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「……平和ですね」
宰相執務室。
嵐のような残業デスマッチ(と、深夜の膝枕イベント)を乗り越えた翌日の午後。
私は優雅に紅茶を淹れていた。
「ああ。君のおかげで未決裁案件がゼロになった。こんなに穏やかな午後は、就任以来初めてだ」
クライヴ閣下も、窓辺で読書をするという貴族らしい優雅な時間を過ごしている。
平和だ。
あまりにも平和すぎて、逆に不安になるレベルだ。
「……閣下。私の統計データによりますと、『平穏な時間が三日続いた後は、必ず大型トラブルが発生する』という法則があります」
「縁起でもないことを言うな。今はただ、この静寂を愛そうじゃないか」
閣下が微笑んだ、その瞬間だった。
ドーーーーーーン!!
王城全体が揺れるような、凄まじい衝撃音が響いた。
「!?」
ガタガタとティーカップが震える。
直後、廊下を走る無数の足音と、怒号が聞こえてきた。
「なんだ!? 敵襲か!?」
閣下が立ち上がり、剣を手に取る。
バンッ!
扉が乱暴に開かれた。
飛び込んできたのは、顔面蒼白になった財務大臣だった。
「さ、宰相閣下ーーッ!! た、大変です!! 国が……国が傾きます!!」
「落ち着け! 何があった! 隣国が攻めてきたのか!?」
「いいえ! もっと悪い事態です! ア、アレクセイ殿下が……殿下が『商船三井(仮)』との独占貿易契約にサインをしてしまいました!!」
時が止まった。
私と閣下は顔を見合わせた。
「……は?」
閣下が低い声で問い返す。
「あの『商船三井(仮)』か? 以前から詐欺まがいの商法でブラックリストに入っていた、あの?」
「は、はい……! 殿下は『僕が新しい交易ルートを開拓した! これで国は潤う!』と仰って、独断で……」
「契約書の内容は!?」
「そ、それが……」
財務大臣が震える手で写しを差し出した。
閣下がそれをひったくるように奪い、目を通す。
そして、数秒後。
バリィッ!!
閣下の手の中で、羊皮紙が握りつぶされた。
「……馬鹿な」
閣下の全身から、殺気が噴き出した。
「『輸入品の関税を全廃』。『支払いは王家の小切手で無制限』。『違約金は国家予算の五百年分』……だと?」
「ご、五百年分……!?」
私も慌ててその紙屑(契約書)を覗き込んだ。
「……これは酷い。子供の落書きレベルの不平等条約です。第五項、『商品の検品は行わない』? これではゴミを送りつけられても文句が言えません」
私は冷静に分析した。
「閣下。これを承認したのはいつですか?」
「日付は……今朝だ。ついさっきだ!」
「効力は?」
「王族の署名と、王家の印章が押されている。……法的には『有効』だ」
「ぐっ……!」
財務大臣が膝から崩れ落ちた。
「終わりだ……。この契約が履行されれば、我が国の国庫は三日で空になる……」
「なぜ誰も止めなかったんだ!」
閣下が怒鳴る。
「殿下が『これは機密事項だ! 邪魔するな!』と言って、部屋に鍵をかけて……」
ああ、目に浮かぶようだ。
アレクセイ殿下は、きっとこう思ったのだろう。
『リーフィがいなくても、僕にはこんな大きな商談をまとめる力があるんだ! みんなを見返してやる!』と。
その相手が、私が以前「要注意人物」としてマークし、殿下の視界に入らないように排除し続けていた詐欺師だとも知らずに。
「……リーフィ」
閣下が私を見た。
その瞳は、助けを求めるように揺れている。
「計算してくれ。……被害総額は?」
私は脳内のそろばんを弾いた。
「現時点での発注済み貨物と、為替レート、および違約金を合算しますと……約五百億ゴールド。国民一人当たり、百年の借金を背負う計算になります」
「……」
執務室が、墓場のような静寂に包まれた。
「……殺すか」
閣下がボソリと呟き、剣の柄に手をかけた。
「待ってください、閣下。王子殺しは大罪です。国が滅びる前に閣下が処刑されてしまいます」
「だが、他にどうしろと言うんだ! この契約を破棄するには、相手側の同意が必要だ! 奴らが『はいそうですか』と手放すはずがない!」
閣下は激昂し、デスクを拳で叩いた。
普段冷静な彼がこれほど取り乱すのは、事態が本当に「詰んでいる」からだ。
法治国家である以上、王族のサインが入った契約は絶対。
それを覆すには、クーデターを起こすか、魔法で時間を巻き戻すしかない。
……普通なら。
