悪役令嬢は、婚約破棄を「秒」で承諾する。

パリパリかぷちーの

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「待ちたまえ! まだ話は終わっていない!」

夜風が心地よい王城の馬車止め。

御者が開けてくれた扉に足をかけたところで、背後からヒステリックな声が飛んできた。

振り返ると、アレクセイ殿下が息を切らして追いかけてきていた。

その後ろには、困り顔のミナ様と、野次馬根性たくましい貴族たちが金魚のフンのように続いている。

私は内心で舌打ちをした。

(……残業確定ですね。一分単位で請求しますよ)

懐中時計を確認する。午後九時三分。

「何か? 署名なら先ほどいただいたはずですが」

私は極めて冷静に問い返した。

殿下は私の態度が気に入らないらしく、顔を真っ赤にして指を突きつけてくる。

「署名など関係ない! 僕は貴様のその『自分は悪くない』という態度が許せないのだ!」

「事実ですので」

「まだ言うか! 証拠はあるんだぞ!」

殿下はミナ様の手を引いた。

「ミナ、怖がらなくていい。あの日、図書室でされたことを正直に話すんだ」

図書室。

その単語が出た瞬間、周囲の貴族たちが「ああ……」と納得したような声を漏らす。

「聞いたことあるぞ。ベルンシュタイン嬢が、分厚い本でミナ様を殴打したって」

「なんて野蛮な……」

「嫉妬に狂って暴力を振るうなんて」

ひそひそ話が聞こえてくる。

なるほど、あの一件か。

私は記憶のアーカイブを検索し、該当事案を〇・五秒で特定した。

「……あの日、リーフィ様に、本で……頭を……」

ミナ様がおずおずと口を開く。

殿下は我が意を得たりとばかりに叫んだ。

「聞いたか! 貴様はミナの頭を鈍器のような本で叩いた! これは立派な傷害罪だ!」

「訂正いたします」

私は間髪入れずに割り込んだ。

「叩いたのではありません。『注入』したのです」

「は?」

「知識を、物理的に」

殿下と周囲の人々がポカンと口を開ける。

私はため息をつきながら説明を開始した。

「殿下。次期王妃となるミナ様には、最低限覚えていただかねばならない知識があります。我が国の歴史、周辺諸国の情勢、そして王家独自のしきたり……これらをまとめた『王妃業務引継書』が存在するのはご存知ですね?」

「し、知らん。そんなものがあるのか?」

「……私が三ヶ月かけて執筆・製本した全百巻のマニュアルです。殿下の机の上にも置きましたが、鍋敷きにされていましたね」

「あ、あれか……」

「そのマニュアルをミナ様にお渡ししたのですが、彼女は『文字が多くて目が回る』とおっしゃいました。しかし、読まないことには公務になりません」

私はミナ様を見た。彼女は気まずそうに視線を逸らす。

「そこで私は考えました。視覚情報が拒絶されるなら、聴覚と触覚に訴えかけるしかないと」

「しょ、触覚……?」

「はい。具体的には、マニュアルを私の朗読に合わせてリズミカルに頭部に接触させることで、記憶の定着を図りました。名付けて『読み聞かせ(物理)』です」

シーン、と場が静まり返る。

「……き、貴様、何を言っているんだ? それが暴力だと言っているんだ!」

「効果はありましたよ? ミナ様、初代国王のフルネームは?」

私が水を向けると、ミナ様は反射的に背筋を伸ばして答えた。

「アルフレッド・フォン・グラン・カイゼル・オライオン一世!」

「正解です。では、我が国の主要輸出品目トップ3は?」

「魔石、小麦、そして竜の鱗加工品!」

「素晴らしい。以前は『お花』と答えていたのが嘘のようです」

私は満足げに頷いた。

「ご覧の通りです、殿下。私の教育的指導により、ミナ様は短期間で劇的な知能向上を果たされました。感謝されこそすれ、断罪される覚えはありません」

「おかしい! 絶対におかしい!」

殿下は頭を抱えた。

「で、でも、階段から突き落とした件はどうなんだ! あれは殺人未遂だろう!」

まだやるのか。

私はあくびを噛み殺しながら答える。

「あれは『緊急回避訓練』です」

「はあ!?」

「王族は常に暗殺の危機に晒されています。いつ何時、背後から襲われるかわかりません。とっさの受け身が取れなければ命に関わります」

「だ、だからといって突き落とすか!?」

「突き落としていません。背後から『殿下(仮)の刺客』として忍び寄り、足払いをかけただけです。その後、彼女が見事な受け身を取れるようになるまで、十五回ほどセットで練習にお付き合いしました」

「それをいじめと言うんだよ!」

「ミナ様、その節は筋肉痛になりましたか?」

私が尋ねると、ミナ様はハッとして自分の身体を触った。

「そ、そういえば……あの特訓のあと、夜会でドレスの裾を踏んで転びそうになった時、空中で一回転して着地できました……!」

「それはもはやサーカス団員だろう!」

殿下のツッコミが夜空に響く。

しかし、私の論理は完璧だ。

すべての行動には合理的な理由がある。

「いじめなどという非生産的な行為に割く時間など、私にはありません。すべては王妃教育カリキュラムの一環です。……もっとも、もう私には関係のないことですが」

私は殿下に向き直り、冷ややかに告げた。

「殿下。ミナ様は原石です。ただし、磨き方を間違えればただの石ころのまま。私が作成したマニュアル通りに指導すれば、あるいは名君の妃になれるかもしれません」

「ふ、ふん! 貴様に言われなくても、僕が愛の力で導いてみせる!」

「そうですか。では、頑張ってください」

愛で公務が回るなら、宰相は過労死していないだろう。

私は心の中でそう毒づき、今度こそ馬車に乗り込んだ。

「待ちたまえ! まだ……!」

「発車してください」

「御意」

御者が鞭を振るう。

馬車が動き出し、窓の外で何やら喚いている殿下の姿が遠ざかっていく。

ようやく静寂が訪れた。

ふぅ、と深く息を吐き、シートの背もたれに身を預ける。

「……やれやれ。最後の最後まで、手のかかるクライアントでした」

馬車は石畳をガタゴトと揺れながら進む。

窓の外を流れる王都の夜景は美しい。

これから実家に帰り、父に事情を説明しなければならない。

恐らく激怒されるだろう。勘当も辞さない構えかもしれない。

だが、今の私には「自由」という最強の武器がある。

王家というブラック企業を退職した今、怖いものなど何もない。

(さて、まずはゆっくりとお風呂に入って、泥のように眠りましょうか……)

そんな甘い考えを抱いていた私が、実家の玄関を開けた瞬間に絶望することになるのは、わずか三十分後の未来である。

「お帰り、リーフィ。……で、荷物はそれだけか?」

玄関ホールで仁王立ちしていた父、ベルンシュタイン侯爵は、私の顔を見るなり冷酷に言い放ったのだった。

「次が決まるまで、敷居は跨がせないと言ったはずだが?」

私の「定時退社」への道のりは、まだまだ遠そうだった。
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