5 / 28
5
公爵邸での生活初日。
荷解きは優秀な侍女ハンナの手によって、瞬く間に完了した。
私は念願の図書室へと足を運んだ。
「……素晴らしい」
扉を開けた瞬間、古紙とインクの香りが鼻孔をくすぐる。
壁一面、いや天井まで届く本棚にぎっしりと詰め込まれた書物の数々。
歴史書、魔導書、哲学書、そして大衆小説まで。
国立図書館に匹敵する蔵書量だ。
「ここにある本は全て、君のものだ」
アイザック様が言っていた言葉を思い出し、私は口元が緩むのを抑えきれなかった。
(これが……これら全てが、読み放題……!)
私は震える手で、背表紙の一冊に触れた。
『古代ルーン文字の変遷と応用』
絶版になった希少本だ。市場価格なら金貨100枚は下らない。
「ふふ……ふふふ……」
誰もいない図書室で、不気味な笑い声が漏れる。
さっそく読みたい。今すぐ読みたい。
だがその前に、やらなければならないことが一つだけあった。
私は図書室の隅で縮こまっている、一人の若いメイドに声をかけた。
「そこの貴女」
「ひっ、はいぃぃっ!」
メイドは弾かれたように飛び上がり、直立不動の姿勢を取った。
「な、ななな、何でございましょうか、奥様! わ、私、何か粗相を……!?」
「いいえ。ただ、ここが暗いと言いたかっただけです」
「も、申し訳ございません! すぐに照明を……!」
「待ちなさい。魔導ランプを増やすだけでは非効率です」
私は窓の方を指差した。
重厚なベルベットのカーテンが、昼間だというのに半分以上閉められている。
「このカーテン、厚すぎて採光を妨げています。日中はレースのカーテンのみにし、自然光を取り入れなさい。その方が目にも優しいし、魔石の燃料費も削減できます」
「は、はい! すぐに!」
メイドは慌ててカーテンを開け放った。
柔らかな陽光が差し込み、図書室全体が明るくなる。
「それと、換気が不十分です。湿気は本の大敵。一日に二回、定時に窓を開けて空気を入れ替えなさい」
「かしこまりました!」
「最後に。貴女、先ほどからずっとそこで待機していますが、何をしているのですか?」
「え……あ、あの、奥様がご用命の際に、すぐに対応できるよう……」
「無駄です」
私はバッサリと言い捨てた。
「私が本を読んでいる間は、誰にも邪魔されたくありません。お茶のおかわりが必要なら自分でベルを鳴らします。貴女がそこに突っ立っている時間は、人的リソースの損失です」
「は、はあ……」
「その時間があるなら、他の仕事を片付けるか、あるいは休憩を取りなさい。疲れた人間がそばにいると、こちらの集中力が削がれます」
メイドは目を丸くした。
「きゅ、休憩……してよろしいのですか?」
「適度な休息は作業効率を上げます。行ってよし」
私が手を振ると、メイドは信じられないものを見るような目で私を見つめ、それから深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございます! 失礼いたします!」
彼女はスキップでもしそうな足取りで図書室を出て行った。
(ふぅ……これでやっと静かになった)
私は一番座り心地の良さそうなソファに沈み込み、本を開いた。
静寂。
快適な室温。
最高の椅子。
(……天国か)
私はページをめくる。
活字の海に溺れる快感。
これだ。私が求めていたのは、この時間なのだ。
***
それから数時間が経過した。
夕食の時間になり、私は渋々本を閉じて食堂へと向かった。
食堂には、すでにアイザック様が待っていた。
彼は私を見るなり、花が咲くような笑顔を向けた。
「やあ、ローゼン。屋敷での初日はどうだった? 退屈しなかったか?」
「退屈? まさか。時間が足りないくらいでした」
私は席に着きながら答えた。
「図書室の蔵書ラインナップは完璧です。ただ、分類法が少し古いのが気になりましたが」
「そうか。なら、君の好きなように並べ替えてくれて構わない」
「本当ですか? では、明日から十進分類法を導入します」
「ああ。君の色に染めてくれ」
会話が微妙に噛み合っていない気がするが、許可は得た。
前菜のスープが運ばれてくる。
給仕をするのは、先ほど図書室にいた若いメイドだ。
