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公爵邸での生活初日。
荷解きは優秀な侍女ハンナの手によって、瞬く間に完了した。
私は念願の図書室へと足を運んだ。
「……素晴らしい」
扉を開けた瞬間、古紙とインクの香りが鼻孔をくすぐる。
壁一面、いや天井まで届く本棚にぎっしりと詰め込まれた書物の数々。
歴史書、魔導書、哲学書、そして大衆小説まで。
国立図書館に匹敵する蔵書量だ。
「ここにある本は全て、君のものだ」
アイザック様が言っていた言葉を思い出し、私は口元が緩むのを抑えきれなかった。
(これが……これら全てが、読み放題……!)
私は震える手で、背表紙の一冊に触れた。
『古代ルーン文字の変遷と応用』
絶版になった希少本だ。市場価格なら金貨100枚は下らない。
「ふふ……ふふふ……」
誰もいない図書室で、不気味な笑い声が漏れる。
さっそく読みたい。今すぐ読みたい。
だがその前に、やらなければならないことが一つだけあった。
私は図書室の隅で縮こまっている、一人の若いメイドに声をかけた。
「そこの貴女」
「ひっ、はいぃぃっ!」
メイドは弾かれたように飛び上がり、直立不動の姿勢を取った。
「な、ななな、何でございましょうか、奥様! わ、私、何か粗相を……!?」
「いいえ。ただ、ここが暗いと言いたかっただけです」
「も、申し訳ございません! すぐに照明を……!」
「待ちなさい。魔導ランプを増やすだけでは非効率です」
私は窓の方を指差した。
重厚なベルベットのカーテンが、昼間だというのに半分以上閉められている。
「このカーテン、厚すぎて採光を妨げています。日中はレースのカーテンのみにし、自然光を取り入れなさい。その方が目にも優しいし、魔石の燃料費も削減できます」
「は、はい! すぐに!」
メイドは慌ててカーテンを開け放った。
柔らかな陽光が差し込み、図書室全体が明るくなる。
「それと、換気が不十分です。湿気は本の大敵。一日に二回、定時に窓を開けて空気を入れ替えなさい」
「かしこまりました!」
「最後に。貴女、先ほどからずっとそこで待機していますが、何をしているのですか?」
「え……あ、あの、奥様がご用命の際に、すぐに対応できるよう……」
「無駄です」
私はバッサリと言い捨てた。
「私が本を読んでいる間は、誰にも邪魔されたくありません。お茶のおかわりが必要なら自分でベルを鳴らします。貴女がそこに突っ立っている時間は、人的リソースの損失です」
「は、はあ……」
「その時間があるなら、他の仕事を片付けるか、あるいは休憩を取りなさい。疲れた人間がそばにいると、こちらの集中力が削がれます」
メイドは目を丸くした。
「きゅ、休憩……してよろしいのですか?」
「適度な休息は作業効率を上げます。行ってよし」
私が手を振ると、メイドは信じられないものを見るような目で私を見つめ、それから深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございます! 失礼いたします!」
彼女はスキップでもしそうな足取りで図書室を出て行った。
(ふぅ……これでやっと静かになった)
私は一番座り心地の良さそうなソファに沈み込み、本を開いた。
静寂。
快適な室温。
最高の椅子。
(……天国か)
私はページをめくる。
活字の海に溺れる快感。
これだ。私が求めていたのは、この時間なのだ。
***
それから数時間が経過した。
夕食の時間になり、私は渋々本を閉じて食堂へと向かった。
食堂には、すでにアイザック様が待っていた。
彼は私を見るなり、花が咲くような笑顔を向けた。
「やあ、ローゼン。屋敷での初日はどうだった? 退屈しなかったか?」
「退屈? まさか。時間が足りないくらいでした」
私は席に着きながら答えた。
「図書室の蔵書ラインナップは完璧です。ただ、分類法が少し古いのが気になりましたが」
「そうか。なら、君の好きなように並べ替えてくれて構わない」
「本当ですか? では、明日から十進分類法を導入します」
「ああ。君の色に染めてくれ」
会話が微妙に噛み合っていない気がするが、許可は得た。
前菜のスープが運ばれてくる。
