その婚約破棄、全力で歓迎します。

パリパリかぷちーの

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ガレリア帝国の帝都にあるクラウス公爵邸は、別名『氷の城』と呼ばれているらしい。

馬車から降りた私は、その威容を見上げて納得した。

無駄な装飾を一切削ぎ落とした幾何学的なデザイン。

手入れが行き届きすぎているがゆえに、生活感の欠片もない庭園。

そして、整列して出迎える使用人たちの、一糸乱れぬ直立不動の姿勢。

「……素晴らしい」

私は感嘆の溜息を漏らした。

「気に入ったか?」

隣でクラウス様が尋ねる。

「はい。見てください、あの窓の配置。採光効率と熱伝導率を計算し尽くしています。それに、使用人の方々の配置も完璧。動線が重ならないよう、数学的な美しさすら感じます」

私が熱く語ると、出迎えのメイド長らしき年配の女性が、ポカンと口を開けた。

まさか、屋敷を見て「綺麗」ではなく「動線が美しい」と褒める令嬢が来るとは思わなかったのだろう。

「そうだろう。私が設計した」

クラウス様が少しだけ自慢げに胸を張る。

「やはり。貴方様とは美味しいお酒が飲めそうです」

「期待しているよ。では、中へ」

クラウス様のエスコートで、私は『氷の城』へと足を踏み入れた。

玄関ホールもまた、塵一つ落ちていない完璧な空間だった。

ただ、一つだけ気になった。

「……クラウス様。あそこのシャンデリア、電球が一つ切れていますね」

私が指差すと、使用人たちが一斉に青ざめた。

「ひぃっ! も、申し訳ございません旦那様! 今朝の点検では異常なかったのですが!」

執事が震え上がりながら土下座せんばかりの勢いで謝る。

クラウス様は眉一つ動かさずに言った。

「交換には何分かかる?」

「さ、三分……いえ、五分以内に!」

「遅い。梯子の準備に30秒、昇降に1分、交換に30秒。計2分で完了させろ」

「は、はいぃぃ!!」

執事が脱兎のごとく走り去る。

その背中を見送りながら、私は手帳を取り出した。

「クラウス様。予備電球の保管場所が遠いのでは? 各階の収納庫に分散配置すれば、移動時間を40秒短縮できます」

「……なるほど。採用だ」

クラウス様がパチンと指を鳴らすと、控えていた書記官が必死の形相でメモを取った。

その様子を見ていたメイドたちが、ひそひそと囁き合う。

「おい、見たか? あの新しいお客様……」

「ああ。旦那様と同じ『種族』だ……」

「終わった。この屋敷、もう息抜く場所がないぞ……」

彼女たちの絶望的な視線に気づかないふりをして、私はクラウス様に微笑みかけた。

「さて、私の執務室はどこでしょう? 荷解きよりも先に、まずは直近三ヶ月分の出納帳を見せていただきたいのですが」

「君は本当に休まないな。……いいだろう。こちらだ」

こうして、私のガレリア帝国での新生活は、到着からわずか十分で「業務開始」となった。

          ◇ ◇ ◇

一方その頃。祖国の王城、王子の執務室。

「……なんだ、これは」

アレクセイは、目の前の光景に呆然としていた。

昨日よりも、書類の山が高くなっている。

いや、山ではない。壁だ。

「おはようございます、殿下」

昨日とは別の、やつれた顔をした文官が挨拶をした。

「お、おい。昨日の文官はどうした?」

「『田舎で農業を始めます』と言い残して失踪しました。私が後任です」

「無責任な!」

アレクセイは机を叩こうとしたが、書類が邪魔で叩くスペースもなかった。

「で、殿下。こちらの書類にご署名を」

「待て待て、急かすな。まずはコーヒーだ。ニーナの淹れた甘いコーヒーがないと頭が働かん」

「ニーナ様なら、先ほど『インクの匂いが臭い』と言って部屋を出て行かれました」

「なっ……! か、可哀想に。繊細なニーナには、この埃っぽい部屋は毒なのだな」

アレクセイは自分に言い聞かせるように頷くと、渋々書類を手に取った。

『緊急:西方街道における魔物被害対策費の補填について』

「……補填? なんだそれは」

「足りない分を埋め合わせることです」

「知っている! 馬鹿にするな! 私が聞いているのは、なぜ足りないのかということだ!」