彼女はスープ皿を置く際、私にだけそっと小声で囁いた。
「奥様、先ほどはありがとうございました。おかげさまで、少し仮眠が取れました」
彼女の顔色は、昼間よりもずっと良くなっていた。
「それは何よりです。ミスが減るなら、それが一番です」
私が淡々と答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
それを見ていたアイザック様が、面白そうに眉を上げた。
「ほう。使用人があんなに自然に笑うとはな。何を魔法を使った?」
「魔法など使っていません。ただ、無駄な待機時間を削減し、休憩を推奨しただけです」
私はスープを一口飲み、続けた。
「この屋敷の使用人たちは、勤勉すぎます。あるいは、恐怖心から過剰労働をしている。それは長期的に見て、公爵家の損失になります」
「損失?」
「ええ。疲労は注意力を散漫にさせ、皿を割る、掃除を見落とすなどのミスを誘発します。さらに、過労で倒れられたら、新たな人材を雇って教育するコストがかかります」
私はナイフでパンを切りながら、力説した。
「ですから、私は料理長にも提案しました。『毎食フルコースを作る必要はない。私の昼食はサンドイッチで十分だ』と」
「……それで?」
「料理長は泣いていました。『手抜きをするわけにはいきません!』と。なので、『これは手抜きではない。カロリー過多による私の肥満防止と、貴方たちの食材ロスの削減という戦略的撤退だ』と説得しました」
アイザック様は、ポカンと口を開けて私を見ていた。
そして次の瞬間、テーブルを叩いて爆笑した。
「はっはっは! 戦略的撤退か! まさか、俺の屋敷で『働き方改革』が行われるとはな!」
「笑い事ではありません。貴方は経営者として、もっと人的資源の管理に目を向けるべきです」
「違いない。だが、俺は今まで厳しくすることこそが規律だと思っていた。……君はすごいな」
彼は笑い涙を拭いながら、熱っぽい瞳で私を見つめた。
「合理的で、冷徹で、けれど結果として誰よりも優しい」
「優しくはありません。効率を求めているだけです」
「そのツンとした態度も最高だ。……ああ、もっと罵ってくれ。『経営者失格だ』と」
「……食事中に変なスイッチを入れないでください」
私は呆れてため息をついた。
この人は、有能な騎士団長でありながら、私の前ではただの変人になる。
だが、不思議と不快ではなかった。
王太子殿下(元婚約者)との食事は、常に彼の自慢話を聞かされる接待のようなものだった。
それに比べて、この空間は居心地が良い。
私の意見を聞き入れ、肯定し、楽しんでくれる。
(……悪くない再就職先かもしれない)
そんなことを思ってしまった自分に、少しだけ警戒心を抱きつつ、私はメインディッシュの肉料理を口に運んだ。
***
食後。
私はサロンで食休みをしていた。
アイザック様は緊急の書類仕事があるとかで、執務室に籠もっている。
「失礼します、ローゼン様」
現れたのは、この屋敷を取り仕切る老執事、セバスチャンだった。
彼は銀のトレイに載せたハーブティーを、テーブルに置いた。
「……何か?」
私が視線を向けると、セバスチャンは居住まいを正した。
「お礼を申し上げたく、参上いたしました」
「お礼?」
「はい。本日の奥様の改革……使用人一同、感銘を受けております」
セバスチャンは深く頭を下げた。
「先代の公爵様が亡くなられてから、現当主様は常に気を張っておられました。『氷の公爵』などと呼ばれ、屋敷の中もどこか張り詰めた空気が漂っておりました。私どもも、粗相をしてはならぬと、常に緊張しておりました」
「……ふむ」
「しかし、今日、奥様がいらして……空気が変わりました。『効率』という言葉の下に、私どもを一人の人間として扱ってくださった」
セバスチャンが顔を上げると、その目には薄っすらと涙が浮かんでいた。
「皆、申しておりました。『あの方のためなら、喜んで働きたい』と。……私も同感でございます」
私はカップを持ち上げたまま、少し困惑した。
ただ自分のために環境を整えただけなのに、なぜか感謝されている。
これは……計算外だ。
