婚約破棄ですって!? 実はただの無自覚天然なだけです。

パリパリかぷちーの

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マーガリン公爵家の屋敷に到着した私は、まず真っ先にお父様の書斎へと向かった。
深夜だというのに、我が父――バカンス・フォン・マーガリン公爵は、大量の書類と格闘していた。

「ただいま戻りました、お父様。報告があります」

「おお、ポンドか。夜会はどうだった? エビフライは美味かったか?」

「……落としました。あと、婚約破棄されました」

お父様はペンを止め、ゆっくりと顔を上げた。
普通なら「なんだと!?」と驚くところだろうが、我が家の人間に「普通」を求めてはいけない。

「落とした……だと? あのタルタルソースたっぷりのやつをか?」

「はい。殿下が急に大声を出すものですから、フォークが滑って」

「それは重罪だな。セドリック殿下も、もう少し時と場合を考えて断罪してほしいものだ。料理長に失礼ではないか」

お父様は深刻な顔で頷いた。
婚約破棄については、完全にスルーである。

「それで、お父様。私は明日からどうすればよろしいでしょうか。修道院送りですか? それとも国外追放?」

「何を言っている。お前は私の可愛い娘だぞ。とりあえず、しばらくはゆっくり休め。王家には私から適当に『娘はショックで寝込んでおります(腹痛的な意味で)』と伝えておく」

「承知いたしました。では、お言葉に甘えて、明日は釣りにでも行こうと思います」

「ああ、いいぞ。池(ポンド)が池で釣りをするのも、なかなか風情があってよろしい」

翌朝。
私は宣言通り、領地にある大きな池のほとりに立っていた。
服装は動きやすいドレス(といってもかなり簡素なもの)に、麦わら帽子。
手には立派な釣り竿。

「……来ませんね、魚」

「お嬢様、餌をつけ忘れております」

隣で呆れたようにアンが指摘する。
私は無言で、針にミミズ――は怖いので、調理場からくすねてきたパンの耳をつけた。

「これでよし。今日の晩ごはんは、私が釣った魚のムニエルです」

「期待せずに待っていますね。あ、お嬢様。あちらから誰か来ますよ。……あら、あの鎧の紋章、王宮騎士団ではありませんか?」

アンが指差す先。
朝霧が立ち込める森の奥から、一人の騎士が歩いてきた。
銀色に輝く甲冑、腰に差した長剣。
そして、見る者すべてを凍りつかせるような、鋭く冷徹な眼光。

「……泥沼令嬢か」

その騎士は、私の数歩前で立ち止まった。
低い、氷の柱がぶつかり合うような声。
私は釣り竿を握ったまま、じっと彼を見つめる。
世間で「氷結騎士」と恐れられる、ギルバート・アイゼン卿だ。

「……アイゼン卿。このような辺境の池に、何の御用でしょうか。不法投棄なら、お父様に許可を取ってください」

「誰が不法投棄をするか。……私は、昨夜の夜会の件で確認に来た。セドリック殿下が君に婚約破棄を突きつけたと聞いたが」

「ああ、その件でしたら。滞りなく受理いたしました。おかげさまで、今日は絶好の釣り日和です」

ギルバート卿が、わずかに眉を寄せた。
彼の視線が、私の持つ釣り竿と、足元の空っぽのバケツへと移動する。

「……ショックで精神を病んだという報告があったが。君のどこが病んでいるのだ」

「心は深く傷ついております。……主に、胃袋が」

「胃袋?」

「はい。昨夜、私は楽しみしていたエビフライを完食できなかったのです。その空虚さを埋めるために、今、こうして魚と対話しているのです」

私は真剣に答えた。
嘘は言っていない。私の心には、あの黄金色の衣の記憶が焼き付いて離れないのだ。

「……対話、だと?」

「はい。魚が『食べてほしい』と言っている気がするのですが、なかなか針にかかってくれません。やはりパンの耳では誘惑が足りないのでしょうか。それとも、私の無表情さが魚を警戒させているのでしょうか」

ギルバート卿は絶句していた。
世間では、私のこの視線は「相手を呪い殺す魔眼」だとか「底なしの悪意」だとか言われているらしいが、自分でも鏡を見るたびによく分からない顔をしているなと思う。

「……君は、不思議な女だな。もっと泣き喚いているかと思ったが」

「泣いてもお腹は膨らみませんから。それより、卿。もしお暇でしたら、あちらにある岩を動かしてはいただけませんか? あそこに大物が潜んでいる気がするのです」

「……私に、騎士団長の私に、岩を動かせと言うのか?」

「無理強いはいたしません。ただ、お礼に釣れた魚の半分を差し上げます。ムニエルにすると絶品ですよ」

ギルバート卿は、しばし沈黙した。
そして、カチャリと甲冑の音を立てて、私の隣へと歩み寄る。

「……半分だな?」

「はい。約束します」

「よかろう。貴公の『対話』とやら、手伝ってやる」

最強の騎士が、私のために岩をどかし始める。
アンが後ろで「お嬢様、何させてるんですか!」と頭を抱えていたが、私は気にしない。
自由とは、こういうことだ。
王妃教育の教科書には載っていなかった、素晴らしい朝の過ごし方である。

「……あ、卿。引いてます。今、私の竿が引いています!」

「焦るな。じっくり待て。魚との駆け引きは、戦場と同じだ」

「戦場……。なるほど、深いですね」

私はギルバート卿のアドバイスに従い、慎重にリールを巻いた。
上がってきたのは、私の靴くらいの大きさの、立派な川魚だった。

「やりました! 卿、見ましたか! 魚です!」

「……ああ。なかなかの型だ」

私は嬉しさのあまり、無意識にギルバート卿の手を握っていた。
彼の冷たいはずの籠手が、なぜか一瞬、熱を帯びたように感じた。

「……ポンド嬢」

「はい、なんでしょう」

「君のその目。泥沼と言われているようだが」

ギルバート卿が、至近距離で私の顔を覗き込んでくる。
その瞳は、冷徹というよりは、何かを必死に探っているような、不思議な輝きを放っていた。

「……私には、底まで透き通った清流に見える。……何を考えているか、丸出しではないか」

「えっ、丸出しですか? 今は何を考えているか分かりますか?」

「……『今日のムニエルに、バターをどれくらい使うか』だろう」

「正解です。卿、エスパーですか?」

私が驚いて尋ねると、ギルバート卿はフッと口角を上げた。
それが、彼が見せた初めての笑みだった。
氷が溶けるような、不器用で、それでいてひどく綺麗な笑み。

「……帰るぞ。その魚を運んでやる」

「半分、差し上げますからね」

「……ああ。楽しみにしている」

こうして、私と氷結騎士様の、奇妙な交流が始まった。
自由への道は、どうやら思っていたよりも賑やかになりそうだった。
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