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「リーフィ・ベルンシュタイン! 貴様のような性悪女との婚約は、今この瞬間をもって破棄する!」
王城の大広間、煌びやかなシャンデリアの下で、その怒号は高らかに響き渡った。
美しいオーケストラの調べも、貴族たちの談笑も、まるで時が止まったかのように凍りつく。
衆人環視の中、壇上で私を指差しているのは、この国の第二王子アレクセイ殿下。
そして、その背中に怯えるように隠れているのは、男爵令嬢のミナ様だ。
典型的な『断罪イベント』の光景である。
周囲の貴族たちが扇で口元を隠し、好奇の視線を向けてくる中、私は懐から愛用の懐中時計を取り出し、チラリと確認した。
午後八時五十八分。
(……素晴らしい。予測時刻より二分早い)
私は内心で小さくガッツポーズをした。
今日の夜会は長引くだろうと予測し、残業手当の申請準備までしていたのだが、これなら定時退社が可能だ。
私はパチリと懐中時計の蓋を閉じ、優雅な تعzim(カーテシー)を披露した。
「畏まりました、アレクセイ殿下」
「……は?」
私の即答に、アレクセイ殿下が間の抜けた声を上げる。
彼の中のシナリオでは、私が泣き崩れるか、あるいは「何かの間違いです!」と取り乱すはずだったのだろう。
しかし、私の辞書に「無駄な足掻き」という言葉はない。
「婚約破棄の件、謹んでお受けいたします。長らくのご愛顧、誠にありがとうございました」
事務的な微笑みを浮かべ、私は流れるような動作でクラッチバッグを開いた。
「な、なんだその態度は! 貴様、自分が何をしたか分かっているのか!? ミナへの陰湿な嫌がらせ、教科書を隠し、階段から突き落とそうとした数々の悪行……!」
「あ、その件につきましては、こちらの資料をご参照ください」
私はバッグから、製本された分厚い書類の束を取り出し、殿下の前に差し出した。
「な、なんだこれは……」
「『殿下の主張に対する事実確認および反証資料(全百二十ページ)』です。目次を付けておきましたので、後ほどお読みください。三行でまとめますと、『やってない』『証拠がない』『そもそも私はその時間、執務室で殿下の決裁書類を代筆していた』となります」
「だ、代筆……!?」
「はい。先月の治水工事の予算案も、隣国への親書も、すべて私が処理いたしました。殿下の筆跡を真似るスキルも、この三年でだいぶ向上しましたので」
大広間がざわめく。
「おい、今の聞いたか?」
「殿下の公務、全部ベルンシュタイン嬢がやってたのか?」
「あの有能な令嬢ならあり得る……」
ヒソヒソという声が波紋のように広がる。
アレクセイ殿下の顔がみるみる赤く染まっていくのが分かった。
「う、うるさい! 黙れ! とにかく、貴様のような可愛げのない女は、僕の妃には相応しくないのだ! ミナのように純粋で、守ってあげたくなるような女性こそが、未来の国母に相応しい!」
殿下はミナ様の肩を抱き寄せ、勝ち誇ったように宣言した。
ミナ様はおずおずと上目遣いで私を見ている。
「あ、あの……リーフィ様……ごめんなさい……」
「謝罪は不要です、ミナ様。需要と供給が一致しただけの話ですから」
私は淡々と答える。
「じゅ、需要と供給……?」
「はい。殿下は『守ってあげたい女性』を求めており、私は『これ以上の激務からの解放』を求めておりました。利害は完全に一致しています」
そう、これこそが真実だ。
王太子妃候補としての教育、および第二王子アレクセイ殿下の補佐。
これらはもはや「教育」の域を超え、実質的な「無賃労働」と化していた。
王妃教育という名のマナー講座に加え、殿下が放り出す公務の尻拭い、予算管理、陳情の整理。
私の労働時間は一日平均十四時間を超え、休日などここ半年存在していない。
過労死ラインなどとうに超えている。
(このままでは、私は三十歳を前にしてストレスで胃に穴が開くか、過労で倒れるかの二択でした)
そこへ降って湧いた、この婚約破棄騒動。
私にとっては、地獄のようなブラック労働からの「退職届」を受理してもらえる千載一遇のチャンスなのだ。
逃す手はない。
私はもう一通、別の書類を取り出した。
