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「……開けろ、リューン! 私が直々に様子を見に来てやったのだぞ!」
公爵家の自室前。アリスティア様の傲慢な声が、厚い扉越しに響き渡る。
(……マズイ。マズすぎるわ!)
私は今、隠し通路の出口である本棚の裏側で、膝をついて激しく呼吸を整えていた。
泥だらけのローブ、乱れた髪。おまけに手には、シエル様の「安眠小麦粉(物理)」が付着したままだ。
「お、お嬢様は現在、ショックのあまり寝込んでおいでです! どなたともお会いになりたくないと……!」
扉の向こうで、侍女のアニスが必死に叫んでいるのが聞こえる。
「フン、どうせ私の愛が恋しくて泣き腫らしているのだろう。顔を見れば少しは元気が出るというものだ。どけ、私が開ける!」
「ああっ、いけません! 殿下、強引に開けるのは淑女の部屋に対して不敬ですわ!」
ガチャガチャとドアノブが回る音。
私は音を立てないように、しかし音速に近い動きで本棚の隙間から這い出した。
「(アニス、今よ!)」
私は声を出さずに口の動きだけで合図を送り、瞬時にローブを脱ぎ捨ててベッドへダイブした。
「……失礼するぞ!」
次の瞬間、扉が乱暴に開かれた。
そこには、勝ち誇ったような顔のアリスティア様と、冷や汗を滝のように流すアニス、そして困惑顔の父が立っていた。
私はベッドの中で毛布を頭から被り、わざとらしく肩を震わせる。
「……うっ、うう……。アリスティア様……どうして、いらしたのですか……」
「ふはは! やはり泣いていたか。私が他の女を選んだことが、そんなに身を切られるほど辛いか」
アリスティア様が、大股でベッドのそばまで歩み寄る。
私は毛布の隙間から、片目だけを出して彼を睨み……いや、見つめた。
実際には、さっきの全力疾走のせいで、心臓がバクバクいっていて喋るのも一苦労なのだが。
「……ええ、そうですわ。胸が苦しくて、もう息も絶え絶えです……(走りすぎて)」
「だろうな。だが安心しろ、リューン。お前が心から反省し、マリアンヌに謝罪するならば、側室として迎えてやらんこともないぞ」
(側室!? この男、どこまで図々しいのかしら!)
私は心の中で、アリスティア様を百回ほど雑巾絞りにしたが、表向きは「絶望に打ちひしがれた令嬢」を演じ続けた。
「……それは、ありがたいお言葉ですわ。でも、今の私は……殿下の眩しさに耐えられません。お願いです、お引き取りください。……ううっ」
私は再び毛布に潜り込み、激しくむせた。
「お、おい、大丈夫か? ……ふむ、顔色が酷く赤いな。熱でもあるのか?」
(それは走ってきた直後だからよ!)
「殿下、お嬢様は本当に衰弱しておいでなのです! どうか、今日はお引き取りを!」
アニスが必死にアリスティア様を部屋の外へ押し出す。
「……フン、仕方のない女だ。これに懲りたら、二度と私に逆らうなよ」
アリスティア様は、満足げに鼻を鳴らして去っていった。
扉が閉まり、廊下から足音が消えた瞬間。
私はベッドから跳ね起き、窓を全開にして夜風を浴びた。
「プハァッ! 死ぬかと思ったわ! あの男、自分の顔が特効薬だとでも思っているのかしら。猛毒以外の何物でもないのに!」
「お嬢様! 本当に心臓に悪いです! ……というか、その靴の泥は何ですか!?」
アニスが悲鳴を上げながら、私の足元を指差した。
「ああ、これ? ちょっとシエル様の『慈愛の現場』をパトロールしてきた代償よ」
私は椅子に座り、泥だらけの靴を脱ぎ捨てながら、うっとりとした表情を浮かべた。
「アニス、聞いて。シエル様、孤児院で子供たちを寝かしつけていらしたの。その姿が、まるで地上に降りた天使……いいえ、聖母そのものだったわ」
「……で、その天使の目の前で、お嬢様は男たちを小麦粉でぶっ飛ばしたんですか?」
「ぶっ飛ばしたんじゃないわ。不純物を排除しただけよ。……あ。でも、名前を聞かれてつい『ブルーベリー』なんて名乗っちゃった」
「ブルーベリー?」
アニスが、本気で心配そうな目で私を見た。
「お嬢様。もう一度言います。……本当に、お医者様を呼びましょうか?」
「失礼ね。シエル様の瞳が青いから、ベリーにしたのよ。……ああ、でも。彼、私のこと『気になっていた』って言ってくださったわ」
私は自分の頬を両手で挟み、幸せの余韻に浸った。
「不審者として、ですよね?」
「不審者だって、記憶に残れば勝ちよ! ゼロとイチの間には、深くて暗い、埋められない溝があるの。今の私は、シエル様にとって『イチ(変な奴)』になったのよ!」
一方、王宮の自室に戻ったシエル様は。
窓の外に広がる夜の街を見つめ、指先で自分の唇をなぞっていた。
「……ブルーベリー」
その名は、彼の静かな生活に、小さな、けれど消えない波紋を広げていた。
「あんなに必死に僕を守ろうとして……。あの目は、兄様を見る時の冷たい目とは、まるで違っていた」
シエル様の脳裏に、眼鏡の奥で情熱的に輝いていた「ブルーベリー」の瞳が焼き付いて離れない。
「……公爵令嬢リューン・ド・ラ・メール。……君、本当は一体何を考えているんだ?」
シエル様が、初めて「リューン」という個人の本質に興味を抱いた瞬間であった。
公爵家の自室前。アリスティア様の傲慢な声が、厚い扉越しに響き渡る。
(……マズイ。マズすぎるわ!)
