その婚約破棄、全力で歓迎します。

パリパリかぷちーの

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「……なるほど。確かに緩んでいた」

銀髪の青年――ガレリア帝国のクラウス公爵は、愛馬の足元を確認し、感嘆の声を漏らした。

彼は懐からハンカチを取り出し、手を拭きながら私の馬車へと歩み寄ってくる。

「礼を言う。君の指摘がなければ、この先で落馬して骨折していたところだ。確率は何%だったかな?」

「98%です。残りの2%は、貴方様の体幹が人間離れしていて持ちこたえる可能性です」

私が窓から顔を出したまま答えると、彼は口元をわずかに緩めた。

「手厳しいな。だが、的確だ」

「お役に立てて光栄です。では」

私は軽く会釈をし、窓を閉めようとした。

これ以上の会話は不要だ。

私たちは亡命……ではなく、戦略的撤退の途中なのだから。

しかし、私の手は空中で止まった。

なぜなら、馬車がピクリとも動かないからだ。

「……動きませんね」

「動きませんな」

向かいの父が肩をすくめる。

前方を見れば、検問待ちの馬車が長蛇の列を作っている。

十分経過。

進んだ距離、ゼロメートル。

二十分経過。

進んだ距離、五十センチ(馬が一歩動いただけ)。

「…………」

私のこめかみに、青筋が浮かんだ。

指先がリズムを刻み始める。

イライラ、イライラ、イライラ。

「お父様。私、我慢の限界です」

「なんだ、トイレか?」

「違います。あの検問の『非効率さ』に対してです! 見てください、あの無駄な動き!」

私は窓をバンと開け放ち、前方に見える検問所を指差した。

「なぜ、観光客の馬車と商人の荷馬車を同じレーンに並ばせるのですか! 荷物検査にかかる時間が平均30秒と5分で、十倍も違うのに!」

「ふむ。確かに」

「それに、あの検問官! 書類を受け取ってから読み始めています! なぜ待機列に係員を配置して、事前に不備チェックを行わないのですか! これでは窓口での処理時間が三倍になります!」

