悪役令嬢は、婚約破棄を「秒」で承諾する。

パリパリかぷちーの

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「……ふぅ」

深夜二時。

静まり返った宰相執務室に、ペンの走る音だけがサラサラと響いていた。

先日、「残業禁止」を宣言したばかりだが、現実はそう甘くない。

隣国からの緊急支援要請に、季節外れの台風による農作物被害の対応。

突発的な案件が重なり、私たちは結局、いつものようにデスクに向かっていた。

「……あと、三件……」

向かいの席から、掠れた声が聞こえる。

顔を上げると、クライヴ閣下が書類を持ったまま、船を漕いでいた。

その美貌には濃い疲労の色が滲み、瞼が今にも閉じそうだ。

「閣下。限界です。休憩を入れましょう」

私はペンを置き、立ち上がった。

「いや……まだいける……。これを片付けないと、明日の会議が……」

「駄目です。判断能力が低下しています。先ほどから、決裁印をインク壺ではなく、ご自分の親指に押そうとしていますよ」

「……あ」

閣下は自分の親指についた朱肉を見て、ぼんやりと呟いた。

「……私の指が、承認されてしまった」

「わけのわからないことを言わないでください」

これは重症だ。

私は溜息をつき、閣下の元へと歩み寄った。

「仮眠を取りましょう。ソファーへ移動してください」

「いや、移動する時間がもったいない……このまま机で五分だけ……」

閣下は頑なに拒否し、そのままデスクに突っ伏そうとした。

ガクッ。

「あっ、危ない!」

私はとっさに体を滑り込ませた。

閣下の頭が、硬いマホガニーの机に激突する寸前、私の太ももがクッションとなって受け止める。

ふわっ。

柔らかい感触と、重み。

「……ん?」

閣下が薄っすらと目を開ける。

その視線の先にあるのは、私のドレスの膝部分だ。

「……柔らかい……」

「それはどうも」

私は無表情で答えた。

「閣下。もう動かないでください。このまま寝かせます」

いわゆる『膝枕』の体勢になってしまった。

本来なら不敬罪かもしれないが、緊急回避措置なので仕方がない。

「……すまない、リーフィ。重くないか?」

「問題ありません。私の太ももは適度な脂肪と筋肉により、高反発枕と同等の機能を備えています」

「高反発枕……」

閣下はふふっと力なく笑うと、私の太ももに顔を埋めた。

「いい匂いがする……。インクと、紅茶と……君の匂いだ」

「生活臭と言ってください」

「落ち着く……」

閣下は完全に脱力したようだ。

その銀髪が、私の手元でサラサラと流れる。

私は無意識のうちに、その髪を指で梳いていた。

(……まるで、大きな猫ですね)

普段は国を背負って立つ「氷の宰相」が、今はただの無防備な青年として、私に身を預けている。

そのギャップに、少しだけ胸が温かくなる。

「……リーフィ」

「はい」

「私は……幸せ者だな」

閣下が寝言のように呟く。

「こんなに優秀で、可愛くて……温かい人が、私の側にいてくれるなんて……」

「過大評価です。私はただの事務屋です」

「いいや……君は私の光だ。……好きだ」

「……はい?」

私は手を止めた。

今、何か言ったか?

「……んん……好きだ、リーフィ……愛している……」

閣下は夢うつつの中で、はっきりとそう言った。

その声は甘く、切なく、鼓膜を震わせる。

ドキン。

心臓が大きく跳ねた。

これは、どう解釈すべきか。

私の脳内コンピューターが高速演算を開始する。

【入力音声:「好きだ」「愛している」】
【状況:深夜、疲労困憊、意識混濁】
【対象:私(部下兼契約上の婚約者)】

……演算終了。

(結論:『仕事への愛』と『優秀な人材への執着』が、夢の中で混同されて出力されたバグ)

間違いない。

彼は今、私の処理能力の高さに対して「愛している(=手放したくない)」と言っているのだ。

あるいは、夢の中で私が「予算案を一瞬で片付ける女神」として登場しているのかもしれない。

「……はいはい。わかっていますよ」

私は苦笑しながら、再び髪を撫で始めた。

「私も好きですよ、閣下のその仕事人間なところが」

「……んぅ……」

「ゆっくりお休みください。起きたら、また地獄(業務)が待っていますから」

「……あぁ……幸せ……」

閣下は安らかな寝息を立て始めた。

長いまつ毛が頬に影を落としている。

その寝顔は、幼子のように無垢で、守ってあげたくなるような脆弱さを秘めていた。

(……まったく。手のかかる上司です)

私は壁の時計を見た。

あと三十分だけ、このままにしておこう。

私の足が痺れるのが先か、閣下が起きるのが先か。

これは耐久戦だ。

……けれど。

私の膝の上で安心しきっているこの重みは、決して不快なものではなかった。

むしろ、不思議な充実感がある。

「これが『母性』というやつでしょうか? ……いいえ、管理職としての『責任感』ですね」

私は自分にそう言い聞かせ、窓の外の月を見上げた。

静かな夜。

書類の隙間に生まれた、ほんのひと時の安らぎ。

だが、この穏やかな時間は、嵐の前の静けさに過ぎなかった。

翌朝。

スッキリと目覚めた閣下は、私の足が痺れて動けないのを見て、「責任を取って君をお姫様抱っこで移動させる!」と張り切り、朝から廊下で悲鳴を上げる羽目になった。

そして、その騒ぎが一段落した頃。

王城のメインゲートを、一台の馬車が猛スピードで通過した。

乗っているのは、アレクセイ殿下。

彼の手には、とんでもない「爆弾」が握られていた。

「見ていろ、リーフィ……! 宰相……! 僕がただの無能じゃないことを証明してやる!」

殿下の瞳には、狂気にも似た決意の光が宿っていた。

そう、彼はやらかしたのだ。

国の根幹を揺るがす、致命的なミスを。

私の「平穏な事務員ライフ」が、音を立てて崩れ去る音が聞こえた気がした。
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