給仕をするのは、先ほど図書室にいた若いメイドだ。
彼女はスープ皿を置く際、私にだけそっと小声で囁いた。
「奥様、先ほどはありがとうございました。おかげさまで、少し仮眠が取れました」
彼女の顔色は、昼間よりもずっと良くなっていた。
「それは何よりです。ミスが減るなら、それが一番です」
私が淡々と答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
それを見ていたアイザック様が、面白そうに眉を上げた。
「ほう。使用人があんなに自然に笑うとはな。何を魔法を使った?」
「魔法など使っていません。ただ、無駄な待機時間を削減し、休憩を推奨しただけです」
私はスープを一口飲み、続けた。
「この屋敷の使用人たちは、勤勉すぎます。あるいは、恐怖心から過剰労働をしている。それは長期的に見て、公爵家の損失になります」
「損失?」
「ええ。疲労は注意力を散漫にさせ、皿を割る、掃除を見落とすなどのミスを誘発します。さらに、過労で倒れられたら、新たな人材を雇って教育するコストがかかります」
私はナイフでパンを切りながら、力説した。
「ですから、私は料理長にも提案しました。『毎食フルコースを作る必要はない。私の昼食はサンドイッチで十分だ』と」
「……それで?」
「料理長は泣いていました。『手抜きをするわけにはいきません!』と。なので、『これは手抜きではない。カロリー過多による私の肥満防止と、貴方たちの食材ロスの削減という戦略的撤退だ』と説得しました」
アイザック様は、ポカンと口を開けて私を見ていた。
そして次の瞬間、テーブルを叩いて爆笑した。
「はっはっは! 戦略的撤退か! まさか、俺の屋敷で『働き方改革』が行われるとはな!」
「笑い事ではありません。貴方は経営者として、もっと人的資源の管理に目を向けるべきです」
「違いない。だが、俺は今まで厳しくすることこそが規律だと思っていた。……君はすごいな」
彼は笑い涙を拭いながら、熱っぽい瞳で私を見つめた。
「合理的で、冷徹で、けれど結果として誰よりも優しい」
「優しくはありません。効率を求めているだけです」
「そのツンとした態度も最高だ。……ああ、もっと罵ってくれ。『経営者失格だ』と」
「……食事中に変なスイッチを入れないでください」
私は呆れてため息をついた。
この人は、有能な騎士団長でありながら、私の前ではただの変人になる。
だが、不思議と不快ではなかった。
王太子殿下(元婚約者)との食事は、常に彼の自慢話を聞かされる接待のようなものだった。
それに比べて、この空間は居心地が良い。
私の意見を聞き入れ、肯定し、楽しんでくれる。
(……悪くない再就職先かもしれない)
そんなことを思ってしまった自分に、少しだけ警戒心を抱きつつ、私はメインディッシュの肉料理を口に運んだ。
***
食後。
私はサロンで食休みをしていた。
アイザック様は緊急の書類仕事があるとかで、執務室に籠もっている。
「失礼します、ローゼン様」
現れたのは、この屋敷を取り仕切る老執事、セバスチャンだった。
彼は銀のトレイに載せたハーブティーを、テーブルに置いた。
「……何か?」
私が視線を向けると、セバスチャンは居住まいを正した。
「お礼を申し上げたく、参上いたしました」
「お礼?」
「はい。本日の奥様の改革……使用人一同、感銘を受けております」
セバスチャンは深く頭を下げた。
「先代の公爵様が亡くなられてから、現当主様は常に気を張っておられました。『氷の公爵』などと呼ばれ、屋敷の中もどこか張り詰めた空気が漂っておりました。私どもも、粗相をしてはならぬと、常に緊張しておりました」
「……ふむ」
「しかし、今日、奥様がいらして……空気が変わりました。『効率』という言葉の下に、私どもを一人の人間として扱ってくださった」
セバスチャンが顔を上げると、その目には薄っすらと涙が浮かんでいた。
「皆、申しておりました。『あの方のためなら、喜んで働きたい』と。……私も同感でございます」
私はカップを持ち上げたまま、少し困惑した。
ただ自分のために環境を整えただけなのに、なぜか感謝されている。
これは……計算外だ。