私は今、隠し通路の出口である本棚の裏側で、膝をついて激しく呼吸を整えていた。
泥だらけのローブ、乱れた髪。おまけに手には、シエル様の「安眠小麦粉(物理)」が付着したままだ。
「お、お嬢様は現在、ショックのあまり寝込んでおいでです! どなたともお会いになりたくないと……!」
扉の向こうで、侍女のアニスが必死に叫んでいるのが聞こえる。
「フン、どうせ私の愛が恋しくて泣き腫らしているのだろう。顔を見れば少しは元気が出るというものだ。どけ、私が開ける!」
「ああっ、いけません! 殿下、強引に開けるのは淑女の部屋に対して不敬ですわ!」
ガチャガチャとドアノブが回る音。
私は音を立てないように、しかし音速に近い動きで本棚の隙間から這い出した。
「(アニス、今よ!)」
私は声を出さずに口の動きだけで合図を送り、瞬時にローブを脱ぎ捨ててベッドへダイブした。
「……失礼するぞ!」
次の瞬間、扉が乱暴に開かれた。
そこには、勝ち誇ったような顔のアリスティア様と、冷や汗を滝のように流すアニス、そして困惑顔の父が立っていた。
私はベッドの中で毛布を頭から被り、わざとらしく肩を震わせる。
「……うっ、うう……。アリスティア様……どうして、いらしたのですか……」
「ふはは! やはり泣いていたか。私が他の女を選んだことが、そんなに身を切られるほど辛いか」
アリスティア様が、大股でベッドのそばまで歩み寄る。
私は毛布の隙間から、片目だけを出して彼を睨み……いや、見つめた。
実際には、さっきの全力疾走のせいで、心臓がバクバクいっていて喋るのも一苦労なのだが。
「……ええ、そうですわ。胸が苦しくて、もう息も絶え絶えです……(走りすぎて)」
「だろうな。だが安心しろ、リューン。お前が心から反省し、マリアンヌに謝罪するならば、側室として迎えてやらんこともないぞ」
(側室!? この男、どこまで図々しいのかしら!)
私は心の中で、アリスティア様を百回ほど雑巾絞りにしたが、表向きは「絶望に打ちひしがれた令嬢」を演じ続けた。
「……それは、ありがたいお言葉ですわ。でも、今の私は……殿下の眩しさに耐えられません。お願いです、お引き取りください。……ううっ」
私は再び毛布に潜り込み、激しくむせた。
「お、おい、大丈夫か? ……ふむ、顔色が酷く赤いな。熱でもあるのか?」
(それは走ってきた直後だからよ!)
「殿下、お嬢様は本当に衰弱しておいでなのです! どうか、今日はお引き取りを!」
アニスが必死にアリスティア様を部屋の外へ押し出す。
「……フン、仕方のない女だ。これに懲りたら、二度と私に逆らうなよ」
アリスティア様は、満足げに鼻を鳴らして去っていった。
扉が閉まり、廊下から足音が消えた瞬間。
私はベッドから跳ね起き、窓を全開にして夜風を浴びた。
「プハァッ! 死ぬかと思ったわ! あの男、自分の顔が特効薬だとでも思っているのかしら。猛毒以外の何物でもないのに!」
「お嬢様! 本当に心臓に悪いです! ……というか、その靴の泥は何ですか!?」
アニスが悲鳴を上げながら、私の足元を指差した。
「ああ、これ? ちょっとシエル様の『慈愛の現場』をパトロールしてきた代償よ」
私は椅子に座り、泥だらけの靴を脱ぎ捨てながら、うっとりとした表情を浮かべた。
「アニス、聞いて。シエル様、孤児院で子供たちを寝かしつけていらしたの。その姿が、まるで地上に降りた天使……いいえ、聖母そのものだったわ」
「……で、その天使の目の前で、お嬢様は男たちを小麦粉でぶっ飛ばしたんですか?」
「ぶっ飛ばしたんじゃないわ。不純物を排除しただけよ。……あ。でも、名前を聞かれてつい『ブルーベリー』なんて名乗っちゃった」
「ブルーベリー?」
アニスが、本気で心配そうな目で私を見た。
「お嬢様。もう一度言います。……本当に、お医者様を呼びましょうか?」
「失礼ね。シエル様の瞳が青いから、ベリーにしたのよ。……ああ、でも。彼、私のこと『気になっていた』って言ってくださったわ」
私は自分の頬を両手で挟み、幸せの余韻に浸った。
「不審者として、ですよね?」
「不審者だって、記憶に残れば勝ちよ! ゼロとイチの間には、深くて暗い、埋められない溝があるの。今の私は、シエル様にとって『イチ(変な奴)』になったのよ!」
一方、王宮の自室に戻ったシエル様は。
窓の外に広がる夜の街を見つめ、指先で自分の唇をなぞっていた。
「……ブルーベリー」
その名は、彼の静かな生活に、小さな、けれど消えない波紋を広げていた。
「あんなに必死に僕を守ろうとして……。あの目は、兄様を見る時の冷たい目とは、まるで違っていた」
シエル様の脳裏に、眼鏡の奥で情熱的に輝いていた「ブルーベリー」の瞳が焼き付いて離れない。
「……公爵令嬢リューン・ド・ラ・メール。……君、本当は一体何を考えているんだ?」
シエル様が、初めて「リューン」という個人の本質に興味を抱いた瞬間であった。
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