「……勘違いしないでください、セバスチャン。私は、自分にとって快適な環境を作りたいだけです。貴方たちが倒れて、私の生活レベルが下がるのが嫌なだけなのです」
「ふふ、左様でございますか。……お優しい方だ」
「優しくなど……」
否定しようとしたが、セバスチャンの温かい眼差しに、言葉が詰まった。
「これからも、どうぞよろしくお願いいたします。……奥様」
彼は一礼して去っていった。
残された私は、温かいハーブティーを一口飲んだ。
カモミールの香りが、胸の奥をじんわりと温める。
(……調子が狂うわね)
悪役令嬢として恐れられ、嫌われることには慣れている。
だが、こうして正面から感謝されることには、全く免疫がない。
私はカップの縁で、少しだけ熱くなった頬を隠した。
*
翌朝。
私は小鳥のさえずりと共に目覚めた。
時計を見ると、午前9時。
「……勝った」
私は布団の中で拳を握りしめた。
早朝の叩き起こしがない。
アイザック様は約束を守り、私の睡眠時間を尊重してくれたのだ。
最高の気分でベッドから這い出し、ベルを鳴らす。
すぐにハンナと、昨日の若いメイドが入ってきた。
「おはようございます、奥様!」
二人の声が弾んでいる。
「おはよう。……朝食は部屋で摂ります」
「はい! サンドイッチとフルーツをご用意しております!」
手際よく支度が整えられていく。
私は着替えを済ませ、窓際のテーブルで優雅な朝食を楽しんだ。
これぞ、私が求めていた生活。
スローライフ。
そう確信した瞬間、扉がノックされた。
「ローゼン、入るぞ」
返事も待たずに、アイザック様が入ってきた。
彼は今日も騎士服に身を包み、眩しいほどのイケメンぶりを発揮している。
「おはよう、私の愛しい寝坊助さん」
「……おはようございます。何かご用ですか? 私はこれから、図書室の分類作業に取り掛かる予定なのですが」
「残念だが、その予定はキャンセルだ」
彼は悪びれもせずに言った。
「外出するぞ」
「は? 嫌です」
私は即答した。
「引きこもり生活二日目で外出など、言語道断です」
「まあそう言うな。君に必要なものだ」
「私に必要なのは、本と静寂と糖分だけです」
「ドレスだ」
アイザック様は私の言葉を遮った。
「来週、王城で夜会がある」
「……夜会?」
嫌な単語が聞こえた。
「はい、欠席します」
「残念ながら、強制参加だ。俺の婚約者としてのお披露目も兼ねている。それに……」
彼は少し声を潜め、真剣な表情になった。
「クラーク殿下が、何やら不穏な動きを見せているらしい。君を『側室』として取り戻すための根回しを始めたという情報が入った」
「……あのバカ王子、まだ諦めていないのですか」
「ああ。だからこそ、公の場で俺たちの仲を見せつけ、既成事実を叩きつける必要がある。『ローゼンは俺のものだ』とな」
アイザック様は私の手を取り、強引に立たせた。
「というわけで、デートだ。街へ行って、君に似合う最強の戦闘服(ドレス)を仕立てるぞ」
「……戦闘服?」
「そうだ。王城という戦場で、元婚約者と浮気相手を黙らせるための、最高に美しく、冷酷に見えるドレスだ」
彼の瞳が、楽しげに輝く。
「俺が選ぶ。君のその『鉄壁の無表情』が一番映える色をな」
私はため息をついた。
どうやら、本の整理は後回しになりそうだ。
けれど、あの粘着質な元婚約者を撃退するためなら、致し方ない。
「わかりました。……ただし、店までの移動中、馬車の中で本を読むことは許可してくださいね」
「もちろん。君が本に夢中で俺を無視する時間……プライスレスだ」
「……本当に、いい性格してますね」
こうして私は、ニート生活二日目にして、まさかのデート(という名の装備調達)に出かけることになったのである。
荷解きは優秀な侍女ハンナの手によって、瞬く間に完了した。
私は念願の図書室へと足を運んだ。
「……素晴らしい」
扉を開けた瞬間、古紙とインクの香りが鼻孔をくすぐる。
壁一面、いや天井まで届く本棚にぎっしりと詰め込まれた書物の数々。
歴史書、魔導書、哲学書、そして大衆小説まで。
国立図書館に匹敵する蔵書量だ。
「ここにある本は全て、君のものだ」
アイザック様が言っていた言葉を思い出し、私は口元が緩むのを抑えきれなかった。
(これが……これら全てが、読み放題……!)