「落ち着けユミリア。声が大きいぞ」

「落ち着いていられません! 時は金なりです! この渋滞によって失われている経済損失を計算すると、一時間あたり金貨五百枚……!」

私がまくし立てていると、窓の外からクスクスという笑い声が聞こえた。

見れば、先ほどの青年――クラウスが、私の馬車の横に立って面白そうにこちらを見ていた。

「盗み聞きとは趣味が悪いですわね」

「すまない。あまりにも心地よい『怒り』だったので、つい聞き惚れてしまった」

「心地よい?」

「ああ。私も常々、この関所のトロさには反吐が出ると思っていたところだ」

クラウスは眼鏡の位置を直すと、氷のように冷徹な瞳を検問所へ向けた。

「おい、そこの衛兵隊長」

彼が声をかけると、近くにいた兵士が弾かれたように直立不動になった。

「は、はいっ! これはクラウス公爵閣下! 視察は明日と伺っておりましたが!」

「予定を早めた。……ところで隊長。今、そこの令嬢が言った改善案、聞こえていたな?」

「へ? あ、はい。なんか怒鳴り声が……」

「『観光客と商用車のレーン分離』、そして『待機列での書類事前チェック』だ。今すぐ実行しろ」

「えっ? し、しかし、そのような前例は……」

「前例がないなら作ればいい。それとも何か? お前は私の命令よりも前例を優先するのか? それなら、お前の代わりの『前例』を私が今ここで作ってやってもいいんだぞ?」

クラウスの声は静かだったが、その背後には絶対零度の吹雪が見えた。

「ひぃっ! た、ただちに実行しますぅぅ!!」

隊長が走り出すと、検問所は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

だが、効果は劇的だった。

レーンが分けられ、係員が列を回って書類を確認し始めると、今まで詰まっていた血管が開通したかのように、馬車の列がスムーズに動き出したのだ。

「……素晴らしい」

私は思わず呟いた。

「私の理論が、これほど迅速に実践されるなんて」

「理論が正しく、実行者に権限があれば、結果は自ずとついてくる」

クラウスが馬に跨り直し、私の窓辺に並走する。

「見事な分析だった。君のような人間が、なぜこんな場所でくすぶっている?」

「くすぶっていたわけではありません。少々、職場環境がブラック……いえ、ピンク色だっただけです」

「ピンク色?」

「ええ。頭の中がお花畑な上司に恵まれまして」

「それは災難だったな。……ところで、自己紹介がまだだった」

彼は馬上で優雅に一礼した。

「クラウス・フォン・ガレリア。このガレリア帝国の宰相を務めている」

やはり。

父の言っていた「氷の宰相」本人だったか。

私は居住まいを正した。

「お初にお目にかかります。ユミリア・フォン・ローゼン。……現在は無職の、元公爵令嬢です」

「無職? ローゼン公爵家といえば、隣国の財政を支える名家のはずだが」

「昨日付けで廃業しました。現在は、より良い労働条件を求めて放浪の旅に出ております」

私がニッコリ笑うと、クラウスの目が怪しく光った。

それは獲物を見つけた肉食獣の目――いや、優秀な人材を見つけたヘッドハンターの目だった。

「無職、か。それは好都合だ」

彼はポケットから一枚の名刺を取り出し、私に差し出した。

「ユミリア嬢。君のその『数字への愛』と『非効率を許さぬ精神』、我が国で活かしてみる気はないか?」

「……それは、勧誘ですか?」

「そうだ。我が国の官僚は優秀だが、どうしても『前例』や『慣習』に縛られる者が多い。君のような、毒舌……いや、鋭い視点を持つ外部監査役が必要なんだ」

「条件は?」

私が即座に切り返すと、クラウスは楽しげに口角を上げた。

「給与は言い値で払おう。住居、食事、被服費も全て公費負担。そして何より――」

彼は少しだけ顔を寄せ、悪魔のような囁きを放った。

「私の領地にある膨大な赤字事業の再建を、君の好きにしていい。誰も文句は言わせない。思う存分、数字をいじくり回せるぞ」

ドキン。

私の胸が高鳴った。

アレクセイ王子の尻拭いではなく、正当な権限を持って、赤字を黒字に変えるパズルに挑戦できる?

それは私にとって、最高級の宝石よりも魅力的な提案だった。

「……お父様」

私が振り返ると、父は「行ってこい」と言わんばかりに親指を立てていた。

「交渉成立です、クラウス様」

私は名刺を受け取り、不敵な笑みを返した。

「貴国の赤字、私が一円残らず駆逐してみせますわ」

「頼もしいな。では、私の屋敷へ案内しよう。……歓迎するよ、私の新しい『戦友』」

馬車の列が完全に解消され、私たちは風のように国境を通過した。

背後にある祖国の方角には、どんよりとした雨雲がかかっているのが見えた。



一方その頃、祖国の王城。

「あ、アレクセイ様ぁ……お腹すきましたぁ……」

「我慢だニーナ。もうすぐ夕食の時間だ」

執務室から逃亡し、庭園でピクニックをしていた二人だったが、誰も迎えに来ないことにようやく気づき始めていた。

「あの、誰も呼びに来ませんね?」

「おかしいな。いつもなら『殿下、お食事です』とうるさいくらいなのに」

ぐぅ~、とアレクセイの腹が鳴る。

そこへ、ヨロヨロと侍従長が通りかかった。

「おい! 夕食はまだか! こっちは腹ペコなんだぞ!」

アレクセイが怒鳴ると、侍従長は死んだ魚のような目で答えた。

「夕食……? ああ、そういえば料理長が『給料が出ないなら作りません』とストライキを起こしまして……今日のメニューは乾パンと水のみとなっております」

「……は?」

「乾パン?」

ニーナが絶望的な声を上げる。

「嫌ぁぁぁ! 私、硬いパンなんて食べられなーい!」

「落ち着けニーナ! 私が噛み砕いて柔らかくしてやるから!」

「いやああああ! 汚い! キモい!」

「えっ」

初めてニーナに向けられた罵倒に、アレクセイはショックで石になった。

地獄の釜の蓋は、まだ開いたばかりである。
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