「それは殿下が先月、『騎士団の鎧が地味だ』と言って、予算を全額『金メッキ加工費』に回したからです」

「……あー、そういえばそんなこともあったな」

金ピカになった騎士団は、重すぎて動けず、魔物にボコボコにされたらしい。

「で、どうすればいい?」

「他から予算を持ってくるしかありません」

「じゃあ、この『教育予算』というやつから回せ」

「それは孤児院の運営費です」

「知らん! 子供は風の子だ、勝手に育つ! 今は騎士団のメンツが大事だ!」

アレクセイがペンを走らせようとしたその時、インク壺が空であることに気づいた。

「おい、インクがないぞ」

「……予算不足で買えません」

「はあ!? 王子がサインするインクもないのか!」

「はい。代わりにこちらをお使いください」

文官が差し出したのは、子供が使うようなクレヨンだった。

「赤色です。赤字にはお似合いかと」

「貴様……! 私を愚弄するか!」

「滅相もございません。ただの事実陳列罪です」

アレクセイは怒りでクレヨンをへし折った。

「もういい! やってられん! ニーナ、ニーナあああ!」

彼は椅子を蹴り倒し、逃亡を図ろうとした。

しかし、扉を開けた瞬間、そこに立っていたのは仁王立ちした財務大臣だった。

「どちらへ? 殿下」

「ど、どけ! 私はトイレに行くのだ!」

「トイレならここに壺を用意しました。さあ、仕事を続けてください。ノルマはあと五百枚です」

「ご、五百……!?」

「ちなみに、ユミリア様はこれを午前中だけで片付けておりましたよ?」

その名前が出た瞬間、アレクセイのプライドに火がついた。

「だ、黙れ! あんな女に負けてたまるか! 貸せ、そのクレヨンを!」

アレクセイは折れたクレヨンをひったくると、ミミズがのたうち回るような字でサインを始めた。

内容は読んでいない。

ただひたすら、名前を書くマシーンと化した。

そのサインが、後に「王家所有の別荘売却」や「王冠の質入れ」といったとんでもない契約を承認することになるとは、知る由もなかった。



ガレリア帝国、クラウス公爵邸。

「……ふむ」

私は渡された出納帳をパラパラとめくっていた。

隣では、クラウス様が固唾を飲んで見守っている。

「どうだ? 我が家の財政状況は」

「悪くありません。むしろ、基礎体幹はしっかりしています。ただ……」

私はある一点を指差した。

「この『研究開発費』の項目。毎月定額で金貨千枚が消えていますが、内訳が『その他』になっています。これは?」

クラウス様が、初めて視線を逸らした。

「……それは、その……私の趣味だ」

「趣味?」

「新しい魔法具の開発が好きでな。ついつい、珍しい素材を買ってしまう」

「なるほど。宰相閣下にも可愛いところがあるのですね」

私が微笑むと、彼は少し顔を赤らめた。

「だが、無駄遣いと言われればそれまでだ。削減すべきか?」

「いいえ。投資対効果(ROI)が見込めれば問題ありません。その開発中の魔法具、見せていただけますか?」

「ああ。こっちだ」

案内された地下室には、ガラクタ……もとい、作りかけの魔道具が山のように積まれていた。

私はその中の一つ、書きかけの羊皮紙が自動でめくれる装置に目をつけた。

「これ……少し改良すれば、自動ページめくり機能付きの譜面台として売れますわ」

「本当か?」

「はい。ターゲットは王立音楽院の学生。原価計算をすると……利益率は60%を超えます」

私の計算を聞いて、クラウス様の目が輝きだした。

「君は……錬金術師か?」

「いいえ。ただの商売人(元悪役令嬢)です」

私はニヤリと笑った。

「クラウス様。この地下室は宝の山です。私に任せていただければ、貴方の『趣味』を、莫大な『資産』に変えてみせましょう」

「……頼む。君になら、私の全てを任せられる気がする」

その言葉には、契約以上の熱がこもっているように聞こえた。

地下室の薄暗がりの中、私たちは共犯者のように見つめ合った。

数字と利益で結ばれた絆は、案外、『真実の愛』よりも強固なのかもしれない。
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