最後の防壁が崩れ去った。
釣り合わないなんて、そんなことあるわけがない。
彼は過大評価しすぎだ。
私はただの、強欲な悪役令嬢なのに。
「……馬鹿な人」
私は小さく呟いた。
「こんな不利な契約、普通の商人なら絶対にサインしませんよ。……カモにされます」
「お前になら、カモにされても本望だ」
「……はぁ」
私は呆れて、そして笑った。
目頭が少し熱くなるのを、必死に堪える。
私は胸ポケットから、愛用の万年筆を取り出した。
昨夜の夜会で、彼が贈ってくれた『黒檀の万年筆』だ。
「……いいでしょう。この契約、お受けします」
「本当か!」
公爵の顔が輝く。
「ただし! 特約条項を追加します!」
私は書類の余白に、さらさらと書き込んだ。
*特約:乙(コンシュ)もまた、甲(ラシード)の心と体を独占的に管理し、生涯大切にメンテナンスする義務を負う。……返品不可。*
「……これで、対等(フェア)ですよね?」
私が書き終えた文字を見て、公爵は目を丸くし、そして破顔した。
見たこともないほど、嬉しそうな笑顔で。
「……ああ。完璧な契約だ」
「では、サインを」
私が署名欄にサインをする。
続いて、公爵も力強くサインをした。
その瞬間、契約書が淡い光を帯びた。
魔法契約ではない。ただの紙だ。
けれど、そこには確かな「運命」が刻まれた気がした。
「……契約成立だな、コンシュ」
「ええ。……もう逃げられませんよ、ラシード様」
「逃げるものか」
公爵がカウンター越しに身を乗り出し、私の唇を塞いだ。
契約の印(キス)は、甘く、長く、そして少しだけコーヒーの香りがした。
「……んっ」
唇が離れると、私は顔を真っ赤にして彼を睨んだ。
「……職場での不純異性交遊は、就業規則違反です!」
「ならば規則を変えろ。お前はもう『公爵夫人』なのだから」
「まだです! 式を挙げるまでは『婚約者』です!」
「では、式場の手配だな。……相談所の前でいいか?」
「え?」
「お前はここを離れたくないだろう? なら、ここで挙げればいい。私がすべて手配する」
公爵は楽しそうに立ち上がった。
「さあ、忙しくなるぞ。……世界一、コストパフォーマンスの良い結婚式にしてやろう」
「……ふふっ、望むところです!」
私は万年筆を握りしめ、微笑んだ。
私の新しい人生(ビジネス)の、第二章が始まろうとしていた。
『ワイズマン万事相談所』は、いつもの静けさを取り戻していた。
私はカウンターで、昨日の売上を集計していた。
名刺を配った効果は絶大で、すでに朝から数件の予約が入っている。
ジェラルド王子の借金返済計画も、上方修正が必要なくらい順調だ。
「……完璧ね」
私は満足げに頷いた。
仕事は順調。資産は増加中。
これ以上ないほど充実した人生だ。
カランコロン。
ドアベルが鳴る。
入ってきたのは、黒い軍服ではなく、仕立ての良い私服を着たラシード公爵だった。
その手には、広辞苑ほどもある分厚い革張りのバインダーが抱えられている。
「……おはようございます、閣下。朝から重装備ですね。国の予算案ですか?」
「いや。……私とお前の、今後の運用計画書だ」
公爵はバインダーをカウンターに置いた。
ズシン、と重い音がする。
「……運用計画?」
「単刀直入に言う。……プロポーズの回答を聞きに来た」
公爵は私の正面に座り、真剣な眼差しを向けた。
「昨日の保留分だ。……検討は済んだか?」
「……ええ、まあ」
私は視線を逸らした。
実は、昨晩一睡もできていない。
損益計算をしようとしても、どうしても「感情」というノイズが入り込み、計算がまとまらなかったのだ。
「正直に申し上げます。……計算不能(エラー)でした」
「ほう?」
「閣下という存在は、リスクとリターンが複雑すぎます。私の手に余る案件です。……ですので、判断を先送りにしようかと」
私が逃げ腰な回答をすると、公爵はニヤリと笑った。
「そう来ると思って、これを用意した」
彼はバインダーを開いた。
そこには、びっしりと文字が書かれた書類が束ねられている。
「『婚姻に伴う特別契約書(ドラフト版)』だ。お前の懸念事項をすべて払拭する条項を盛り込んでおいた」
「……用意周到ですね」
「読め。……特に、第一条から第三条を」
言われて、私は書類に目を落とした。
