悪役令嬢は、婚約破棄を「秒」で承諾する。

パリパリかぷちーの

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「……お父様、冗談ですよね?」

ベルンシュタイン侯爵邸のエントランス。

豪華な絨毯の上で、私はキャリーケースを握りしめたまま、目の前の父親を見上げた。

父、ベルンシュタイン侯爵は、腕組みをして冷然と私を見下ろしている。

その背後には、オロオロとハンカチを握りしめる母と、気まずそうに目を逸らす使用人たちの姿があった。

「冗談ではない。我が家の家訓を忘れたか?」

父は低い声で告げた。

「『働かざる者、食うべからず』。そして『有能な者は自らの力で居場所を勝ち取れ』だ」

「それは存じておりますが、本日は緊急事態です。契約解除(婚約破棄)に伴う住居の喪失、および精神的疲労の回復が必要です」

「甘えるな」

父の一喝が飛ぶ。

「お前は王太子妃という『職』を失った。つまり現在は無職だ。無職の娘をタダ飯ぐらいとして養う余裕は、我が家にはない」

「我が家の資産状況なら、私一人くらい養う余裕は十分にあるはずですが?」

「資産の問題ではない。プライドの問題だ。……それに」

父は少しだけ声を潜めた。

「お前が家に戻れば、アレクセイ殿下が『やはり実家に戻ったか、素直じゃないやつめ』などと勘違いをして、迎えに来る可能性があるだろう」

「……っ! 確かに!」

私は戦慄した。

あのお花畑王子のことだ。「リーフィは実家で泣き暮らしているに違いない。僕が慰めてやらねば」という謎の使命感に燃えて、薔薇の花束持参で押し掛けてくる未来が容易に想像できる。

「それは困ります。非常に困ります」

「だろう? 奴を完全に諦めさせるには、『実家にも戻らず、自力で新たな道を切り拓いた』という既成事実が必要なのだ」

父の言葉には、冷徹さの中にも親心(?)が見え隠れしていた。

いや、単に面倒ごとに巻き込まれたくないだけかもしれないが、論理的ではある。

「理解しました。つまり、元サヤ(王子の婚約者)に戻るリスクを極限まで下げるため、私は今夜、別の場所で拠点を確保しなければならないということですね」

「その通りだ。……猶予をやろう。明日の朝までに『次の就職先』または『婚約者』を見つけてこい。それまでは門をくぐることを禁ずる」

「明日の朝まで!? 今、夜の十時ですよ!?」

「お前の処理能力なら可能だろう」

父はニヤリと笑うと、バタンと重厚な扉を閉めた。

カチャリ、と無情な施錠音が響く。

「……閉め出された」

私は夜風が吹き抜ける玄関ポーチに一人取り残された。

手元にあるのは、着替えを詰めた小さなキャリーケースと、先ほどの『婚約破棄合意書』、そしてわずかな所持金のみ。

「さて、どうしましょうか」

普通ならここで泣くところかもしれない。

あるいは、友人の家を頼るか、安宿を探すか。

しかし、私の思考回路は常に「効率」を最優先する。

(友人の家に行けば、事情聴取(ガールズトーク)で朝まで拘束される。安宿はセキュリティと衛生面に不安がある。高級ホテルは予算オーバーだ)

