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王城で開催された、きらびやかな夜会。
シャンデリアの光が降り注ぐ会場の真ん中で、私の人生は劇的な転換点を迎えていた。
正確に言うなら、私の手元にあった最高の一皿が、悲劇に見舞われていた。
「ポンド・フォン・マーガリン公爵令嬢! 貴様との婚約を、本日この時をもって破棄する!」
第一王子であるセドリック殿下の高らかな宣言が、広間に響き渡る。
音楽が止まり、貴族たちの視線が一斉に私へと突き刺さった。
だが、私の視線はもっと別の、死活問題へと注がれていた。
……ああ。
私のフォークから滑り落ちた、タルタルソースたっぷりのエビフライ。
それが床に無情な音を立てて転がり、金色の衣が剥がれていく。
今日一番の楽しみだった、料理長の自信作が。
「おい、聞いているのかポンド! その不気味な無表情、相変わらず何を考えているか分からん女だ!」
殿下の怒鳴り声が耳に入るが、私の心はエビフライの安否で占められている。
三秒。三秒以内に拾えば、いや、公爵令嬢としてそれは許されないだろう。
私は静かに顔を上げ、殿下を見つめた。
「……殿下。今、なんとおっしゃいましたか?」
「ふん、ようやく口を開いたか! 聞こえなかったのか、婚約破棄だと言ったのだ!」
私の無表情――世間では『底の見えない泥沼のような瞳』と恐れられているらしいが――を見て、殿下が一歩後ろに下がる。
失礼な話だ。私はただ、エビフライの損失をどう補填するか考えているだけだというのに。
「婚約……破棄。それは、つまり」
「そうだ! お前のような陰湿で、リリィをいじめるような悪役令嬢は、王妃の座にふさわしくない!」
殿下の隣には、いつの間にか可憐な令嬢、リリィ様が寄り添っていた。
彼女はわざとらしく震えながら、私を上目遣いで睨んでいる。
いじめる? 私が?
彼女の名前すら今初めて知ったレベルなのだが、どうやら私の記憶にないところで私は大悪党になっていたらしい。
「私の……負け、ということですね」
「ようやく理解したか! お前の罪状は数えきれん。教科書を隠し、ドレスにインクをかけ、挙句の果てには階段から突き落とそうとしただろう!」
……そんな面倒なこと、誰がやるというのだろう。
教科書を隠す労力があるなら、私は新しい茶葉を探しに行く。
ドレスにインクをかけるくらいなら、そのインクで新作のレシピを書く。
階段から人を突き落とすなんて、筋肉痛になりそうで嫌だ。
「……そうですか。わかりました」
「なっ、なんだその反応は! もっと泣き叫ぶとか、許しを請うとかあるだろう!」
「いえ、殿下がそこまでおっしゃるのなら、私に拒否権はないかと思いまして」
私はドレスの裾を軽く持ち上げ、優雅に、かつ迅速に一礼した。
頭の中の計算式はこうだ。
『婚約破棄=王家との付き合い消滅=厳しい食事制限からの解放』。
……勝った。
「では、私はこれで失礼いたします。あ、その前に一つだけよろしいでしょうか」
「なんだ? 最後に言い残したことでもあるのか。今さら謝っても遅いぞ!」
「いえ……。あちらのテーブルにある、限定品のモンブラン。あれを一口いただいてから帰ってもよろしいでしょうか?」
会場が、しん、と静まり返った。
殿下は口をパクパクさせ、リリィ様は引きつった笑いを浮かべている。
周りの貴族たちは「さすが泥沼令嬢、婚約破棄のショックでついに精神が……」とヒソヒソ囁き合っている。
違う。ただお腹が空いているだけだ。
「き、貴様ぁぁ! どこまで私を馬鹿にすれば気が済むのだ!」
「馬鹿になどしておりません。ただ、あちらの栗は北部の特産品で、今の時期しか食べられないと伺いましたので」
「出ていけ! 今すぐこの場から消え失せろ! 二度とその不気味な面を見せるな!」