私は震える手で、背表紙の一冊に触れた。
『古代ルーン文字の変遷と応用』
絶版になった希少本だ。市場価格なら金貨100枚は下らない。
「ふふ……ふふふ……」
誰もいない図書室で、不気味な笑い声が漏れる。
さっそく読みたい。今すぐ読みたい。
だがその前に、やらなければならないことが一つだけあった。
私は図書室の隅で縮こまっている、一人の若いメイドに声をかけた。
「そこの貴女」
「ひっ、はいぃぃっ!」
メイドは弾かれたように飛び上がり、直立不動の姿勢を取った。
「な、ななな、何でございましょうか、奥様! わ、私、何か粗相を……!?」
「いいえ。ただ、ここが暗いと言いたかっただけです」
「も、申し訳ございません! すぐに照明を……!」
「待ちなさい。魔導ランプを増やすだけでは非効率です」
私は窓の方を指差した。
重厚なベルベットのカーテンが、昼間だというのに半分以上閉められている。
「このカーテン、厚すぎて採光を妨げています。日中はレースのカーテンのみにし、自然光を取り入れなさい。その方が目にも優しいし、魔石の燃料費も削減できます」
「は、はい! すぐに!」
メイドは慌ててカーテンを開け放った。
柔らかな陽光が差し込み、図書室全体が明るくなる。
「それと、換気が不十分です。湿気は本の大敵。一日に二回、定時に窓を開けて空気を入れ替えなさい」
「かしこまりました!」
「最後に。貴女、先ほどからずっとそこで待機していますが、何をしているのですか?」
「え……あ、あの、奥様がご用命の際に、すぐに対応できるよう……」
「無駄です」
私はバッサリと言い捨てた。
「私が本を読んでいる間は、誰にも邪魔されたくありません。お茶のおかわりが必要なら自分でベルを鳴らします。貴女がそこに突っ立っている時間は、人的リソースの損失です」
「は、はあ……」
「その時間があるなら、他の仕事を片付けるか、あるいは休憩を取りなさい。疲れた人間がそばにいると、こちらの集中力が削がれます」
メイドは目を丸くした。
「きゅ、休憩……してよろしいのですか?」
「適度な休息は作業効率を上げます。行ってよし」
私が手を振ると、メイドは信じられないものを見るような目で私を見つめ、それから深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございます! 失礼いたします!」
彼女はスキップでもしそうな足取りで図書室を出て行った。
(ふぅ……これでやっと静かになった)
私は一番座り心地の良さそうなソファに沈み込み、本を開いた。
静寂。
快適な室温。
最高の椅子。
(……天国か)
私はページをめくる。
活字の海に溺れる快感。
これだ。私が求めていたのは、この時間なのだ。
***
それから数時間が経過した。
夕食の時間になり、私は渋々本を閉じて食堂へと向かった。
食堂には、すでにアイザック様が待っていた。
彼は私を見るなり、花が咲くような笑顔を向けた。
「やあ、ローゼン。屋敷での初日はどうだった? 退屈しなかったか?」
「退屈? まさか。時間が足りないくらいでした」
私は席に着きながら答えた。
「図書室の蔵書ラインナップは完璧です。ただ、分類法が少し古いのが気になりましたが」
「そうか。なら、君の好きなように並べ替えてくれて構わない」
「本当ですか? では、明日から十進分類法を導入します」
「ああ。君の色に染めてくれ」
会話が微妙に噛み合っていない気がするが、許可は得た。
前菜のスープが運ばれてくる。
給仕をするのは、先ほど図書室にいた若いメイドだ。
彼女はスープ皿を置く際、私にだけそっと小声で囁いた。
「奥様、先ほどはありがとうございました。おかげさまで、少し仮眠が取れました」
彼女の顔色は、昼間よりもずっと良くなっていた。
「それは何よりです。ミスが減るなら、それが一番です」
私が淡々と答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
それを見ていたアイザック様が、面白そうに眉を上げた。
「ほう。使用人があんなに自然に笑うとはな。何を魔法を使った?」
「魔法など使っていません。ただ、無駄な待機時間を削減し、休憩を推奨しただけです」