「……閣下。一つだけ、確認してもよろしいですか?」
私は静かに手を挙げた。
「なんだ? 何か策があるのか?」
「この契約書、殿下のサインの下に『副署』の欄がありますね」
私は指差した。
王族が公的な契約を結ぶ際、必ず担当官僚か補佐役のサイン(副署)が必要となる。
これは暴走を防ぐためのダブルチェックシステムだ。
「ああ。……だが、ここには『ミナ・フォン・ベルガー』とサインがある。彼女を証人にしたのだろう」
「はい。ですが、ミナ様はまだ正式な王族でも、任命された官僚でもありません。ただの男爵令嬢です」
「……それがどうした? 王族の権限で特例として認めさせたと言われれば……」
「いいえ、問題はそこではありません」
私はニヤリと笑った。
「私が現役時代(婚約者時代)、この種の契約書フォーマットに、ある『仕掛け』をしておいたのを覚えていますか?」
「仕掛け?」
「はい。殿下が何も読まずにサインすることを見越して、契約書の裏面の、さらに隅っこの、虫眼鏡がないと読めないような場所に、特記事項を埋め込んでおいたのです」
私は契約書の写しを裏返し、光に透かした。
「ここです」
閣下と財務大臣が目を凝らす。
そこには、米粒のような文字で、こう書かれていた。
『※本契約は、リーフィ・ベルンシュタインの承認印なき場合、全て無効とし、署名者は一発芸を披露した後に退場するものとする』
「……は?」
閣下が口を開けたまま固まった。
「な、なんだこれは……」
「『最終安全装置(リーフィ・ロック)』です。殿下がどんなに暴走しても、私のハンコがない限り、法的効力が発生しないように書式そのものを改竄……もとい、改良しておいたのです」
「……き、君は……」
閣下が震える声で言った。
「君は、未来予知能力者か?」
「いいえ、ただのリスクマネジメントです。殿下がやらかすことは、火を見るより明らかでしたので」
私はポン、と自分のデスクの引き出しを開け、印鑑を取り出した。
「つまり、現状この契約書は『ただの紙切れ』です。私さえ押印しなければ、国庫は一円も動きません」
「おおお……!」
財務大臣が涙を流して床に平伏した。
「女神……! あなたは真の女神だ! 国が救われた……!」
「ただし」
私は表情を引き締めた。
「法的には無効でも、対外的には『王子がサインした』という事実は残ります。相手の商会は、『詐欺だ!』と騒ぎ立て、国際問題にするでしょう」
「……そうだな。恥をかかされたと逆ギレしてくるはずだ」
閣下の目にも、理性の光が戻っていた。
「だが、国が滅びるよりはマシだ。あとは外交と脅し……いや、交渉で捻じ伏せる」
「はい。ですが、そのためには一つ、面倒な手順が必要です」
「手順?」
「この『リーフィ・ロック』を発動させるためには、私が公式の場に出て、『承認しません』と宣言しなければなりません。つまり……」
私は嫌そうに顔をしかめた。
「また、あのアレクセイ殿下と顔を合わせなければならないのです」
「……すまない、リーフィ」
閣下は私の手を強く握った。
「君に不愉快な思いをさせるが、力を貸してくれ。この国のために」
「……仕方ありませんね。残業代、弾んでくださいよ?」
「ああ。私の全財産でも足りないくらいだ」
こうして、国を救うため、そして馬鹿な元婚約者の尻拭いをするため、私は再び表舞台に立つことになった。
だが、この時、アレクセイ殿下はまだ知らなかった。
自分が世界を変える契約を結んだと信じ込み、玉座の間でシャンパンを開けて祝杯を挙げていることを。
そして、その数分後に、地獄(現実)を見ることになることを。
「さあ、行きましょうか。断罪の……いいえ、後始末の時間です」
私は足音高く、執務室を出た。
宰相執務室。
嵐のような残業デスマッチ(と、深夜の膝枕イベント)を乗り越えた翌日の午後。
私は優雅に紅茶を淹れていた。
「ああ。君のおかげで未決裁案件がゼロになった。こんなに穏やかな午後は、就任以来初めてだ」
クライヴ閣下も、窓辺で読書をするという貴族らしい優雅な時間を過ごしている。
平和だ。
あまりにも平和すぎて、逆に不安になるレベルだ。
「……閣下。私の統計データによりますと、『平穏な時間が三日続いた後は、必ず大型トラブルが発生する』という法則があります」
「縁起でもないことを言うな。今はただ、この静寂を愛そうじゃないか」
閣下が微笑んだ、その瞬間だった。
ドーーーーーーン!!