「……勘違いしないでください、セバスチャン。私は、自分にとって快適な環境を作りたいだけです。貴方たちが倒れて、私の生活レベルが下がるのが嫌なだけなのです」
「ふふ、左様でございますか。……お優しい方だ」
「優しくなど……」
否定しようとしたが、セバスチャンの温かい眼差しに、言葉が詰まった。
「これからも、どうぞよろしくお願いいたします。……奥様」
彼は一礼して去っていった。
残された私は、温かいハーブティーを一口飲んだ。
カモミールの香りが、胸の奥をじんわりと温める。
(……調子が狂うわね)
悪役令嬢として恐れられ、嫌われることには慣れている。
だが、こうして正面から感謝されることには、全く免疫がない。
私はカップの縁で、少しだけ熱くなった頬を隠した。
*
翌朝。
私は小鳥のさえずりと共に目覚めた。
時計を見ると、午前9時。
「……勝った」
私は布団の中で拳を握りしめた。
早朝の叩き起こしがない。
アイザック様は約束を守り、私の睡眠時間を尊重してくれたのだ。
最高の気分でベッドから這い出し、ベルを鳴らす。
すぐにハンナと、昨日の若いメイドが入ってきた。
「おはようございます、奥様!」
二人の声が弾んでいる。
「おはよう。……朝食は部屋で摂ります」
「はい! サンドイッチとフルーツをご用意しております!」
手際よく支度が整えられていく。
私は着替えを済ませ、窓際のテーブルで優雅な朝食を楽しんだ。
これぞ、私が求めていた生活。
スローライフ。
そう確信した瞬間、扉がノックされた。
「ローゼン、入るぞ」
返事も待たずに、アイザック様が入ってきた。
彼は今日も騎士服に身を包み、眩しいほどのイケメンぶりを発揮している。
「おはよう、私の愛しい寝坊助さん」
「……おはようございます。何かご用ですか? 私はこれから、図書室の分類作業に取り掛かる予定なのですが」
「残念だが、その予定はキャンセルだ」
彼は悪びれもせずに言った。
「外出するぞ」
「は? 嫌です」
私は即答した。
「引きこもり生活二日目で外出など、言語道断です」
「まあそう言うな。君に必要なものだ」
「私に必要なのは、本と静寂と糖分だけです」
「ドレスだ」
アイザック様は私の言葉を遮った。
「来週、王城で夜会がある」
「……夜会?」
嫌な単語が聞こえた。
「はい、欠席します」
「残念ながら、強制参加だ。俺の婚約者としてのお披露目も兼ねている。それに……」
彼は少し声を潜め、真剣な表情になった。
「クラーク殿下が、何やら不穏な動きを見せているらしい。君を『側室』として取り戻すための根回しを始めたという情報が入った」
「……あのバカ王子、まだ諦めていないのですか」
「ああ。だからこそ、公の場で俺たちの仲を見せつけ、既成事実を叩きつける必要がある。『ローゼンは俺のものだ』とな」
アイザック様は私の手を取り、強引に立たせた。
「というわけで、デートだ。街へ行って、君に似合う最強の戦闘服(ドレス)を仕立てるぞ」
「……戦闘服?」
「そうだ。王城という戦場で、元婚約者と浮気相手を黙らせるための、最高に美しく、冷酷に見えるドレスだ」
彼の瞳が、楽しげに輝く。
「俺が選ぶ。君のその『鉄壁の無表情』が一番映える色をな」
私はため息をついた。
どうやら、本の整理は後回しになりそうだ。
けれど、あの粘着質な元婚約者を撃退するためなら、致し方ない。
「わかりました。……ただし、店までの移動中、馬車の中で本を読むことは許可してくださいね」
「もちろん。君が本に夢中で俺を無視する時間……プライスレスだ」
「……本当に、いい性格してますね」
こうして私は、ニート生活二日目にして、まさかのデート(という名の装備調達)に出かけることになったのである。
荷解きは優秀な侍女ハンナの手によって、瞬く間に完了した。
私は念願の図書室へと足を運んだ。
「……素晴らしい」
扉を開けた瞬間、古紙とインクの香りが鼻孔をくすぐる。
壁一面、いや天井まで届く本棚にぎっしりと詰め込まれた書物の数々。
歴史書、魔導書、哲学書、そして大衆小説まで。
国立図書館に匹敵する蔵書量だ。
「ここにある本は全て、君のものだ」
アイザック様が言っていた言葉を思い出し、私は口元が緩むのを抑えきれなかった。
(これが……これら全てが、読み放題……!)