私はスープを一口飲み、続けた。
「この屋敷の使用人たちは、勤勉すぎます。あるいは、恐怖心から過剰労働をしている。それは長期的に見て、公爵家の損失になります」
「損失?」
「ええ。疲労は注意力を散漫にさせ、皿を割る、掃除を見落とすなどのミスを誘発します。さらに、過労で倒れられたら、新たな人材を雇って教育するコストがかかります」
私はナイフでパンを切りながら、力説した。
「ですから、私は料理長にも提案しました。『毎食フルコースを作る必要はない。私の昼食はサンドイッチで十分だ』と」
「……それで?」
「料理長は泣いていました。『手抜きをするわけにはいきません!』と。なので、『これは手抜きではない。カロリー過多による私の肥満防止と、貴方たちの食材ロスの削減という戦略的撤退だ』と説得しました」
アイザック様は、ポカンと口を開けて私を見ていた。
そして次の瞬間、テーブルを叩いて爆笑した。
「はっはっは! 戦略的撤退か! まさか、俺の屋敷で『働き方改革』が行われるとはな!」
「笑い事ではありません。貴方は経営者として、もっと人的資源の管理に目を向けるべきです」
「違いない。だが、俺は今まで厳しくすることこそが規律だと思っていた。……君はすごいな」
彼は笑い涙を拭いながら、熱っぽい瞳で私を見つめた。
「合理的で、冷徹で、けれど結果として誰よりも優しい」
「優しくはありません。効率を求めているだけです」
「そのツンとした態度も最高だ。……ああ、もっと罵ってくれ。『経営者失格だ』と」
「……食事中に変なスイッチを入れないでください」
私は呆れてため息をついた。
この人は、有能な騎士団長でありながら、私の前ではただの変人になる。
だが、不思議と不快ではなかった。
王太子殿下(元婚約者)との食事は、常に彼の自慢話を聞かされる接待のようなものだった。
それに比べて、この空間は居心地が良い。
私の意見を聞き入れ、肯定し、楽しんでくれる。
(……悪くない再就職先かもしれない)
そんなことを思ってしまった自分に、少しだけ警戒心を抱きつつ、私はメインディッシュの肉料理を口に運んだ。
***
食後。
私はサロンで食休みをしていた。
アイザック様は緊急の書類仕事があるとかで、執務室に籠もっている。
「失礼します、ローゼン様」
現れたのは、この屋敷を取り仕切る老執事、セバスチャンだった。
彼は銀のトレイに載せたハーブティーを、テーブルに置いた。
「……何か?」
私が視線を向けると、セバスチャンは居住まいを正した。
「お礼を申し上げたく、参上いたしました」
「お礼?」
「はい。本日の奥様の改革……使用人一同、感銘を受けております」
セバスチャンは深く頭を下げた。
「先代の公爵様が亡くなられてから、現当主様は常に気を張っておられました。『氷の公爵』などと呼ばれ、屋敷の中もどこか張り詰めた空気が漂っておりました。私どもも、粗相をしてはならぬと、常に緊張しておりました」
「……ふむ」
「しかし、今日、奥様がいらして……空気が変わりました。『効率』という言葉の下に、私どもを一人の人間として扱ってくださった」
セバスチャンが顔を上げると、その目には薄っすらと涙が浮かんでいた。
「皆、申しておりました。『あの方のためなら、喜んで働きたい』と。……私も同感でございます」
私はカップを持ち上げたまま、少し困惑した。
ただ自分のために環境を整えただけなのに、なぜか感謝されている。
これは……計算外だ。
「……勘違いしないでください、セバスチャン。私は、自分にとって快適な環境を作りたいだけです。貴方たちが倒れて、私の生活レベルが下がるのが嫌なだけなのです」
「ふふ、左様でございますか。……お優しい方だ」
「優しくなど……」
否定しようとしたが、セバスチャンの温かい眼差しに、言葉が詰まった。
「これからも、どうぞよろしくお願いいたします。……奥様」
彼は一礼して去っていった。
残された私は、温かいハーブティーを一口飲んだ。
カモミールの香りが、胸の奥をじんわりと温める。
(……調子が狂うわね)
悪役令嬢として恐れられ、嫌われることには慣れている。
だが、こうして正面から感謝されることには、全く免疫がない。
私はカップの縁で、少しだけ熱くなった頬を隠した。