王城全体が揺れるような、凄まじい衝撃音が響いた。
「!?」
ガタガタとティーカップが震える。
直後、廊下を走る無数の足音と、怒号が聞こえてきた。
「なんだ!? 敵襲か!?」
閣下が立ち上がり、剣を手に取る。
バンッ!
扉が乱暴に開かれた。
飛び込んできたのは、顔面蒼白になった財務大臣だった。
「さ、宰相閣下ーーッ!! た、大変です!! 国が……国が傾きます!!」
「落ち着け! 何があった! 隣国が攻めてきたのか!?」
「いいえ! もっと悪い事態です! ア、アレクセイ殿下が……殿下が『商船三井(仮)』との独占貿易契約にサインをしてしまいました!!」
時が止まった。
私と閣下は顔を見合わせた。
「……は?」
閣下が低い声で問い返す。
「あの『商船三井(仮)』か? 以前から詐欺まがいの商法でブラックリストに入っていた、あの?」
「は、はい……! 殿下は『僕が新しい交易ルートを開拓した! これで国は潤う!』と仰って、独断で……」
「契約書の内容は!?」
「そ、それが……」
財務大臣が震える手で写しを差し出した。
閣下がそれをひったくるように奪い、目を通す。
そして、数秒後。
バリィッ!!
閣下の手の中で、羊皮紙が握りつぶされた。
「……馬鹿な」
閣下の全身から、殺気が噴き出した。
「『輸入品の関税を全廃』。『支払いは王家の小切手で無制限』。『違約金は国家予算の五百年分』……だと?」
「ご、五百年分……!?」
私も慌ててその紙屑(契約書)を覗き込んだ。
「……これは酷い。子供の落書きレベルの不平等条約です。第五項、『商品の検品は行わない』? これではゴミを送りつけられても文句が言えません」
私は冷静に分析した。
「閣下。これを承認したのはいつですか?」
「日付は……今朝だ。ついさっきだ!」
「効力は?」
「王族の署名と、王家の印章が押されている。……法的には『有効』だ」
「ぐっ……!」
財務大臣が膝から崩れ落ちた。
「終わりだ……。この契約が履行されれば、我が国の国庫は三日で空になる……」
「なぜ誰も止めなかったんだ!」
閣下が怒鳴る。
「殿下が『これは機密事項だ! 邪魔するな!』と言って、部屋に鍵をかけて……」
ああ、目に浮かぶようだ。
アレクセイ殿下は、きっとこう思ったのだろう。
『リーフィがいなくても、僕にはこんな大きな商談をまとめる力があるんだ! みんなを見返してやる!』と。
その相手が、私が以前「要注意人物」としてマークし、殿下の視界に入らないように排除し続けていた詐欺師だとも知らずに。
「……リーフィ」
閣下が私を見た。
その瞳は、助けを求めるように揺れている。
「計算してくれ。……被害総額は?」
私は脳内のそろばんを弾いた。
「現時点での発注済み貨物と、為替レート、および違約金を合算しますと……約五百億ゴールド。国民一人当たり、百年の借金を背負う計算になります」
「……」
執務室が、墓場のような静寂に包まれた。
「……殺すか」
閣下がボソリと呟き、剣の柄に手をかけた。
「待ってください、閣下。王子殺しは大罪です。国が滅びる前に閣下が処刑されてしまいます」
「だが、他にどうしろと言うんだ! この契約を破棄するには、相手側の同意が必要だ! 奴らが『はいそうですか』と手放すはずがない!」
閣下は激昂し、デスクを拳で叩いた。
普段冷静な彼がこれほど取り乱すのは、事態が本当に「詰んでいる」からだ。
法治国家である以上、王族のサインが入った契約は絶対。
それを覆すには、クーデターを起こすか、魔法で時間を巻き戻すしかない。
……普通なら。
「……閣下。一つだけ、確認してもよろしいですか?」
私は静かに手を挙げた。
「なんだ? 何か策があるのか?」