私は震える手で、背表紙の一冊に触れた。
『古代ルーン文字の変遷と応用』
絶版になった希少本だ。市場価格なら金貨100枚は下らない。
「ふふ……ふふふ……」
誰もいない図書室で、不気味な笑い声が漏れる。
さっそく読みたい。今すぐ読みたい。
だがその前に、やらなければならないことが一つだけあった。
私は図書室の隅で縮こまっている、一人の若いメイドに声をかけた。
「そこの貴女」
「ひっ、はいぃぃっ!」
メイドは弾かれたように飛び上がり、直立不動の姿勢を取った。
「な、ななな、何でございましょうか、奥様! わ、私、何か粗相を……!?」
「いいえ。ただ、ここが暗いと言いたかっただけです」
「も、申し訳ございません! すぐに照明を……!」
「待ちなさい。魔導ランプを増やすだけでは非効率です」
私は窓の方を指差した。
重厚なベルベットのカーテンが、昼間だというのに半分以上閉められている。
「このカーテン、厚すぎて採光を妨げています。日中はレースのカーテンのみにし、自然光を取り入れなさい。その方が目にも優しいし、魔石の燃料費も削減できます」
「は、はい! すぐに!」
メイドは慌ててカーテンを開け放った。
柔らかな陽光が差し込み、図書室全体が明るくなる。
「それと、換気が不十分です。湿気は本の大敵。一日に二回、定時に窓を開けて空気を入れ替えなさい」
「かしこまりました!」
「最後に。貴女、先ほどからずっとそこで待機していますが、何をしているのですか?」
「え……あ、あの、奥様がご用命の際に、すぐに対応できるよう……」
「無駄です」
私はバッサリと言い捨てた。
「私が本を読んでいる間は、誰にも邪魔されたくありません。お茶のおかわりが必要なら自分でベルを鳴らします。貴女がそこに突っ立っている時間は、人的リソースの損失です」
「は、はあ……」
「その時間があるなら、他の仕事を片付けるか、あるいは休憩を取りなさい。疲れた人間がそばにいると、こちらの集中力が削がれます」
メイドは目を丸くした。
「きゅ、休憩……してよろしいのですか?」
「適度な休息は作業効率を上げます。行ってよし」
私が手を振ると、メイドは信じられないものを見るような目で私を見つめ、それから深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございます! 失礼いたします!」
彼女はスキップでもしそうな足取りで図書室を出て行った。
(ふぅ……これでやっと静かになった)
私は一番座り心地の良さそうなソファに沈み込み、本を開いた。
静寂。
快適な室温。
最高の椅子。
(……天国か)
私はページをめくる。
活字の海に溺れる快感。
これだ。私が求めていたのは、この時間なのだ。
***
それから数時間が経過した。
夕食の時間になり、私は渋々本を閉じて食堂へと向かった。
食堂には、すでにアイザック様が待っていた。
彼は私を見るなり、花が咲くような笑顔を向けた。
「やあ、ローゼン。屋敷での初日はどうだった? 退屈しなかったか?」
「退屈? まさか。時間が足りないくらいでした」
私は席に着きながら答えた。
「図書室の蔵書ラインナップは完璧です。ただ、分類法が少し古いのが気になりましたが」
「そうか。なら、君の好きなように並べ替えてくれて構わない」
「本当ですか? では、明日から十進分類法を導入します」
「ああ。君の色に染めてくれ」
会話が微妙に噛み合っていない気がするが、許可は得た。
前菜のスープが運ばれてくる。
給仕をするのは、先ほど図書室にいた若いメイドだ。
彼女はスープ皿を置く際、私にだけそっと小声で囁いた。
「奥様、先ほどはありがとうございました。おかげさまで、少し仮眠が取れました」
彼女の顔色は、昼間よりもずっと良くなっていた。