私は腕組みをして、夜空を見上げた。

今からすぐに働けて、安全で、寝床(仮眠室)もあって、私の能力を高く買ってくれる場所。

そんな都合の良い場所があるわけ……

「……ありました」

私はパチンと指を鳴らした。

灯台下暗し。

私はつい先ほどまで、そこにいたではないか。

「王宮事務棟」

あそこなら二十四時間稼働しており、常に人手不足で死にかけている。

しかも、私は元婚約者として王宮への自由な出入りが許可されているパスをまだ持っている(返却を忘れていたとも言う)。

「あそこなら、暖房完備、仮眠室あり、食堂は夜間営業中。そして何より……」

私はニヤリと笑った。

「私がこれまでに処理しきれず、涙を飲んで残してきた『業務改善の余地』が山ほどある」

アレクセイ殿下の補佐をしていた時は、彼の尻拭いに追われて、王宮全体のシステム改善にまで手が回らなかった。

だが、今の私はフリーだ。

誰にも邪魔されず、思う存分に書類を片付け、非効率なフローを修正できる。

「行きましょう。私の楽園(職場)へ」

私はキャリーケースを引くと、再び王宮へと向かう辻馬車を拾った。



深夜の王宮、事務棟。

ここは煌びやかな夜会が行われる本城とは異なり、国の行政を支える心臓部だ。

そして同時に、終わらない仕事に追われる官僚たちの墓場でもある。

「……静かですね」

廊下を歩く私の足音だけが響く。

すれ違う文官たちは皆、死んだ魚のような目をして、ふらふらと書類を運んでいる。

ゾンビ映画の撮影現場のようだ。

私は慣れた足取りで、最も激務と言われる「宰相執務室」のある最上階へと向かった。

なぜそこへ向かうのか。

単純な話だ。この国の行政トップである宰相を落とせば、私の再就職は確実なものとなるからである。

「失礼します」

ノックを三回。

返事はない。

だが、中から「うぅ……」という呻き声と、紙が崩れ落ちる音が聞こえる。

私は迷わずドアノブを回した。

ガチャリ。

扉が開くと、そこは紙の海だった。

床が見えないほど散乱した書類、積み上げられた未決裁の箱、そしてインクの匂い。

その中央にある巨大な執務机に、一人の男が突っ伏していた。

銀色の髪がデスクライトに照らされ、キラキラと輝いている。

この国の宰相、クライヴ・アークライト公爵だ。

「氷の宰相」の異名を持ち、冷徹無比な仕事ぶりで知られる彼だが、今の姿はどう見ても「過労死寸前の社畜」である。

「……水……水をくれ……」

干からびた声が聞こえる。

私は無言でサイドテーブルの水差しを手に取り、グラスに注いで彼の口元へ運んだ。

「どうぞ」

クライヴ様はビクッと反応し、震える手でグラスを受け取ると、一気に飲み干した。

「ぷはっ……! い、生き返った……」

彼は荒い息を整えながら、ゆっくりと顔を上げた。

切れ長の瞳、整った鼻筋、そして目の下の濃厚な隈(くま)。

その端正な顔立ちが、私を見て驚愕に染まる。

「……ベルンシュタイン嬢? なぜ、君がここにいる?」

「こんばんは、宰相閣下。夜分遅くに失礼いたします」

私は優雅にカーテシーをした。

「実は、職探しをしておりまして」

「職探し……?」

「はい。先ほどアレクセイ殿下と婚約破棄をしてまいりましたので、現在フリーです。つきましては」

私はキャリーケースの上に腰掛け、ニッコリと営業スマイルを向けた。

「この部屋の惨状を見るに、猫の手も借りたい状況とお見受けします。いかがでしょう? 即戦力の事務員(私)、今ならお安くしておきますが?」

クライヴ様は、ポカンと口を開けて私を見つめている。

そして、ふと私の足元に散らばっていた書類に目をやった。

それは、彼が三日かけても終わらなかった、隣国との通商条約の草案。

私は先ほど入室した際、ついでにそれを拾い上げ、赤ペンで修正を入れておいたのだ。

「……君が、これを直したのか?」

「はい。第五条の関税率計算に誤りがありましたので。あと、第七条は前例踏襲すぎて現在の経済状況に合っていません。修正案を余白に書いておきました」

クライヴ様がその書類を手に取り、目を見開く。

彼の瞳に、かつてないほどの熱が宿っていくのが分かった。

それは恋の炎ではない。

「……神か」

「いえ、リーフィです」

「採用だ」

クライヴ様はガバッと立ち上がった。

「即採用だ! 給与は言い値でいい! 今すぐ、あの右側の山を片付けてくれ!」

「承知いたしました。ただし条件があります」

私は指を三本立てた。

「一、定時退社の厳守。二、残業代の全額支給。三、住み込みでの賄い付き」

「すべて呑もう! 頼む、助けてくれ!」

氷の宰相が、涙目で懇願している。

私は心の中で勝利のファンファーレを鳴らした。

交渉成立。

私はジャケットを脱ぎ、腕まくりをした。

「では、業務を開始します。……まずはこの部屋の『断捨離』からですね」

こうして、私の華麗なるセカンドライフ(転職)は幕を開けた。

元サヤ(王子)に戻る気など、毛頭ない。

なぜなら、目の前には「やりがいのある仕事」と「倒しがいのあるラスボス(書類)」が待っているのだから。
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