「この契約書、殿下のサインの下に『副署』の欄がありますね」
私は指差した。
王族が公的な契約を結ぶ際、必ず担当官僚か補佐役のサイン(副署)が必要となる。
これは暴走を防ぐためのダブルチェックシステムだ。
「ああ。……だが、ここには『ミナ・フォン・ベルガー』とサインがある。彼女を証人にしたのだろう」
「はい。ですが、ミナ様はまだ正式な王族でも、任命された官僚でもありません。ただの男爵令嬢です」
「……それがどうした? 王族の権限で特例として認めさせたと言われれば……」
「いいえ、問題はそこではありません」
私はニヤリと笑った。
「私が現役時代(婚約者時代)、この種の契約書フォーマットに、ある『仕掛け』をしておいたのを覚えていますか?」
「仕掛け?」
「はい。殿下が何も読まずにサインすることを見越して、契約書の裏面の、さらに隅っこの、虫眼鏡がないと読めないような場所に、特記事項を埋め込んでおいたのです」
私は契約書の写しを裏返し、光に透かした。
「ここです」
閣下と財務大臣が目を凝らす。
そこには、米粒のような文字で、こう書かれていた。
『※本契約は、リーフィ・ベルンシュタインの承認印なき場合、全て無効とし、署名者は一発芸を披露した後に退場するものとする』
「……は?」
閣下が口を開けたまま固まった。
「な、なんだこれは……」
「『最終安全装置(リーフィ・ロック)』です。殿下がどんなに暴走しても、私のハンコがない限り、法的効力が発生しないように書式そのものを改竄……もとい、改良しておいたのです」
「……き、君は……」
閣下が震える声で言った。
「君は、未来予知能力者か?」
「いいえ、ただのリスクマネジメントです。殿下がやらかすことは、火を見るより明らかでしたので」
私はポン、と自分のデスクの引き出しを開け、印鑑を取り出した。
「つまり、現状この契約書は『ただの紙切れ』です。私さえ押印しなければ、国庫は一円も動きません」
「おおお……!」
財務大臣が涙を流して床に平伏した。
「女神……! あなたは真の女神だ! 国が救われた……!」
「ただし」
私は表情を引き締めた。
「法的には無効でも、対外的には『王子がサインした』という事実は残ります。相手の商会は、『詐欺だ!』と騒ぎ立て、国際問題にするでしょう」
「……そうだな。恥をかかされたと逆ギレしてくるはずだ」
閣下の目にも、理性の光が戻っていた。
「だが、国が滅びるよりはマシだ。あとは外交と脅し……いや、交渉で捻じ伏せる」
「はい。ですが、そのためには一つ、面倒な手順が必要です」
「手順?」
「この『リーフィ・ロック』を発動させるためには、私が公式の場に出て、『承認しません』と宣言しなければなりません。つまり……」
私は嫌そうに顔をしかめた。
「また、あのアレクセイ殿下と顔を合わせなければならないのです」
「……すまない、リーフィ」
閣下は私の手を強く握った。
「君に不愉快な思いをさせるが、力を貸してくれ。この国のために」
「……仕方ありませんね。残業代、弾んでくださいよ?」
「ああ。私の全財産でも足りないくらいだ」
こうして、国を救うため、そして馬鹿な元婚約者の尻拭いをするため、私は再び表舞台に立つことになった。
だが、この時、アレクセイ殿下はまだ知らなかった。
自分が世界を変える契約を結んだと信じ込み、玉座の間でシャンパンを開けて祝杯を挙げていることを。
そして、その数分後に、地獄(現実)を見ることになることを。
「さあ、行きましょうか。断罪の……いいえ、後始末の時間です」
私は足音高く、執務室を出た。
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