*
翌朝。
私は小鳥のさえずりと共に目覚めた。
時計を見ると、午前9時。
「……勝った」
私は布団の中で拳を握りしめた。
早朝の叩き起こしがない。
アイザック様は約束を守り、私の睡眠時間を尊重してくれたのだ。
最高の気分でベッドから這い出し、ベルを鳴らす。
すぐにハンナと、昨日の若いメイドが入ってきた。
「おはようございます、奥様!」
二人の声が弾んでいる。
「おはよう。……朝食は部屋で摂ります」
「はい! サンドイッチとフルーツをご用意しております!」
手際よく支度が整えられていく。
私は着替えを済ませ、窓際のテーブルで優雅な朝食を楽しんだ。
これぞ、私が求めていた生活。
スローライフ。
そう確信した瞬間、扉がノックされた。
「ローゼン、入るぞ」
返事も待たずに、アイザック様が入ってきた。
彼は今日も騎士服に身を包み、眩しいほどのイケメンぶりを発揮している。
「おはよう、私の愛しい寝坊助さん」
「……おはようございます。何かご用ですか? 私はこれから、図書室の分類作業に取り掛かる予定なのですが」
「残念だが、その予定はキャンセルだ」
彼は悪びれもせずに言った。
「外出するぞ」
「は? 嫌です」
私は即答した。
「引きこもり生活二日目で外出など、言語道断です」
「まあそう言うな。君に必要なものだ」
「私に必要なのは、本と静寂と糖分だけです」
「ドレスだ」
アイザック様は私の言葉を遮った。
「来週、王城で夜会がある」
「……夜会?」
嫌な単語が聞こえた。
「はい、欠席します」
「残念ながら、強制参加だ。俺の婚約者としてのお披露目も兼ねている。それに……」
彼は少し声を潜め、真剣な表情になった。
「クラーク殿下が、何やら不穏な動きを見せているらしい。君を『側室』として取り戻すための根回しを始めたという情報が入った」
「……あのバカ王子、まだ諦めていないのですか」
「ああ。だからこそ、公の場で俺たちの仲を見せつけ、既成事実を叩きつける必要がある。『ローゼンは俺のものだ』とな」
アイザック様は私の手を取り、強引に立たせた。
「というわけで、デートだ。街へ行って、君に似合う最強の戦闘服(ドレス)を仕立てるぞ」
「……戦闘服?」
「そうだ。王城という戦場で、元婚約者と浮気相手を黙らせるための、最高に美しく、冷酷に見えるドレスだ」
彼の瞳が、楽しげに輝く。
「俺が選ぶ。君のその『鉄壁の無表情』が一番映える色をな」
私はため息をついた。
どうやら、本の整理は後回しになりそうだ。
けれど、あの粘着質な元婚約者を撃退するためなら、致し方ない。
「わかりました。……ただし、店までの移動中、馬車の中で本を読むことは許可してくださいね」
「もちろん。君が本に夢中で俺を無視する時間……プライスレスだ」
「……本当に、いい性格してますね」
こうして私は、ニート生活二日目にして、まさかのデート(という名の装備調達)に出かけることになったのである。
あなたにおすすめの小説
悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています
かきんとう
恋愛
王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。
磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。
その中心に、私は立っていた。
――今日、この瞬間のために。
「エレノア・フォン・リーベルト嬢」
高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。
誘拐された公爵令嬢ですが、なぜか皇帝に溺愛されています』
富士山麓
恋愛
舞踏会で王太子から婚約破棄を告げられそうになった瞬間――
目の前に現れたのは、馬に乗った仮面の皇帝だった。
そのまま攫われた公爵令嬢ビアンキーナは、誘拐されたはずなのに超VIP待遇。
一方、助けようともしなかった王太子は「無能」と嘲笑され、静かに失墜していく。
選ばれる側から、選ぶ側へ。
これは、誰も断罪せず、すべてを終わらせた令嬢の物語。
聖女様と間違って召喚された腐女子ですが、申し訳ないので仕事します!
