その婚約破棄、全力で歓迎します。

パリパリかぷちーの

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小鳥のさえずりと共に、アレクセイは目を覚ました。

窓から差し込む朝日は、いつもより数倍輝いて見える。

「ああ……なんて清々しい朝だ」

彼はベッドの上で大きく伸びをした。

隣にユミリアの口うるさい小言はない。

「身だしなみが乱れています」だの、「今日のスケジュールは分刻みです」だの、あの陰気な声を聞かなくて済むのだ。

「自由だ。私はついに、自由を手に入れたのだ!」

アレクセイはガッツポーズを決めた後、ベルを鳴らして従僕を呼んだ。

「おい、着替えだ。今日は最高の気分だからな、一番派手な赤い軍服を用意しろ」

「は、はい……ただちに」

入ってきた従僕の顔色が悪いことに、アレクセイは気づかない。

彼は鼻歌交じりで身支度を整えると、愛するニーナの待つサロンへと向かった。



「アレクセイ様ぁ! おはようございますぅ!」

サロンに入ると、ニーナが子犬のように駆け寄ってきた。

「おはよう、私の天使。昨夜はよく眠れたかい?」

「はいっ! ユミリア様のいじわるな夢も見ませんでした!」

「そうかそうか。あんな女のことは忘れて、これからは楽しいことだけを考えよう」

アレクセイはニーナをソファーに座らせ、優雅に脚を組んだ。

しかし、そこで動きが止まる。

いつもなら、彼が座ると同時に絶妙な温度の紅茶が出てくるはずだった。

だが、テーブルの上は空っぽだ。

「……お茶は?」

「え? あ、私、まだ淹れてないです」

ニーナがきょとんとする。

「侍女たちは何をしているんだ。気が利かないな」

アレクセイが不機嫌そうに周囲を見回すと、控えていた侍従長がおずおずと進み出た。

「あの、殿下……紅茶の在庫がございません」

「は? 在庫がない? 王城だぞここは」

「はい。最高級茶葉『ロイヤル・ダージリン』は、ローゼン公爵家からの寄贈品でしたので……今朝、業者から納入停止の連絡が」

「……ちっ。ユミリアの嫌がらせか」

アレクセイは舌打ちをした。

「まあいい。別の茶葉があるだろう」

「それが、他の茶葉もすべてローゼン商会経由でして……現在、倉庫にあるのは兵士用の麦茶のみです」

「麦茶だと!? 王子である私に、麦茶を飲めというのか!」

ドンッ、とテーブルを叩く。

ニーナがびくりと肩を震わせた。

「ご、ごめんなさいアレクセイ様! 私、私が淹れます! 麦茶でも、愛を込めれば美味しくなりますから!」

「おお、ニーナ……! なんて健気なんだ。ああ、君が淹れてくれるなら泥水でも飲めるよ」

「待っててくださいねぇ!」

ニーナはポットを持って給湯室へと走っていった。

「見ろ、あの後ろ姿を。これこそが真の奉仕の心だ」

アレクセイが侍従長に説教を垂れていると、奥から「きゃあっ!」という悲鳴と、ガシャンという盛大な破壊音が聞こえてきた。

「ニーナ!?」

慌てて駆けつけると、そこには割れたポットと、水浸しになった床、そしてへたり込むニーナの姿があった。

「あ、あちち……お湯が、跳ねて……」

「大丈夫か! 火傷は!?」

「指先が……赤くなっちゃいましたぁ(涙)」

「なんてことだ! 医者だ、すぐに宮廷医を呼べ!」

アレクセイが叫ぶ。

侍従長は頭を抱えた。

(指先が少し赤くなっただけで宮廷医……? しかもポットを割ったのは王家伝来の白磁……)

「アレクセイ様ぁ、私、お茶も淹れられないダメな子ですぅ……」

「そんなことはない! 君はただ、ポットの構造が悪かっただけだ! 悪いのはポットだ、死刑にしろ!」

ポットを死刑にする方法は不明だが、アレクセイの剣幕に誰も突っ込めない。

結局、朝の優雅なティータイムは、掃除と手当の騒ぎで消滅した。

          ◇ ◇ ◇

気を取り直して、アレクセイは執務室へと向かった。

「ふん、たかがお茶一つで騒ぎすぎだ。仕事で気分転換をするとしよう」

彼は自分のデスクに座り、書類の山……ではなく、山脈を見上げた。

「……なんだこれは」

「未決裁の書類でございます、殿下」

事務官が無表情で答える。

「昨日まではこんなになかったぞ」

「昨日までは、ユミリア様が毎朝4時に登城され、重要度別に仕分けをし、要約を付箋に書き、九割方を処理されていましたので」

「なっ……」

アレクセイは絶句した。

あの女、そんなに働いていたのか?