殿下の怒号を合図に、私はくるりと背を向けた。
あんなに怒らなくてもいいのに。
結局モンブランは食べられずじまいだ。
私は落ちたエビフライに最後のお別れを告げ、颯爽と会場を後にした。
「お嬢様! 大丈夫ですか!?」
馬車の中で待っていた侍女のアンが、私の顔を見るなり叫んだ。
私の顔、そんなに酷いだろうか。
まあ、エビフライ一尾分の悲しみは滲み出ているかもしれない。
「アン、大変なことが起きました」
「やはり! 殿下が一方的に婚約破棄を宣言したと聞き及んでおります! なんてことでしょう、お嬢様がどれほど傷つかれたか……」
「ええ、本当に。信じられません。あんなことが起こるなんて」
「お嬢様……」
アンが私の手を握り、涙ぐむ。
私は彼女の目を見つめ、深刻な声で告げた。
「……タルタルソースが、絶品だったのです。あんなに美味しいエビフライ、もう二度と食べられないかもしれません」
「……はい?」
「殿下の話はどうでもいいのです。ですが、あのエビフライだけは心残りです。アン、明日の朝食は揚げ物にしてください。山盛りで」
「お嬢様……。ある意味、あなたは最強ですよ」
アンの呆れたようなため息を聞きながら、私は馬車の窓から夜空を見上げた。
明日からは、厳しい王妃教育もない。
朝から晩まで、好きなものを好きなだけ食べられる生活が待っている。
「……ふふ」
「お嬢様、今、不敵な笑みを浮かべましたね? 外では絶対に見せないでくださいよ。また変な噂が立ちますから」
「ただ、明日の献立を考えていただけです」
泥沼令嬢、ポンド・フォン・マーガリン。
今日、私は自由を手に入れた。
たとえ世間からどう思われようと、私の胃袋を満足させる冒険が、今ここから始まるのだ。
……でも、やっぱりモンブランだけは心残りかもしれない。
今度、お父様に内緒でお取り寄せをお願いしてみよう。
そんなことを考えながら、私は夜道を揺られる馬車の中で、密かに勝利のポーズをとった。
それが、最強の騎士様に見られているとも知らずに。
シャンデリアの光が降り注ぐ会場の真ん中で、私の人生は劇的な転換点を迎えていた。
正確に言うなら、私の手元にあった最高の一皿が、悲劇に見舞われていた。
「ポンド・フォン・マーガリン公爵令嬢! 貴様との婚約を、本日この時をもって破棄する!」
第一王子であるセドリック殿下の高らかな宣言が、広間に響き渡る。
音楽が止まり、貴族たちの視線が一斉に私へと突き刺さった。
だが、私の視線はもっと別の、死活問題へと注がれていた。
……ああ。
私のフォークから滑り落ちた、タルタルソースたっぷりのエビフライ。
それが床に無情な音を立てて転がり、金色の衣が剥がれていく。
今日一番の楽しみだった、料理長の自信作が。
「おい、聞いているのかポンド! その不気味な無表情、相変わらず何を考えているか分からん女だ!」
殿下の怒鳴り声が耳に入るが、私の心はエビフライの安否で占められている。
三秒。三秒以内に拾えば、いや、公爵令嬢としてそれは許されないだろう。
私は静かに顔を上げ、殿下を見つめた。
「……殿下。今、なんとおっしゃいましたか?」
「ふん、ようやく口を開いたか! 聞こえなかったのか、婚約破棄だと言ったのだ!」
私の無表情――世間では『底の見えない泥沼のような瞳』と恐れられているらしいが――を見て、殿下が一歩後ろに下がる。
失礼な話だ。私はただ、エビフライの損失をどう補填するか考えているだけだというのに。
「婚約……破棄。それは、つまり」
「そうだ! お前のような陰湿で、リリィをいじめるような悪役令嬢は、王妃の座にふさわしくない!」
殿下の隣には、いつの間にか可憐な令嬢、リリィ様が寄り添っていた。
彼女はわざとらしく震えながら、私を上目遣いで睨んでいる。
いじめる? 私が?