**【第一条:乙(コンシュ)の事業活動の自由を、甲(ラシード)は生涯にわたり保証する】**
*補足:相談所の経営、および金儲けに関する一切の活動を妨げない。むしろ、公爵家の資産・人脈・権力を、乙は無制限に使用することができる。*
「……無制限?」
「ああ。私の名前を使えば、どの国とも取引できるぞ。物流コストもゼロだ」
心が揺らぐ。
最強のバックアップ体制だ。
**【第二条:甲の全資産の管理・運用権限を、乙に譲渡する】**
*補足:公爵家の領地経営、投資判断、およびラシード個人の財布の紐に至るまで、すべて乙の裁量に委ねる。甲は乙の決定に異議を申し立てない。*
「……正気ですか? 私が全額を『モグラの餌』に投資しても文句は言えませんよ?」
「構わん。お前なら、そのモグラを使って倍稼ぐだろうからな」
公爵は涼しい顔だ。
あまりの信頼(丸投げ)に、眩暈がしそうだ。
そして、第三条。
**【第三条:甲は乙に対し、生涯にわたり独占的な愛と誠意を捧げる】**
*補足:浮気、心変わり、および乙を悲しませる一切の行為を禁止する。万が一違反した場合、甲は全財産を没収された上、乙の命ずるままに(例えばドリル一号の餌として)処分されることに同意する。*
「……」
私は絶句した。
これは契約書ではない。
ラシード・アークライトという男の、魂の譲渡証書だ。
「……重いです。物理的にも、内容的にも」
「足りないか? なら第四条に『毎日「愛してる」と言う』を追加してもいい」
「いりません! 胸焼けします!」
私は書類を閉じた。
心臓が早鐘を打っている。
こんな、馬鹿げた契約書。
普通の貴族が見たら卒倒するだろう。
公爵家にとって不利すぎる。完全に私に有利な条件だ。
「……なぜ、ここまで?」
「言ったはずだ。……お前が欲しいと」
公爵が私の手に、自分の手を重ねた。
「私は商人ではないから、駆け引きは苦手だ。だから、私の持てる全てを提示した。……これでも、お前には釣り合わないか?」
その言葉に、私の最後の防壁が崩れ去った。
釣り合わないなんて、そんなことあるわけがない。
彼は過大評価しすぎだ。
私はただの、強欲な悪役令嬢なのに。
「……馬鹿な人」
私は小さく呟いた。
「こんな不利な契約、普通の商人なら絶対にサインしませんよ。……カモにされます」
「お前になら、カモにされても本望だ」
「……はぁ」
私は呆れて、そして笑った。
目頭が少し熱くなるのを、必死に堪える。
私は胸ポケットから、愛用の万年筆を取り出した。
昨夜の夜会で、彼が贈ってくれた『黒檀の万年筆』だ。
「……いいでしょう。この契約、お受けします」
「本当か!」
公爵の顔が輝く。
「ただし! 特約条項を追加します!」
私は書類の余白に、さらさらと書き込んだ。
*特約:乙(コンシュ)もまた、甲(ラシード)の心と体を独占的に管理し、生涯大切にメンテナンスする義務を負う。……返品不可。*
「……これで、対等(フェア)ですよね?」
私が書き終えた文字を見て、公爵は目を丸くし、そして破顔した。
見たこともないほど、嬉しそうな笑顔で。
「……ああ。完璧な契約だ」
「では、サインを」
私が署名欄にサインをする。
続いて、公爵も力強くサインをした。
その瞬間、契約書が淡い光を帯びた。
魔法契約ではない。ただの紙だ。
けれど、そこには確かな「運命」が刻まれた気がした。
「……契約成立だな、コンシュ」
「ええ。……もう逃げられませんよ、ラシード様」
「逃げるものか」
公爵がカウンター越しに身を乗り出し、私の唇を塞いだ。
契約の印(キス)は、甘く、長く、そして少しだけコーヒーの香りがした。
「……んっ」
唇が離れると、私は顔を真っ赤にして彼を睨んだ。
「……職場での不純異性交遊は、就業規則違反です!」
「ならば規則を変えろ。お前はもう『公爵夫人』なのだから」
「まだです! 式を挙げるまでは『婚約者』です!」
「では、式場の手配だな。……相談所の前でいいか?」
「え?」
「お前はここを離れたくないだろう? なら、ここで挙げればいい。私がすべて手配する」
公爵は楽しそうに立ち上がった。
「さあ、忙しくなるぞ。……世界一、コストパフォーマンスの良い結婚式にしてやろう」
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