「それは何よりです。ミスが減るなら、それが一番です」
私が淡々と答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
それを見ていたアイザック様が、面白そうに眉を上げた。
「ほう。使用人があんなに自然に笑うとはな。何を魔法を使った?」
「魔法など使っていません。ただ、無駄な待機時間を削減し、休憩を推奨しただけです」
私はスープを一口飲み、続けた。
「この屋敷の使用人たちは、勤勉すぎます。あるいは、恐怖心から過剰労働をしている。それは長期的に見て、公爵家の損失になります」
「損失?」
「ええ。疲労は注意力を散漫にさせ、皿を割る、掃除を見落とすなどのミスを誘発します。さらに、過労で倒れられたら、新たな人材を雇って教育するコストがかかります」
私はナイフでパンを切りながら、力説した。
「ですから、私は料理長にも提案しました。『毎食フルコースを作る必要はない。私の昼食はサンドイッチで十分だ』と」
「……それで?」
「料理長は泣いていました。『手抜きをするわけにはいきません!』と。なので、『これは手抜きではない。カロリー過多による私の肥満防止と、貴方たちの食材ロスの削減という戦略的撤退だ』と説得しました」
アイザック様は、ポカンと口を開けて私を見ていた。
そして次の瞬間、テーブルを叩いて爆笑した。
「はっはっは! 戦略的撤退か! まさか、俺の屋敷で『働き方改革』が行われるとはな!」
「笑い事ではありません。貴方は経営者として、もっと人的資源の管理に目を向けるべきです」
「違いない。だが、俺は今まで厳しくすることこそが規律だと思っていた。……君はすごいな」
彼は笑い涙を拭いながら、熱っぽい瞳で私を見つめた。
「合理的で、冷徹で、けれど結果として誰よりも優しい」
「優しくはありません。効率を求めているだけです」
「そのツンとした態度も最高だ。……ああ、もっと罵ってくれ。『経営者失格だ』と」
「……食事中に変なスイッチを入れないでください」
私は呆れてため息をついた。
この人は、有能な騎士団長でありながら、私の前ではただの変人になる。
だが、不思議と不快ではなかった。
王太子殿下(元婚約者)との食事は、常に彼の自慢話を聞かされる接待のようなものだった。
それに比べて、この空間は居心地が良い。
私の意見を聞き入れ、肯定し、楽しんでくれる。
(……悪くない再就職先かもしれない)
そんなことを思ってしまった自分に、少しだけ警戒心を抱きつつ、私はメインディッシュの肉料理を口に運んだ。
***
食後。
私はサロンで食休みをしていた。
アイザック様は緊急の書類仕事があるとかで、執務室に籠もっている。
「失礼します、ローゼン様」
現れたのは、この屋敷を取り仕切る老執事、セバスチャンだった。
彼は銀のトレイに載せたハーブティーを、テーブルに置いた。
「……何か?」
私が視線を向けると、セバスチャンは居住まいを正した。
「お礼を申し上げたく、参上いたしました」
「お礼?」
「はい。本日の奥様の改革……使用人一同、感銘を受けております」
セバスチャンは深く頭を下げた。
「先代の公爵様が亡くなられてから、現当主様は常に気を張っておられました。『氷の公爵』などと呼ばれ、屋敷の中もどこか張り詰めた空気が漂っておりました。私どもも、粗相をしてはならぬと、常に緊張しておりました」
「……ふむ」
「しかし、今日、奥様がいらして……空気が変わりました。『効率』という言葉の下に、私どもを一人の人間として扱ってくださった」
セバスチャンが顔を上げると、その目には薄っすらと涙が浮かんでいた。
「皆、申しておりました。『あの方のためなら、喜んで働きたい』と。……私も同感でございます」
私はカップを持ち上げたまま、少し困惑した。