いや、違う。

「騙されるものか。どうせ私に『仕事をしていましたアピール』をするために、わざと溜め込んでいたに違いない」

「いいえ、これは昨夜から今朝にかけて届いた分だけでございます」

「……は?」

「地方からの陳情書、予算申請書、近隣諸国との貿易協定書、そしてローゼン公爵家関連の契約解除通知書……合計で三百件ほどです」

「さ、三百……」

アレクセイは一番上の書類を手に取った。

『北方要塞補修予算追加申請について』

ずらりと並ぶ数字。専門用語。そして最後に「至急」の文字。

「……読めん」

「はい?」

「字が小さすぎる! それに、なんだこの『減価償却』とか『流動比率』とかいう呪文は! もっとわかりやすく書けと言っておけ!」

アレクセイは書類を投げ捨てた。

「ですが殿下、これは本日中に決済をいただかないと、工事が止まります」

「知らん! ニーナ、ニーナはどこだ! 癒やしが必要だ!」

「ニーナ様なら、先ほど『難しい空気は肌に悪い』と言って庭園にお花を摘みに行かれました」

「そうか、さすがは私の女神だ。仕事よりも私の心の平穏を優先してくれているのだな」

アレクセイは現実逃避全開で頷いた。

そこへ、血相を変えた財務大臣が飛び込んでくる。

「で、殿下! 大変です! 城の食材搬入が止まりました!」

「またか! 今度はなんだ!」

「代金未払いのため、卸売業者がボイコットを……! ローゼン公爵家の後ろ盾がなくなった途端、彼らが現金前払いを要求してきまして!」

「金なら金庫にあるだろう!」

「それが……金庫番が鍵を持ったまま蒸発しまして……」

「はあああ!?」

アレクセイは髪をかきむしった。

「どいつもこいつも、私を困らせやがって! ユミリアだ、きっとユミリアが裏で手を引いているんだ!」

「い、いえ、これは純粋に信用の問題でして……」

「ええい、うるさい! 私は王子だぞ! 未来の国王だぞ! 私のツケにしておけ!」

「その『王家のツケ』が信用されていないのです!」

財務大臣の悲痛な叫びが執務室に響く。

だが、アレクセイの耳には届かない。

彼は引き出しから取り出した鏡を見て、自分の顔の角度を調整し始めた。

「落ち着け、私。イライラすると美貌が台無しだ。そうだ、こういう時こそ『愛』だ」

彼は立ち上がった。

「今日はもう仕事は終わりだ! ニーナとピクニックに行く!」

「で、殿下!? 書類が! 国が!」

「知らん! 父上が起きたらなんとかするだろう!」

アレクセイはマントを翻し、逃げるように部屋を出て行った。

残された事務官と財務大臣は、無言で顔を見合わせる。

「……あの、辞表の書き方、教えてもらえますか?」

「奇遇ですね。私も今、同じことを考えていました」

静かに、しかし確実に、王城の機能が停止していく音がした。

          ◇ ◇ ◇

一方その頃。

国境へと向かう馬車の中。

「っくしょん!」

ユミリアが可愛らしくくしゃみをした。

「おや、風邪か?」

向かいに座る父が、書類から目を上げずに尋ねる。

「いいえ。誰かが私の噂をしているのかもしれません。……まあ、十中八九、悪口でしょうけれど」

「違いない。今頃、王城は大騒ぎだろうからな」

ユミリアは窓の外を見た。

遠くに、国境を守る巨大な関所が見えてくる。

「お父様。見えてきましたわ」

「うむ。ガレリア帝国への玄関口、『鉄壁の関所』だ」

そこには、長蛇の列ができていた。

物流が滞っているのか、馬車が全く進んでいない。

「……遅いですね」

ユミリアの目が、スッと細められた。

それは「公爵令嬢」の目ではなく、「業務改善の鬼」の目だった。

「あの荷車の配置、非効率的です。検問官の動線も無駄が多い。あそこで書類確認をするから渋滞が起きるのです。事前に記入用紙を配って、待機列でチェックさせれば三割は短縮できるはず」

ぶつぶつと独り言を呟き始めた娘を見て、父は苦笑する。

「ユミリア。まだ隣国に入ってもいないのに、もう仕事モードか?」

「職業病ですわ。目の前に『非効率』があると、体が勝手に改善案を弾き出してしまうのです」

その時。

彼らの馬車の横を、数騎の騎士が通り過ぎようとした。

先頭を行くのは、黒馬に跨った一人の青年。

銀色の髪に、理知的な眼鏡。そして氷のように冷ややかな瞳。

ユミリアの視線と、青年の視線が、一瞬だけ交差した。

「……?」

青年が馬を止める。

ユミリアもまた、窓から顔を出したまま、彼を見つめた。

運命の出会い――にしては、彼女の第一声はあまりにも色気がなかった。

「そこの貴方。馬の蹄鉄、左後ろが緩んでいますよ。今のままだとあと三キロで外れて転倒します。確率は98%です」

青年は目を丸くし、すぐに下馬して蹄を確認した。

そして、信じられないものを見るような目でユミリアを見上げた。

「……正解だ。君は、何者だ?」

ユミリアはにっこりと微笑んだ。

「通りすがりの、ただの元・悪役令嬢です」
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