彼女の名前すら今初めて知ったレベルなのだが、どうやら私の記憶にないところで私は大悪党になっていたらしい。
「私の……負け、ということですね」
「ようやく理解したか! お前の罪状は数えきれん。教科書を隠し、ドレスにインクをかけ、挙句の果てには階段から突き落とそうとしただろう!」
……そんな面倒なこと、誰がやるというのだろう。
教科書を隠す労力があるなら、私は新しい茶葉を探しに行く。
ドレスにインクをかけるくらいなら、そのインクで新作のレシピを書く。
階段から人を突き落とすなんて、筋肉痛になりそうで嫌だ。
「……そうですか。わかりました」
「なっ、なんだその反応は! もっと泣き叫ぶとか、許しを請うとかあるだろう!」
「いえ、殿下がそこまでおっしゃるのなら、私に拒否権はないかと思いまして」
私はドレスの裾を軽く持ち上げ、優雅に、かつ迅速に一礼した。
頭の中の計算式はこうだ。
『婚約破棄=王家との付き合い消滅=厳しい食事制限からの解放』。
……勝った。
「では、私はこれで失礼いたします。あ、その前に一つだけよろしいでしょうか」
「なんだ? 最後に言い残したことでもあるのか。今さら謝っても遅いぞ!」
「いえ……。あちらのテーブルにある、限定品のモンブラン。あれを一口いただいてから帰ってもよろしいでしょうか?」
会場が、しん、と静まり返った。
殿下は口をパクパクさせ、リリィ様は引きつった笑いを浮かべている。
周りの貴族たちは「さすが泥沼令嬢、婚約破棄のショックでついに精神が……」とヒソヒソ囁き合っている。
違う。ただお腹が空いているだけだ。
「き、貴様ぁぁ! どこまで私を馬鹿にすれば気が済むのだ!」
「馬鹿になどしておりません。ただ、あちらの栗は北部の特産品で、今の時期しか食べられないと伺いましたので」
「出ていけ! 今すぐこの場から消え失せろ! 二度とその不気味な面を見せるな!」
殿下の怒号を合図に、私はくるりと背を向けた。
あんなに怒らなくてもいいのに。
結局モンブランは食べられずじまいだ。
私は落ちたエビフライに最後のお別れを告げ、颯爽と会場を後にした。
「お嬢様! 大丈夫ですか!?」
馬車の中で待っていた侍女のアンが、私の顔を見るなり叫んだ。
私の顔、そんなに酷いだろうか。
まあ、エビフライ一尾分の悲しみは滲み出ているかもしれない。
「アン、大変なことが起きました」
「やはり! 殿下が一方的に婚約破棄を宣言したと聞き及んでおります! なんてことでしょう、お嬢様がどれほど傷つかれたか……」
「ええ、本当に。信じられません。あんなことが起こるなんて」
「お嬢様……」
アンが私の手を握り、涙ぐむ。
私は彼女の目を見つめ、深刻な声で告げた。
「……タルタルソースが、絶品だったのです。あんなに美味しいエビフライ、もう二度と食べられないかもしれません」
「……はい?」
「殿下の話はどうでもいいのです。ですが、あのエビフライだけは心残りです。アン、明日の朝食は揚げ物にしてください。山盛りで」
「お嬢様……。ある意味、あなたは最強ですよ」
アンの呆れたようなため息を聞きながら、私は馬車の窓から夜空を見上げた。
明日からは、厳しい王妃教育もない。
朝から晩まで、好きなものを好きなだけ食べられる生活が待っている。
「……ふふ」
「お嬢様、今、不敵な笑みを浮かべましたね? 外では絶対に見せないでくださいよ。また変な噂が立ちますから」
「ただ、明日の献立を考えていただけです」
泥沼令嬢、ポンド・フォン・マーガリン。
今日、私は自由を手に入れた。
たとえ世間からどう思われようと、私の胃袋を満足させる冒険が、今ここから始まるのだ。
……でも、やっぱりモンブランだけは心残りかもしれない。
今度、お父様に内緒でお取り寄せをお願いしてみよう。
そんなことを考えながら、私は夜道を揺られる馬車の中で、密かに勝利のポーズをとった。
それが、最強の騎士様に見られているとも知らずに。
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