「つきましては、こちらの書類に署名をお願いいたします」
「……今度はなんだ」
殿下が警戒心を露わにする。
「『婚約破棄における合意書』および『慰謝料請求権の放棄に関する念書』です」
「い、慰謝料放棄だと?」
周囲の貴族たちが再びどよめく。
本来、王家側からの理不尽な婚約破棄であれば、ベルンシュタイン家は莫大な慰謝料を請求できる立場にある。
それを放棄するなど、正気の沙汰ではないと思われているのだろう。
だが、私にとってはお金よりも時間が惜しい。
慰謝料の交渉で泥沼化し、数ヶ月も拘束されるくらいなら、手切れ金代わりにお金を置いていってもいいくらいだ。
一秒でも早く、この「元婚約者」という肩書きを捨てたい。
「はい。殿下の有責による破棄ですが、私も殿下のサポート不足を痛感しておりましたので(主に精神年齢的な意味で)。喧嘩両成敗ということで、金銭の授受はなしにしましょう。後腐れなく、スッキリと」
私は懐から携帯用のペンを取り出し、キャップを外して殿下に握らせた。
「さあ、ここです。ここにサインを。日付は本日で」
「お、おい、待て。早すぎるだろ! もう少しこう、悲しむとか、縋り付くとか……」
「時間がもったいないです」
私はキッパリと言い放った。
「この会場の使用時間は二十二時までです。撤収作業を含めると、残り時間はあと一時間もありません。グズグズしている暇はないのです」
「お、お前……僕との十年間の婚約期間を、なんだと思っているんだ!」
殿下がペンを持ったまま震えている。
「十年間の……そうですね」
私は少しだけ遠くを見る目をした。
「……長きにわたる実務研修期間、でしょうか」
「研修!?」
「おかげさまで、忍耐力と事務処理能力、そして『話の通じない相手を笑顔でいなすスキル』はカンストいたしました。この経験は、次の就職先でも必ずや役に立つことでしょう」
「就職先だと……?」
「はい。明日からはただの貴族令嬢に戻りますので、どこか条件の良い職場を探そうかと。残業なし、休日あり、上司が論理的な職場を」
私はニッコリと微笑んだ。
それは、社交辞令の仮面ではない。
心からの、解放感に満ちた笑顔だった。
殿下はその笑顔を見て、なぜか顔を引きつらせた。
「お、お前……そんな顔、初めて見たぞ……」
「そうかもしれませんね。これまでは常に『次の公務の締め切り』に追われて死んだ魚のような目をしておりましたので」
さあ、と私は署名欄を指先でトントンと叩く。
「サインを。今すぐに」
「う、うむ……」
気圧された殿下は、フラフラとペンを走らせた。
羊皮紙の上でペン先が滑り、王家の紋章が入った署名が完成する。
私は素早く書類を回収し、インクが乾くのを確認してから、大切に鞄にしまった。
完了だ。
これで私は、自由の身となった。
「ありがとうございます、殿下。これにて私たちの契約は終了です」
私はもう一度、深く頭を下げた。
「ミナ様も、お幸せに。殿下の扱い方については、先ほどの資料の巻末に『アレクセイ殿下取り扱いマニュアル』を添付しておきましたので、熟読することをお勧めします」
「え、あ、はい……ありがとう、ございます……?」
ミナ様が困惑しながら礼を言う。
彼女には感謝しているのだ。
私の代わりに、この手のかかる「大きな子供」の世話を引き受けてくれるのだから。
「では、私はこれで失礼いたします。明日の朝から荷造りがありますので」
私は踵を返した。
背後で殿下が「ま、待て! リーフィ! 本当にこれでいいのか!?」と叫んでいるが、振り返らない。
大広間の扉を開けると、夜の冷たい空気が頬を撫でた。
星が綺麗だ。
これほど清々しい気分で夜空を見上げるのは、いつぶりだろうか。
「終わった……」
小さく呟くと、自然と笑みがこぼれた。
明日からは、もうあのアホな王子の尻拭いをしなくていい。
誰も読まない書類を作る必要もない。
定時に起きて、定時に寝ることができる。
「さて、帰って祝杯ですね」
私は足取り軽く、待たせていた馬車へと向かった。
まさかこの翌日、職探しのために訪れた王宮の事務棟で、新たなブラック……もとい、運命の出会いが待っているとは知らずに。