碧桜
恋愛
私は花園美月。20歳。派遣期間が終わり無職となった日、馴染の古書店で顔面偏差値高スペックなイケメンに出会う。さらに、そこで美少女が穴に吸い込まれそうになっていたのを助けようとして、私は古書店のイケメンと共に穴に落ちてしまい、異世界へ―。実は、聖女様として召喚されようとしてた美少女の代わりに、地味でオタクな私が間違って来てしまった!
落ちたその先の世界で出会ったのは、私の推しキャラと見た目だけそっくりな王(仮)や美貌の側近、そして古書店から一緒に穴に落ちたイケメンの彼は、騎士様だった。3人ともすごい美形なのに、みな癖強すぎ難ありなイケメンばかり。
オタクで人見知りしてしまう私だけど、元の世界へ戻れるまで2週間、タダでお世話になるのは申し訳ないから、お城でメイドさんをすることにした。平和にお給料分の仕事をして、異世界観光して、2週間後自分の家へ帰るつもりだったのに、ドラゴンや悪い魔法使いとか出てきて、異能を使うイケメンの彼らとともに戦うはめに。聖女様の召喚の邪魔をしてしまったので、美少女ではありませんが、地味で腐女子ですが出来る限り、精一杯頑張ります。
ついでに無愛想で苦手と思っていた彼は、なかなかいい奴だったみたい。これは、恋など始まってしまう予感でしょうか!?
*カクヨムにて先に連載しているものを加筆・修正をおこなって掲載しております
自業自得じゃないですか?~前世の記憶持ち少女、キレる~
浅海 景
恋愛
前世の記憶があるジーナ。特に目立つこともなく平民として普通の生活を送るものの、本がない生活に不満を抱く。本を買うため前世知識を利用したことから、とある貴族の目に留まり貴族学園に通うことに。
本に釣られて入学したものの王子や侯爵令息に興味を持たれ、婚約者の座を狙う令嬢たちを敵に回す。本以外に興味のないジーナは、平穏な読書タイムを確保するために距離を取るが、とある事件をきっかけに最も大切なものを奪われることになり、キレたジーナは報復することを決めた。
※2024.8.5 番外編を2話追加しました!
聖女解任ですか?畏まりました(はい、喜んでっ!)
ゆきりん(安室 雪)
恋愛
私はマリア、職業は大聖女。ダグラス王国の聖女のトップだ。そんな私にある日災難(婚約者)が災難(難癖を付け)を呼び、聖女を解任された。やった〜っ!悩み事が全て無くなったから、2度と聖女の職には戻らないわよっ!?
元聖女がやっと手に入れた自由を満喫するお話しです。
すみっこ婚約破棄同盟〜王子様による婚約破棄のすみっこで〜
まりー
恋愛
ある夜会で王子とその側近達の婚約破棄が行われた。腕に恋人をぶら下げて。所謂、王道断罪劇である。
でもこのお話の主役は麗しのヒロインでも、キラキラ王子でも、学園一の秀才や騎士団期待のホープでもない。これは王道のすみっこで行われた、弱小貴族と商人の子息たちの婚約破棄のお話である。
_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _
「もう俺ら、恋なんてしない!」と言う小学生の息子の話を参考に書きました。登場人物の男子たちの頭は小学生レベルだと思って読んでください。
「身分が違う」って言ったのはそっちでしょ?今さら泣いても遅いです
ほーみ
恋愛
「お前のような平民と、未来を共にできるわけがない」
その言葉を最後に、彼は私を冷たく突き放した。
──王都の学園で、私は彼と出会った。
彼の名はレオン・ハイゼル。王国の名門貴族家の嫡男であり、次期宰相候補とまで呼ばれる才子。
貧しい出自ながら奨学生として入学した私・リリアは、最初こそ彼に軽んじられていた。けれど成績で彼を追い抜き、共に課題をこなすうちに、いつしか惹かれ合うようになったのだ。