ただ自分のために環境を整えただけなのに、なぜか感謝されている。
これは……計算外だ。
「……勘違いしないでください、セバスチャン。私は、自分にとって快適な環境を作りたいだけです。貴方たちが倒れて、私の生活レベルが下がるのが嫌なだけなのです」
「ふふ、左様でございますか。……お優しい方だ」
「優しくなど……」
否定しようとしたが、セバスチャンの温かい眼差しに、言葉が詰まった。
「これからも、どうぞよろしくお願いいたします。……奥様」
彼は一礼して去っていった。
残された私は、温かいハーブティーを一口飲んだ。
カモミールの香りが、胸の奥をじんわりと温める。
(……調子が狂うわね)
悪役令嬢として恐れられ、嫌われることには慣れている。
だが、こうして正面から感謝されることには、全く免疫がない。
私はカップの縁で、少しだけ熱くなった頬を隠した。
*
翌朝。
私は小鳥のさえずりと共に目覚めた。
時計を見ると、午前9時。
「……勝った」
私は布団の中で拳を握りしめた。
早朝の叩き起こしがない。
アイザック様は約束を守り、私の睡眠時間を尊重してくれたのだ。
最高の気分でベッドから這い出し、ベルを鳴らす。
すぐにハンナと、昨日の若いメイドが入ってきた。
「おはようございます、奥様!」
二人の声が弾んでいる。
「おはよう。……朝食は部屋で摂ります」
「はい! サンドイッチとフルーツをご用意しております!」
手際よく支度が整えられていく。
私は着替えを済ませ、窓際のテーブルで優雅な朝食を楽しんだ。
これぞ、私が求めていた生活。
スローライフ。
そう確信した瞬間、扉がノックされた。
「ローゼン、入るぞ」
返事も待たずに、アイザック様が入ってきた。
彼は今日も騎士服に身を包み、眩しいほどのイケメンぶりを発揮している。
「おはよう、私の愛しい寝坊助さん」
「……おはようございます。何かご用ですか? 私はこれから、図書室の分類作業に取り掛かる予定なのですが」
「残念だが、その予定はキャンセルだ」
彼は悪びれもせずに言った。
「外出するぞ」
「は? 嫌です」
私は即答した。
「引きこもり生活二日目で外出など、言語道断です」
「まあそう言うな。君に必要なものだ」
「私に必要なのは、本と静寂と糖分だけです」
「ドレスだ」
アイザック様は私の言葉を遮った。
「来週、王城で夜会がある」
「……夜会?」
嫌な単語が聞こえた。
「はい、欠席します」
「残念ながら、強制参加だ。俺の婚約者としてのお披露目も兼ねている。それに……」
彼は少し声を潜め、真剣な表情になった。
「クラーク殿下が、何やら不穏な動きを見せているらしい。君を『側室』として取り戻すための根回しを始めたという情報が入った」
「……あのバカ王子、まだ諦めていないのですか」
「ああ。だからこそ、公の場で俺たちの仲を見せつけ、既成事実を叩きつける必要がある。『ローゼンは俺のものだ』とな」
アイザック様は私の手を取り、強引に立たせた。
「というわけで、デートだ。街へ行って、君に似合う最強の戦闘服(ドレス)を仕立てるぞ」
「……戦闘服?」
「そうだ。王城という戦場で、元婚約者と浮気相手を黙らせるための、最高に美しく、冷酷に見えるドレスだ」
彼の瞳が、楽しげに輝く。
「俺が選ぶ。君のその『鉄壁の無表情』が一番映える色をな」
私はため息をついた。
どうやら、本の整理は後回しになりそうだ。
けれど、あの粘着質な元婚約者を撃退するためなら、致し方ない。
「わかりました。……ただし、店までの移動中、馬車の中で本を読むことは許可してくださいね」
「もちろん。君が本に夢中で俺を無視する時間……プライスレスだ」
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