私の「悠々自適なスローライフ計画」は、まだ始まったばかりである。
王城の大広間、煌びやかなシャンデリアの下で、その怒号は高らかに響き渡った。
美しいオーケストラの調べも、貴族たちの談笑も、まるで時が止まったかのように凍りつく。
衆人環視の中、壇上で私を指差しているのは、この国の第二王子アレクセイ殿下。
そして、その背中に怯えるように隠れているのは、男爵令嬢のミナ様だ。
典型的な『断罪イベント』の光景である。
周囲の貴族たちが扇で口元を隠し、好奇の視線を向けてくる中、私は懐から愛用の懐中時計を取り出し、チラリと確認した。
午後八時五十八分。
(……素晴らしい。予測時刻より二分早い)
私は内心で小さくガッツポーズをした。
今日の夜会は長引くだろうと予測し、残業手当の申請準備までしていたのだが、これなら定時退社が可能だ。
私はパチリと懐中時計の蓋を閉じ、優雅な تعzim(カーテシー)を披露した。
「畏まりました、アレクセイ殿下」
「……は?」
私の即答に、アレクセイ殿下が間の抜けた声を上げる。
彼の中のシナリオでは、私が泣き崩れるか、あるいは「何かの間違いです!」と取り乱すはずだったのだろう。
しかし、私の辞書に「無駄な足掻き」という言葉はない。
「婚約破棄の件、謹んでお受けいたします。長らくのご愛顧、誠にありがとうございました」
事務的な微笑みを浮かべ、私は流れるような動作でクラッチバッグを開いた。
「な、なんだその態度は! 貴様、自分が何をしたか分かっているのか!? ミナへの陰湿な嫌がらせ、教科書を隠し、階段から突き落とそうとした数々の悪行……!」
「あ、その件につきましては、こちらの資料をご参照ください」
私はバッグから、製本された分厚い書類の束を取り出し、殿下の前に差し出した。
「な、なんだこれは……」
「『殿下の主張に対する事実確認および反証資料(全百二十ページ)』です。目次を付けておきましたので、後ほどお読みください。三行でまとめますと、『やってない』『証拠がない』『そもそも私はその時間、執務室で殿下の決裁書類を代筆していた』となります」
「だ、代筆……!?」
「はい。先月の治水工事の予算案も、隣国への親書も、すべて私が処理いたしました。殿下の筆跡を真似るスキルも、この三年でだいぶ向上しましたので」
大広間がざわめく。
「おい、今の聞いたか?」
「殿下の公務、全部ベルンシュタイン嬢がやってたのか?」
「あの有能な令嬢ならあり得る……」
ヒソヒソという声が波紋のように広がる。
アレクセイ殿下の顔がみるみる赤く染まっていくのが分かった。
「う、うるさい! 黙れ! とにかく、貴様のような可愛げのない女は、僕の妃には相応しくないのだ! ミナのように純粋で、守ってあげたくなるような女性こそが、未来の国母に相応しい!」
殿下はミナ様の肩を抱き寄せ、勝ち誇ったように宣言した。
ミナ様はおずおずと上目遣いで私を見ている。
「あ、あの……リーフィ様……ごめんなさい……」
「謝罪は不要です、ミナ様。需要と供給が一致しただけの話ですから」
私は淡々と答える。
「じゅ、需要と供給……?」
「はい。殿下は『守ってあげたい女性』を求めており、私は『これ以上の激務からの解放』を求めておりました。利害は完全に一致しています」
そう、これこそが真実だ。
王太子妃候補としての教育、および第二王子アレクセイ殿下の補佐。
これらはもはや「教育」の域を超え、実質的な「無賃労働」と化していた。
王妃教育という名のマナー講座に加え、殿下が放り出す公務の尻拭い、予算管理、陳情の整理。
私の労働時間は一日平均十四時間を超え、休日などここ半年存在していない。
過労死ラインなどとうに超えている。
(このままでは、私は三十歳を前にしてストレスで胃に穴が開くか、過労で倒れるかの二択でした)
そこへ降って湧いた、この婚約破棄騒動。
私にとっては、地獄のようなブラック労働からの「退職届」を受理してもらえる千載一遇のチャンスなのだ。
逃す手はない。
私はもう一通、別の書類を取り出した。
「つきましては、こちらの書類に署名をお願いいたします」
「……今度はなんだ」
殿下が警戒心を露わにする。
「『婚約破棄における合意書』および『慰謝料請求権の放棄に関する念書』です」
「い、慰謝料放棄だと?」
周囲の貴族たちが再びどよめく。
本来、王家側からの理不尽な婚約破棄であれば、ベルンシュタイン家は莫大な慰謝料を請求できる立場にある。
それを放棄するなど、正気の沙汰ではないと思われているのだろう。
だが、私にとってはお金よりも時間が惜しい。
慰謝料の交渉で泥沼化し、数ヶ月も拘束されるくらいなら、手切れ金代わりにお金を置いていってもいいくらいだ。
一秒でも早く、この「元婚約者」という肩書きを捨てたい。
「はい。殿下の有責による破棄ですが、私も殿下のサポート不足を痛感しておりましたので(主に精神年齢的な意味で)。喧嘩両成敗ということで、金銭の授受はなしにしましょう。後腐れなく、スッキリと」
私は懐から携帯用のペンを取り出し、キャップを外して殿下に握らせた。
「さあ、ここです。ここにサインを。日付は本日で」
「お、おい、待て。早すぎるだろ! もう少しこう、悲しむとか、縋り付くとか……」
「時間がもったいないです」
私はキッパリと言い放った。
「この会場の使用時間は二十二時までです。撤収作業を含めると、残り時間はあと一時間もありません。グズグズしている暇はないのです」
「お、お前……僕との十年間の婚約期間を、なんだと思っているんだ!」
殿下がペンを持ったまま震えている。
「十年間の……そうですね」
私は少しだけ遠くを見る目をした。
「……長きにわたる実務研修期間、でしょうか」
「研修!?」
「おかげさまで、忍耐力と事務処理能力、そして『話の通じない相手を笑顔でいなすスキル』はカンストいたしました。この経験は、次の就職先でも必ずや役に立つことでしょう」
「就職先だと……?」
「はい。明日からはただの貴族令嬢に戻りますので、どこか条件の良い職場を探そうかと。残業なし、休日あり、上司が論理的な職場を」
私はニッコリと微笑んだ。
それは、社交辞令の仮面ではない。
心からの、解放感に満ちた笑顔だった。
殿下はその笑顔を見て、なぜか顔を引きつらせた。
「お、お前……そんな顔、初めて見たぞ……」
「そうかもしれませんね。これまでは常に『次の公務の締め切り』に追われて死んだ魚のような目をしておりましたので」
さあ、と私は署名欄を指先でトントンと叩く。
「サインを。今すぐに」
「う、うむ……」
気圧された殿下は、フラフラとペンを走らせた。
羊皮紙の上でペン先が滑り、王家の紋章が入った署名が完成する。
私は素早く書類を回収し、インクが乾くのを確認してから、大切に鞄にしまった。
完了だ。
これで私は、自由の身となった。
「ありがとうございます、殿下。これにて私たちの契約は終了です」
私はもう一度、深く頭を下げた。
「ミナ様も、お幸せに。殿下の扱い方については、先ほどの資料の巻末に『アレクセイ殿下取り扱いマニュアル』を添付しておきましたので、熟読することをお勧めします」
「え、あ、はい……ありがとう、ございます……?」
ミナ様が困惑しながら礼を言う。
彼女には感謝しているのだ。
私の代わりに、この手のかかる「大きな子供」の世話を引き受けてくれるのだから。
「では、私はこれで失礼いたします。明日の朝から荷造りがありますので」
私は踵を返した。
背後で殿下が「ま、待て! リーフィ! 本当にこれでいいのか!?」と叫んでいるが、振り返らない。
大広間の扉を開けると、夜の冷たい空気が頬を撫でた。
星が綺麗だ。
これほど清々しい気分で夜空を見上げるのは、いつぶりだろうか。
「終わった……」
小さく呟くと、自然と笑みがこぼれた。
明日からは、もうあのアホな王子の尻拭いをしなくていい。
誰も読まない書類を作る必要もない。
定時に起きて、定時に寝ることができる。
「さて、帰って祝杯ですね」
私は足取り軽く、待たせていた馬車へと向かった。
まさかこの翌日、職探しのために訪れた王宮の事務棟で、新たなブラック……もとい、運命の出会いが待っているとは知らずに。
私の「悠々自適なスローライフ計画」は、まだ始まったばかりである。
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